テラーノベル
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翌朝、千歳は書斎の前に立っていた。
障子は閉まっている。中で、柘植の声がする。低くて、聞き取れない。昨日のことを言っているのだ。とよを裏口に入れたこと。奥様が、有明の婆やと、土間で話し込んでいたこと。
叱られるなら、自分が叱られればいい。とよには何も届かないように。千歳はそれだけを考えて、障子の前で膝をついた。
柘植が出てきた。千歳を見て、時計を見て、何も言わずに廊下を去った。
「入れ」
中から、玲司の声がした。
書斎は本が多かった。窓の下に机があり、玲司はその前に座って、こちらを見ていない。書き物をしている。
「昨日は、私が、裏口に」
「聞いた」
玲司はペンを置かなかった。
「あの婆やは、君の家のものか」
「母の代から。とよ、と申します」
「そうか」
それきりだった。叱られない。とよのことも、何も言われない。千歳は膝の上で手を組んだ。右手の甲に、左手を重ねた。癖だ。
玲司がペンを置いた。
「名は」
千歳は顔を上げた。
玲司はこちらを見ていた。机の上の書き物から、目を離して。
名は。
千歳、と言えばいい。母がつけてくれた名だ。有明の女中部屋に、櫛と一緒に置いてきた名だ。櫛はもう手元にある。
けれど、梢の名で来た。梢の名で結納が済んで、梢の名で手紙が来て、梢の名でこの家の妻になった。とよがいて、梢がいて、有明の家がある。名を言えば、それが全部、ほどける気がした。
「……梢、と」
声が、掠れた。
「そう申します」
玲司は、しばらく千歳を見ていた。千歳は目を伏せなかった。伏せたら、嘘が嘘だと分かってしまう気がした。
「そうか」
立ち上がって、障子に手を伸ばした。
手が、止まった。
障子の桟に指がかかったまま、一度だけ、止まった。それから開けて、廊下へ出て、閉めた。
千歳は書斎に一人で残される。
机の上の書き物が、見えた。見るつもりはなかった。字が並んでいる。読めない。読む前に、目をそらす。
「奥様、それ」
台所で、お初が千歳の帯の間を見た。母の櫛を、そこに差している。
「母のものです」
「黄楊ですね。いいものだ。大事になさいまし」
お初は、それ以上は聞かなかった。文が水を汲んで戻ってきて、桶を置いて、千歳の顔をのぞき込んだ。
「奥様。旦那様、怒ってませんでしたよ」
「どうして分かるの」
「柘植様が、怒られたときの顔をしてませんでしたもん。柘植様、旦那様に怒られると、時計を三回見るんです。今朝は一回でした」
お初が「文」と言ったが、声に力がない。笑っている。
千歳は、笑えない。
怒られなかった。名を聞かれ、梢と答え、あの人は、そうか、と言った。
そうか、の前の、障子の手を、何度も思い出す。あの手は、何かを言いかけて、やめた手だ。千歳は自分の右手を見る。この手も、十年、何かを言いかけてはやめてきた。
午後、門の外で人力車が止まる。
一台だけで、降りてきたのは梢だった。藤乃はいない。
「お姉さま」
梢は縁側に通されていた。文が玄関に出て、戻ってきて、困った顔で「お嬢様が」と言い、千歳が廊下に出たときには、もう縁側に座っていた。扇を持っている。開いて、口元を隠している。
お初が茶を運んできて、梢の前に置き、膳の上を指で数えてから下がった。数えながら、千歳のほうを一度だけ見た。
千歳は向かいに座った。
「お姉さま。元気そうね」
「梢も」
「あたしは元気よ。振袖は届かなかったけど」
扇の上の目が、千歳を見た。
「お姉さまのせいじゃないわ。呉服屋が意地悪なの」
千歳は何も言わなかった。
「ねえ、お姉さま」
梢は扇を少し下げた。
「取り替えましょう」
庭で、風が梅の葉を鳴らした。
「母様がそう言うの。お姉さまは、有明に戻って、家の仕事を。あたしが、御堂夫人になるの」
「……梢」
「だって、おかしいじゃない。書類の上ではあたしなのよ。結納だって、あたしの名前で来たのよ。お姉さまは、ただの穴埋めだって、母様が」
梢は茶を一口飲んで、顔をしかめた。
「ぬるい」
ぬるくはない。お初が運んできたばかりだ。千歳は何も言わなかった。
穴埋め。藤乃の言葉だ。梢が、藤乃の声で言っている。
「白鳥夫人がね、もう、手を打ってくださってるの。御堂様のご親戚のほうから、お話がいくんですって。あたし、詳しいことは知らないけど」
梢は扇を閉じて、庭の奥を見た。
梅の木の列の向こう、離れの屋根が見える。昼の障子は白い。
「気味が悪い家」
梢は言った。
「あんな離れ、あたしが来たら、取り壊させるわ。あんな灯り、消させる」
千歳は膝の上で手を組んだ。右手の上に、左手を重ねた。
答えが、出ない。
戻れと言われれば、戻る。十年、そうしてきた。藤乃が言い、梢が泣き、千歳が動く。それで家が回っていた。
けれど、あの離れの灯りを消させる、と梢は言った。
近づくな、と玲司は言った。消せ、とは言わなかった。あの人は、あの灯りを、守っている。何を守っているのかは知らない。知らないまま、千歳は、それを梢に消させたくない、と思った。思ってから、自分で驚いた。
「返事は、今夜でいいわ」
梢は扇を膝に置いた。
「あたし、泊まっていくから。母様がそう言ったもの」
草原草原(くさはらそうげん)

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瑠璃マリコ
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コメント
1件
うわ、第7話、すごくよかったです……。 「名は」っていう問いかけに対して「梢」と答えた瞬間、千歳の中で何かがぷつんと切れたんだろうなって感じました。実際は千歳なのに、梢として生きていくって決断したんだなって。あの、障子の桟に手が止まる玲司さんの描写もめちゃくちゃ気になります。言いかけてやめた手……何を伝えたかったんだろう。 そして梢が来て「取り替えましょう」って言ったときの、千歳の「あの灯りを消させたくない」っていう気づき、胸にきました。自分の意志で何かを守りたいって思うの、たぶん初めてなんじゃないかな。 離れの灯り、玲司さんが何を守ってるのか、めっちゃ気になります。続きが楽しみです!