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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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朝から雨だった。
千歳は玄関の框に膝をついて、玲司の靴をそろえた。誰に言われたわけでもない。有明の屋敷で、藤乃の下駄をそろえていた手が、勝手に動く。
「何をしている」
玲司が階段を下りてきた。
「お見送りを」
千歳は言った。これも、言われていない。言われていないことを、この家に来てから、少しずつするようになっている。
玲司は靴を履き、外套を受け取り、何も言わずに玄関を出た。権田が自動車の戸を開けている。
千歳はついて出た。車寄せの屋根の下で止まるつもりだった。足は止まらず、そのまま門のほうへ歩いた。
雨が肩に当たる。
自動車が動き出す。千歳は門の内側に立って、黒い車体が門柱の間を抜けるのを見た。傘のことは、考えていなかった。考える前に出てきてしまった。
自動車が、止まった。
門の外で、戸が開く。玲司が降りて、雨の中を戻ってくる。外套の肩が、みるみる濡れていく。
「濡れるなと言った」
玲司は自分の傘を開いて、千歳の上に差した。
雨の音が、頭の上で変わった。
「……旦那様が、濡れております」
「私は自動車に乗る」
玲司は傘の柄を千歳の手に押しつけた。右手だった。千歳の右手が、濡れた柄を握った。
玲司はそのまま背を向けて、雨の中を自動車へ戻った。権田が戸を閉める。自動車が門を出ていく。
千歳は傘の下に残された。
一人分の傘の下で、肩がもう濡れている。それでも、頭の上に雨は落ちてこない。傘の骨の間から、灰色の空が見えた。
あの人は、傘を持っていかなかった。
千歳は傘を下ろさずに、しばらく門の内側に立っていた。
玄関に戻ると、文が式台の前で口を開けていた。
「奥様、それ、旦那様の傘ですよ」
「ええ」
「旦那様、傘なしで行っちゃったんですか。この雨で」
千歳は傘を閉じた。濡れた傘の先から、水が玄関の石に落ちる。
「乾かしておきますよ」
お初が手を出した。千歳は渡しかけて、渡さなかった。
「私が」
傘を広げて、玄関の脇に立てかけた。帰ってきたときに、ここにあるように。それだけのことを、したかった。お初は何も言わずに台所へ戻り、文は、傘と千歳を見比べて、また少し笑った。
昼過ぎに、雨が小降りになった。
千歳は縁側で足袋を縫っていた。三足のうち、二足目だ。お初が台所から顔を出して、「奥様」と呼んだ。声が、いつもより低い。
「裏口に、お客が」
「私に」
「お嬢様、って」
千歳は針を置いた。
裏口の戸の外に、小さな影が立っていた。腰が曲がっている。濡れた風呂敷を頭からかぶって、戸の脇の壁に手をついている。
「とよ」
とよは顔を上げた。前掛けで両手を拭いて、それから、千歳の袖に触れた。濡れていないことを確かめるように、袖の先を指で押さえた。
「お嬢様。お元気で」
「とよ、どうして」
「これを」
風呂敷の中から、小さな包みが出てきた。千歳は受け取って、開いた。
櫛だった。母の櫛。黄楊の、歯が一本欠けた櫛だ。女中部屋の畳の下に、十年、隠していた。
「奥様が、お嬢様の部屋のものを、全部、始末しろと仰いましてね。あたしが片づけに入ったら、畳が浮いていて」
千歳は櫛を握った。
「お嬢様。奥様は、咲子様のお道具を、売っておいででございますよ」
とよの声は小さかった。耳が遠いから、自分の声の大きさが分からないのだ。それでも、小さかった。
「鏡台も、琴も、もう。それから」
とよは一度、口を閉じた。
「珊瑚の帯留めも。質に入れてしまわれました」
母の帯留め。赤い珊瑚の、小さな帯留めだ。母が嫁入りのときに持ってきたもので、母はそれを、千歳が熱を出した夜に、枕元に置いてくれた。赤いものは魔除けになる、と言って。母が死んだあと、藤乃はそれを「商家の趣味」と言って箪笥の奥にしまい込んだ。しまい込んだだけで、売らずにいたのは、安いと思っていたからだ。
それを、売った。
「梢様が、振袖が届かないと泣いて、奥様が、どこからか金を作ると仰って」
とよは言った。
「それで、箪笥の奥から」
「あれだけは。咲子様があれだけは、と仰って。あたしは、お嬢様に」
とよは言葉を探して、見つけられずに、千歳の袖をもう一度押さえた。
「とよ。奥様に、ここへ来たことを」
「言っておりません。買い物に出たことにして」
「奥様は、このところ、白鳥夫人のお宅へよく。梢様を連れて」
千歳は櫛を握ったまま、聞いた。
「白鳥夫人の」
「ええ。仲人の。何のお話かは、あたしには」
千歳は裏口の中を見た。お初は台所の奥にいて、こちらを見ていない。見ないでいてくれている。
決まりは、分かっている。客は玄関から、使用人は裏口から。奥様は裏口に立たない。使用人を裏口から引き入れて、話し込まない。四日で、それくらいは覚えた。
千歳はとよの腕を取って、裏口の中へ入れた。土間の上がり口に座らせ、自分も隣に座った。
「とよ。話して」
とよは座って、息をついた。それから、言いかけた。
「奥様は、白鳥夫人に、」
「とよさん」
戸口に、柘植が立っていた。
いつからいたのか、分からない。懐から時計を出し、見て、戻した。目は、千歳ではなく、とよの濡れた風呂敷を見ていた。
とよが立ち上がろうとして、腰が、上がらない。千歳は立って、とよの前に出た。
「私が、入れました」
柘植は千歳を見た。
「旦那様にお伝えします」
コメント
1件
第6話、読みました……。 雨の中、千歳さんが無意識に玲司さんを追いかけちゃうところ、すごく切なかったです。で、玲司さんがわざわざ車から降りて自分の傘を押しつけるんだよね。なんも言わずに背中で去っていくのがまた、千歳さんを想ってるんだろうなって伝わってくる…… で、昼過ぎにとよさんが来て、母の櫛を届けてくれる場面。ああ、もう……大切なもの、少しずつ奪われていってるんですね。柘植さんに気づかれてしまったし、これからどうなるんだろう。千歳さんの静かな強さが胸に刺さります。続きが気になる……😢