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あいうえお
118
るしゅ
180
「檻を見ただけで……なぜ?」
男は、あ然とした表情を浮かべた。
「檻を見たからだ」
「檻……。あの檻に、何か秘密があるようには見えなかった」
男は、本心から理解できないといった顔をしている。
「人生に不要な会話――」
高坂がつぶやいた。
男は高坂から、一瞬たりとも目を離さなかった。
自分に向けられるナイフの先を見つめ、これまでの苦痛の日々を思い出すように、一度だけ眉をしかめる。
やがて男は大きく息を吐き出し、決心したように挙げていた両手を下ろした。
ナイフに比べればあまりにも不甲斐ない骨の先が、高坂へと向けられた。
この男は、想像よりもずっと賢い。
反面、俺はあまりに愚かだった。
猟犬とナイフと猟銃があるからと油断した。
圧倒的に有利な立場にあるという余裕が、俺を最悪の状況にまで追い込んだ。
後悔しても、もう遅いな。
刺されたわき腹が、あまりにも痛い。
それでもまだ俺は、自分が有利な立場にあると思っている。
あのクソみたいな骨で、どう抵抗するつもりだ?
まったく役に立たんな、俺の脳みそは。
この数十年。
イノシシばかり相手にしてきたせいで、相手を見下す癖がついてしまったようだ。
突進する以外に何もできない獣と、この男を同じ水準とした。
それが俺の落ち度。
狙うべき部位は、心臓。
あるいは首。
それが無理なら、少なくとも腹にナイフを刺す。
手首や太ももの動脈でもかまわない。
前に立っているのは、イノシシではない。
知能を持った人間だ。
確固たる目的意識で、俺を殺そうと決めた人間だ。
高坂はじりじりと、男との距離を縮めていった。
男は自らの武器が圧倒的に不利であることを自覚している。
だから近づこうとはしない。
キャンキャン!
遠くで猟犬が吠えた。
男の視線が一瞬、猟犬へ向けられる。
よくやったぞ!
高坂はその瞬間を見逃さなかった。
鍛えられた脚力で一気に距離を詰め、男の心臓めがけてナイフを突き出す。
男はかろうじてナイフをよけた。
切っ先が肩をかすめる。
男は一歩後退した。
高坂は、この時を逃さなかった。
追い打ちをかけるように相手の首めがけてナイフを伸ばし、途中で軌道を変える。
「うがあっ!」
男の腹にナイフが突き刺さった。
男が苦悶の表情を浮かべた。
悲鳴に似たうめき声が、高坂の鼓膜を揺らした。
手から伝わるこの感触。
腹のど真ん中に刺さった。
「うぐがあっ……!」
男は腹に突き刺さったナイフを抜こうと、高坂の手をつかんだ。
高坂は残る左手をナイフの柄に添え、さらに腹の奥へ押し込んだ。
その瞬間だった。
高坂の視界に、青空が広がった。
同時に、先ほど刺されたわき腹よりも強烈な痛みが、首の付け根から胸元にかけて走った。
濁った雲が、より濁って見える。
視界の隅に、男が立っていた。
ハァハァハァ……。
男は荒く呼吸しながら、着ていたシャツをまくり上げた。
腹から、血に濡れた何かを取り出す。
肉だった。
クソが……。
腹に、イノシシの肉を隠しておいたのか。
厚く折り重ねたイノシシの肉。
それが、男の腹を守った。
ああ……。
やっぱり人間は、イノシシよりずいぶん頭がいい。
奴は最初からこれを狙っていた。
俺は、こいつの仕組んだ罠に見事にかかってやった野生動物だったわけか。
やはり人間とは合わない。
おまえたちは……少し頭がよすぎる。
ガキども。
結局、俺は何も守れなかったな。
楽園も。
猟犬も。
おまえらも。
これから新しい主人をそっちに送る。
一緒に山を下りるなり、何なり勝手にすればいい。
高坂は記憶の奥底にある、たったひとつの光を思い浮かべた。
……ばあちゃん。
結構かかっちまったが、やっと会いに行けそうだ。
今すぐ、そっちに……。
高坂伸太郎の鼓動は、そこで止まった。
*
ハァハァ……。
目の前にいた男が死んだ。
ほんの数秒前まで、自分を殺そうと動いていたはずの人間が、今はもう動かない。
無機物のように、地面に転がっている。
堀口ミノルは死体の圧倒的な存在感に怯え、その場にへたり込んだ。
遠くから猟犬が堀口を見ていた。
これまで見せていた威圧的な姿は、もうない。
犬は堀口よりも、極めて正確に現実を見抜いていた。
王が変わった。
覇気を失った猟犬の視線から目を離し、倒れている男をもう一度見た。
男は目を開けたまま、空を眺めている。
いくら正当防衛だとしても、警察は自分を信じてくれるのだろうか。
いや、それよりも、この死体を工場の中に移さなければ。
犬も男も、このまま放置しておくわけにはいかない。
男の両足をつかみ、工場の中へ引きずっていく。
作業場を越え、血の匂いのするキッチンに、男と犬を運んだ。
堀口はそこで呼吸を整えた。
それから、ふたつの目があった部屋の前に立った。
この中にいる人間を救わなければならない。
それこそが、自分が生きながらえた理由だった。
ドアノブを見ると、錠はかかっていなかった。
代わりに扉はロープで縛られている。
堀口は男が武器として使っていたナイフで、ロープを切ろうとした。
そのとき。
単純な考えが頭をよぎった。
中にいる者たちが、私を敵だと認識したら?
拷問に近い仕打ちを受けてきた堀口には、もう抵抗する力など残っていない。
刺された背中はまだ回復していない。
折れた肋骨のせいで、今も規則的な呼吸ができない。
高坂との戦いで、腹と肩にも新たな痛みが残った。
今、扉の向こうにいる者たちが悲鳴を上げ、暴れ、逃げ出そうとしたら。
自分は止められない。
それどころか、恐怖に駆られた相手に押されただけで、床に倒れて動けなくなるかもしれない。
救うためには、開ければいいというものではない。
扉を開ける前に、確実に体を回復させておく必要があった。
「すまない。たった1日……あと1日だけ待っていてほしい」
堀口はその言葉を残して、ロープから手を離した。
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