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奥野君の言葉に私は小さく頷いて、マスターがさりげなく運んでくれていたコーヒーに口をつける。そう、あの日に出されたこの味をもう一度だけ堪能したくて。
爽やかなのに独特の苦みを私の中にしっかりと取り入れて、そして気持ちを切り替えた。
「それで、協力してもらうことに対してのお礼についてなんだけど……」
こんな面倒なことを頼むのだ、最初からタダでなんて考えてない。私は持っていたハンドバックの中を探って、用意していた封筒を取り出そうとしたのだが。
急に席を立った奥野君が、その手を伸ばして私の動きを強引に止めてしまう。
「そんなの、いらない。それを受け取ったら……すべてが終わった時、雫先輩は俺に会うのを止めてしまうでしょう?」
「どうして、それを……」
奥野君の言う通りだった、私は封筒の中身を彼が受け取ったらそれで全部終わりにするつもりで。自分勝手だと思われるかもしれないが、そうする事が一番良いと思ったのだ。
本当は奥野君も妻である玲香さんを愛してるはず、このまま私と会っていれば変な誤解を生む可能性も無いとは言い切れない。それならハッキリとした形でお礼をした後、会うのを止めるべきだと。
「嫌だよ、俺は。雫先輩と会えなくなるのだけは、絶対に嫌だ」
「奥野君……」
こうして想われるというのは決して不快ではない。だけど彼にはもう一番の相手がいるのだから、私はいつまでもこうしていてはいけないと思う。だけど……
「こんなお礼はいらない。そんな紙切れより今の俺が一番欲しいものが何か、雫先輩なら分かるでしょう?」
「……」
私の心まで覗き込むようなその視線に、言葉が出なくなる。私は恋愛経験も男性経験も人よりずっと少ないため、自分で考えた答えが正解なのかすら分からなくて。
いつの間にか小さく手が震えていたが、その上に重ねた手を奥野君はどかそうとしない。それが……本当に貴方が望んでいることなの?
「今すぐじゃない、雫先輩が自由の身になってからでいいんです。俺はどれだけでも待てるから」
「でも……」
真面目な性格の私が夫のいる身で他の男性と関係を持てないことくらい分かってる、というように奥野君はそのまま言葉を続ける。
その通りだけど、それでもそんな事を約束出来るかと言われたら正直なところ自信がない。だって私にとって奥野君は……大事な後輩でもあるのだから。
「雫先輩、一度でいいんです。後輩ではなく一人の男として、奥野 雅貴を見てもらえませんか?」
「どうして、そこまでするの? 私は決して良い先輩ではなかったのに」
部活動では私は副部長という立場もあり、それなりに後輩にも厳しくしてきた。何名かの男子部員から「アイツは可愛くない」と言われてたのも、本当は気付いていた。なのに、どうして?
「言葉にしなきゃ不安なら、ちゃんと言いますよ。だけど、それは全部が終わってからじゃないと駄目でしょう?」
なぜ奥野君はこんなにも私の事が分かるのだろう? 可愛げが無くて表情だって乏しい方なのに、ちょっとした心の変化にも気付いて求めてる言葉をくれる。
もしも……そう、もしも結婚した相手が奥野君だったら私はこんなに悩まなくても済んだのだろうか? 愛が欲しいと素直に言うことが出来たのかもしれない。
だけど、やっぱり私が想うのは夫の岳紘さんでしかなくて。そのことが余計に自分を苦しめる。
「そこに私の気持ちが無くても、奥野君のその想いは変わらない? 返してもらえないのに与え続けるだけで、本当に貴方はそれでいいの?」
「……そういうの、慣れてますから」
悲しい言葉、そうなるまでに彼はどれだけ自分の想いを押し殺してきたのだろう。私だけでなく、それはきっと今の奥さんに対しても同じ気持ちなのかもしれない。
あの時の二人は、あんなにも仲良さげだったのに……
「少し前の週末、あるホームパーティーに参加すると話したでしょう? あの時、奥野君達を見たの。まさか貴方の奥さんが、あのヘアメイクアーティスト『REIKA-OKU』だとは思いもしなかったけれど」
「彼女は有名ですからね、俺もあまり公言はしてないんです。下心丸出しで、近寄ってくる奴も少なくないですから」
その言葉に、奥野君の奥さんに対する愛情と思いやりを感じる。彼なりに妻を守ろうと頑張っているのが、伝わってきて。正直、少し羨ましかった。
「とても仲良さそうで、お似合いだと思ったわ。奥野君は、心から彼女を愛してるのでしょう?」
「愛してはいますね、一人の女性としてではなく同じ家族としてですが。だから彼女を守りたいとも思うし、大事にしてあげたいとも思ってます。でも……」
家族愛、それは多分だけど岳紘さんが私に与えてくれているものと同じ。だけど私が彼に求めてるものじゃない、つまり奥野君も同様の気持ちだということなのだろう。
じゃあ、女性として愛してるのは? なんて聞く必要はなかった。
「俺にとって、女性と呼べるのは昔も今もたった一人だけなんです。でも雫先輩にはずっとアイツしか見えてなかったから……」
「そう、だったかもしれないわね」
奥野君にとっての女性が一人だというのと同じで、私にとっての男性もただ一人だった。岳紘さんは唯一無二の特別な存在で、ずっと彼だけだと信じて疑いもしなかったから。
……じゃあ、これから先も絶対に変わらないと言える?
「もしも今の俺に僅かでも希望があるのなら、もう諦めたくないんです。これはきっと、一生の恋だから」
「奥野君、私は……」
答えは急がない。そう言った彼から次会う日と場所を指定され、この日はそのまま別れたのだが私の頭の中はまだ暫くは落ち着きそうになかった。