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高阪伸太郎がすばやくドアノブを回して、扉を開けた。
「……何だ?」
扉を開けると、目の前に巨大な壁が立ちはだかっていた。
「作業台?」
縦に置かれた作業テーブルが、入り口を完全に塞いでいた。
これまで数多くのイノシシを捌いたテーブルが、高阪と猟犬の突撃を否応なく阻止しているのだ。
そのときだった。
外へと通じる窓の開く音が聞こえた。
「しまった!」
高阪は力まかせに作業テーブルを蹴って、強引に通路を確保しようとした。しかしテーブルは本物の壁のように微動だにしなかった。
ロープでテーブルを縛っておき、その間に外に逃げたのか……。
高阪の直感は、内部の状況を正確に見抜いていた。
「早く外に出て、あのヤロウを噛み殺せ!」
猟犬が猛ダッシュで入り口の方向へと駆けていく。
高坂も全速力であとに続いた。
暗い作業場を通り、腐った木が積まれた工場前を迂回して、キッチンの方へと向かう。
着いてみると、そこに男の姿はなかった。
クウウン……。
窓の外を守っていたもう1匹の猟犬が、高阪のもとにやってきて尻尾を振った。その直後に突然倒れ、全身を激しくけいれんさせた。
犬の首からは血が流れていた。
動脈を狙った一撃が、正確に首の奥にある血管を破ったのだ。
死へと突き進む荒い呼吸が、高阪伸太郎の鼓膜を揺らした。
――助けてください。
高坂は猟犬の切実な視線を無視して、あたり一帯を警戒した。
男が逃げたであろう木々の隙間をくまなく確認してみるが、どこを見ても男の背中は見当たらない。
まだ遠くへは行っていないはず。
傷を負った体で山から降りられるほど、ここは安易な立地ではない。
状況はむしろ有利に働いている。
こっちにはまだもう1匹の猟犬がいて、しかも男が山中に逃げたのなら、ためらいなく猟銃が使える。
……いや、違う!
突然、高阪の脳裏に何かが浮かんだ。
誤った判断をしたことに気づいたその瞬間、全身を恐怖が襲った。
高阪は本能的に上体を折り曲げた。
頭上のあたりで、武器を振り回す音が聞こえた。
すぐに反撃に出ようと身を翻す。
ぐうあっ!
わき腹のあたりに激しい痛みが走った。
うぐぐ……。
苦痛のうめき声が漏れた。
羽織ったシャツのわき腹部分が、水彩画のように赤く染まっていく。
男は森へと逃走したのではなかったのだ。
窓から出て猟犬を殺したあと、再び窓を通じてキッチンに戻り息を潜めていたのだ。
「最初からこれを狙ってたのか……ちくしょう」
ワンワンワン!
猟犬が激しく吠え、高坂は視線を向けた。
猟犬の見つめる先に、男が立っている。
骨を細く削っただけの武器を右手にしっかりと握って。
「そいつを殺せ……。うぐぐっ!」
ガルルルルル……。
猟犬は一定の距離を保ったまま男を威嚇している。しかしそれ以上近づこうとはしなかった。
すでに戦意を喪失していることは、誰の目にも明らかだった。
「何してるんだ! はやく襲いかかってヤロウを殺せ!」
……ガルルルルル。
「クソ犬め。まさか土壇場で役に立たないとはな。こんな臆病者を、俺はずっと食わせてやってたのか。道具以下のクソめ」
高阪は男との距離を保ちながら猟犬に近づき、わき腹を強く蹴った。
「キャン!」
という叫び声をあげ、猟犬は3メートルほど吹っ飛んで転んだ。
急いで立ち上がった猟犬は、今度は高阪とも一定の距離を取りはじめた。
高阪は自らのわき腹に手を当てた。
骨を突き刺された箇所が濡れている。
「……これ以上戦うのはやめませんか」
男は工場の壁を背にしたまま話しかけてきた。
「……」
高阪は何も言わなかった。
ただナイフの切っ先を男に向けたまま立っている。
「私はしばらくここで休ませてもらうためにきただけです。ちょっとした食料と水をいただき、できれば一日だけ眠らせてもらってから下山するつもりでした。誰かを傷つけるつもりなどありませんでした。私の言葉を信じてください」
男は戦意がないのを主張するように両手を高く挙げた。
「檻を見たか?」
「オリ?」
「裏庭の檻を見たかと聞いている」
「最初にここにきたときに見ました」
檻を見たのか。
ならばあのガキどもの目が合ったはずだ……。
「残念だが、おまえを殺す」
最初に男と遭遇した際、もしかすると食料を探して錠前に触れているのではと考えた。
ならば奴に食事を施したあと、ここから追い出してもよかったのではないか?
だがあのとき、俺は冷静な判断ができなかった。
そして結果的にその判断は正しかった。
こいつは、ガキどもを救うために錠を外そうとしていたのだ。
俺が守ってきた楽園にきただけでも重罪!
その上、あのガキどもの存在まで知っている。
こいつを解放すれば、やがて災いをもってまた現れるだろう。
国家権力が俺を敵と認識するんだ。
「貴様をこのまま逃がしてやるなど絶対にない。また助けてやることもない」
高阪の最後通告だった。