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あいうえお
118
るしゅ
180
高坂伸太郎がすばやくドアノブを回し、扉を開けた。
「……何だ?」
扉を開けると、目の前に巨大な壁が立ちはだかっていた。
「作業台?」
縦に置かれた作業テーブルが、入口を完全に塞いでいた。
これまで数多くのイノシシを捌いてきたテーブルが、高坂と猟犬の突撃を否応なく阻止している。
そのときだった。
外へ通じる窓が開く音が聞こえた。
「しまった!」
高坂は力まかせに作業テーブルを蹴り、強引に通路を確保しようとした。
しかしテーブルは本物の壁のように微動だにしない。
ロープでテーブルを縛って、その間に外へ逃げたのか……。
高坂の直感は、内部の状況を正確に見抜いていた。
「早く外に出て、あのヤロウを噛み殺せ!」
猟犬が猛然と入口のほうへ駆けていく。
高坂も全速力であとに続いた。
暗い作業場を通り、腐った木材が積まれた工場前を迂回して、キッチンのほうへ向かう。
しかし着いてみると、そこに男の姿はなかった。
クウウン……。
窓の外を守っていたもう1匹の猟犬が、高坂のもとへやってきて尻尾を振った。
その直後、突然倒れた。
全身を激しくけいれんさせる。
犬の首から血が流れていた。
動脈を狙った一撃が、正確に首の奥にある血管を破っていた。
死へ突き進む荒い呼吸が、高坂の鼓膜を揺らした。
――助けてください。
高坂は、猟犬の切実な視線を無視した。
周囲一帯を警戒する。
男が逃げたであろう木々の隙間をくまなく確認したが、どこを見ても男の背中は見当たらない。
まだ遠くへは行っていないはずだ。
傷を負った体で山を下りられるほど、ここは安易な立地ではない。
状況は、むしろ有利に働いている。
こちらにはまだもう1匹の猟犬がいる。
しかも男が山中へ逃げたのなら、ためらいなく猟銃が使える。
……いや、違う!
突然、高坂の脳裏に何かが浮かんだ。
誤った判断をしたことに気づいた瞬間、全身を恐怖が襲った。
高坂は本能的に上体を折り曲げた。
頭上のあたりで、武器を振り回す音が聞こえた。
すぐに反撃へ出ようと身を翻す。
「ぐうあっ!」
わき腹のあたりに激しい痛みが走った。
「うぐぐ……」
苦痛のうめき声が漏れた。
羽織ったシャツのわき腹部分が、水彩画のように赤く染まっていく。
男は森へ逃走したのではなかった。
窓から出て猟犬を殺したあと、再び窓を通じてキッチンに戻り、息を潜めていたのだ。
「最初から、これを狙ってたのか……。ちくしょう」
ワンワンワン!
猟犬が激しく吠えた。
高坂は視線を向ける。
猟犬の見つめる先に、男が立っていた。
骨を細く削っただけの武器を、右手にしっかりと握っている。
「そいつを殺せ……。うぐぐっ!」
ガルルルルル……。
猟犬は一定の距離を保ったまま、男を威嚇している。
しかし、それ以上近づこうとはしなかった。
すでに戦意を失っていることは、誰の目にも明らかだった。
「何してるんだ! 早く襲いかかって、ヤロウを殺せ!」
……ガルルルルル。
「クソ犬め。まさか土壇場で役に立たないとは。こんな臆病者を、俺はずっと食わせてやってたのか。道具以下のクソめ」
高坂は男との距離を保ちながら猟犬に近づき、わき腹を強く蹴った。
キャン!
猟犬は甲高い声をあげ、横倒しになって転がった。
急いで立ち上がった猟犬は、今度は高坂とも一定の距離を取りはじめた。
高坂は、自らのわき腹に手を当てた。
骨を突き刺された箇所が濡れている。
「……これ以上戦うのはやめませんか」
男は工場の壁を背にしたまま、話しかけてきた。
「……」
高坂は何も言わなかった。
ただナイフの切っ先を男に向けたまま立っている。
「私はしばらく、ここで休ませてもらうために来ただけです。少しの食料と水をいただき、できれば1日だけ眠らせてもらってから下山するつもりでした。誰かを傷つけるつもりなどありませんでした。私の言葉を信じてください」
男は戦意がないことを示すように、両手を高く挙げた。
「檻を見たか?」
「檻?」
「裏庭の檻を見たかと聞いている」
「最初にここへ来たときに見ました」
檻を見たのか。
ならば、あのガキどもと目を合わせたはずだ。
「残念だが、おまえを殺す」
最初に男と遭遇した際、もしかすると食料を探して錠前に触れているのではないかと考えた。
ならば食事を施したあと、ここから追い出してもよかったのではないか。
しかしあのとき、俺は冷静な判断ができなかった。
そして結果的に、その判断は正しかった。
こいつは、ガキどもを救うために錠を外そうとしていたのだ。
俺が守ってきた楽園へ来ただけでも重罪。
そのうえ、あのガキどもの存在まで知っている。
こいつを解放すれば、やがて災いを持ってまた現れるだろう。
国家権力が、俺を敵と認識する。
「貴様をこのまま逃がしてやるなど、絶対にない。助けてやることもない」
それが、高坂の最後通告だった。