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「おや、いらっしゃい。どうぞ、奥の席へ」
もうここには来ないつもりだった。あの日にマスターにもはっきりそう言ったはずなのに、彼は意外そうな顔をしただけですぐに奥の席を勧めてくれた。
相当に思いつめた表情をしていたのかもしれない、人に聞かれたくないような大事な話をすることをマスターは何となく察しているようだった。
「コーヒーをお願い出来ますか? 前に淹れてもらった、あの味が恋しくなったんです」
「……それはどうも。彼ももうすぐ、ここに来ると思いますよ」
「そう、ですか」
こうしてここに来るまで、それなりに葛藤はあった。奥野君は協力してもいいと言ってくれたけれど、結局は私達夫婦の問題に巻き込む形になる。その申し訳なさと、勝手に会いに来るのをやめたバツの悪さで心は複雑で。
夫の岳紘さんに対して思うところもある、こんな形で彼の行動や隠し事を調べて暴いていいのかと。だからと言って、このまま馬鹿な妻のフリをして気付かない顔をしていられるのかとと聞かれれば……答えはノーだ。
私だってちゃんとした一人の人間で、喜怒哀楽の感情だってあるのだ。あんな話を聞かなかった事にして平気で岳紘さんとの結婚生活を続けることなんて出来るわけない。
だとすれば、自分が選べる選択肢は自ずと決まって……
「お待たせ、雫先輩。やっと会えたね」
「……奥野君、久しぶり」
マスターから私の伝言を聞いている筈なのに、いつもと変わらない人懐っこい笑顔。私だけじゃなく、奥さんにも見せるその表情に何となく胸が苦しくなった。
奥野君に対して特別な感情なんてない、そのつもりなのに心はどこかちぐはぐで。自分の気持ちに自信がなくなるのはどうして?
私が想うのはいつだって夫の岳紘さん、ただ一人のはずなのに……
「うん、久しぶりですね。雫先輩、もしかしてちょっと痩せました?」
不意に伸ばされた手に、私は驚いて少し大げさに仰け反ってしまう。もちろん奥野君の行動に深い意味は無いと分かっているのに、その手に触れられるのが怖いのだ。
そんな私の過剰な反応を気にもしないように、奥野君はその手を引っ込めて私の目の前に座る。それが当然だというように。
「痩せたかもしれない、ちょっと……色々あって」
「ここにずっと来なかったのもそれが理由ですか? 俺とはもう会わないと決めたのも?」
それは違う、奥野君と合わないのを決めたのは彼と奥さんの仲睦まじい姿を見たからだ。私達夫婦とは全く違う、その幸せそうな様子に嫉妬を感じてどうしようもなく悔しくなった。
そんな自分を……後輩の奥野君に知られたくなかったの。でも、それを素直に言えるはずもなくそのままだんまりを決め込んでいると。
「……それじゃあ、やっぱり俺に協力して欲しくなったんですか?」
違う、とは言えない。だってそれが目的で今、私はここにいるのだから。探偵を雇うことも考えなかったわけじゃない、そうしなかったのは出来るだけこの事を人に話したくなかったから。
だけど、奥野君は知っている。夫の岳紘さんが他の女性と会っていることを、それならもう全部話してもいいかと思えて……
「そうよ、奥野君に協力して欲しいの。夫の、あの人の浮気について調べたいと思ってる」
「そっかあ、とうとう雫先輩も決心したんですね」
奥野君の返事は、いつかはこうなることを予想していたかのようだった。それほどまでに彼が自信をもっていた理由が何なのかは分からなかったけれど。
ここに来て奥野君が「やっぱり無理です」という事も覚悟はしてきた。こんな夫婦の問題に好んで首を突っ込みたいという人間は、そうそういないだろうから。
だけど私は彼がそれを引き受けてくれると、頭のどこかで分かっていたのだと思う。
「雫先輩のお願いなら、聞かないわけにはいかないですね」
「ごめんなさい奥野君、でもありがとう……」
謝罪とお礼を言えば、奥野君は首を傾げて笑って見せる。そんなのは必要ないですよ、と言うように。そんな彼の言動が、私の中の罪悪感をより大きくすることになったのだけれど。
「……で、具体的にどうするかとかは決めてるんですか? まだなら、ここで俺が考えてもいいですけれど」
「そうね、そこまで頭が回っていなかったわ」
正直な話、ここに来るまで夫の行動について探る方法までは考えてなくて。彼が密かに想っている相手についても何も分からないまま、衝動的に行動してしてしまっていた。
証拠も、情報も何もないのに岳紘さんの浮気について調べたいなんて無理難題もいいところかもしれないのに。
「良いですよ。俺、アイツがその女性とよく会っている場所を知ってますから。今度の木曜に雫先輩も、一緒に確かめに行きますか?」
「……木曜に、岳紘さんはその女性と会っているのね」
ハッキリと聞いてしまうと、胸がものすごく痛い。針で刺されるようなチクチクしたものでなく、ナイフで抉られるような激しい痛みが。
木曜日に岳紘さんが誰かと会ってるなんて知らなかった、彼はいつもと変わらない時間に帰宅していたから。それなのにこんな形で裏切られていたなんて、本当は聞かされたくなかった。
「どうします? 辛いのなら無理にとは言いませんが……」
あくまで決めるのは「私」と言うように、奥野君はそれを強制せずにこちらの返事を待っている。確かに迷ってるのも事実だけど、ハッキリさせたいという気持ちもあって。
「私も行くわ、この目でちゃんと確かめたいの。夫が誰と何をしているのか、そしてどんな女性を愛しているのかも」
「……じゃあ、決まりですね」