「檻を見ただけで……なぜ?」
男はあ然とした表情を浮かべた。
「檻を見たからだ」
「檻……あの檻に何か秘密があるようには見えなかった」
男は本心から理解できないといった表情をしている。
「人生に不必要な会話――」
高坂がつぶやいた。
男は高坂から一瞬たりとも目を離さなかった。
自分に向けられるナイフの先を見つめ、これまでの苦痛の日々を思い出すように一度眉をしかめた。
やがて大きく男は息を吐き出し、決心したように挙げていた両手を下ろした。
ナイフに比べあまりにも不甲斐ない骨の先が、高坂に向けられた。
この男は想像よりもずっと賢い。
反面、俺はあまりに愚かだった。
猟犬とナイフと猟銃があるからと油断した。
圧倒的に有利な立場にあるという余裕が、俺を最悪の状況にまで追い込んだんだ。
後悔してももう遅いか。
刺されたわき腹があまりにも痛い……。
それでもまだ俺は、自分が有利な立場にあると思っている。
あのクソみたいな骨でどう抵抗するつもりだ?
まったく役に立たんな俺の脳みそは……。
この数十年。
イノシシばかり相手にしてきたせいで、相手を見下す癖がついてしまったようだ。突進する以外に何もできない獣と、この男を同水準だと考えた俺の落ち度だ。
狙うべき部位……。心臓、あるいは首。
それが無理なら、少なくとも腹にナイフを刺す。
いや、手首や太ももの動脈でもかまわない。
前に立っているのはイノシシではない。
知能を持った人間
確固たる目的意識で、俺を殺そうと決めた人間だ。
高阪伸太郎がじりじりと男との距離を縮めていく。
男は自らの武器が圧倒的に不利であるのを自覚し、近づこうとはしなかった。
キャンキャン!
遠くで猟犬が吠えた。
男の視線が一瞬、猟犬へと向けられた。
よくやったぞ!
高阪はその瞬間を見逃さなかった。
鍛えられた脚力で一気に距離を詰め、男の心臓めがけてナイフを突き出した。
男はかろうじてナイフをよけた。
切っ先が肩をかすめると、男は一歩後退した。
高阪はこの時を逃さなかった。
追い打ちをかけるように相手の首めがけてナイフを伸ばし、途中で軌道を変えた。
男の腹にナイフが突き刺さった。
うぐっ!
男が苦悶の表情を浮かべた。
悲鳴に似たうめき声が、高坂の鼓膜を揺らした。
手から伝わるこの感触、腹のど真ん中に刺さったな。
うぐぐっ……!
男は腹に突き刺さったナイフを抜こうと、高阪の手をつかんだ。
高阪は残る左手をナイフの柄に添えて、さらに腹の深くへと押し込む。
その瞬間だった。
青空が目に入った。
同時に先ほど刺されたわき腹よりも強烈痛みが、首と胸に広がっていた。
濁った雲が、より濁って見えた。
視界の隅には男が立っている。
ハァハァハァ……。
男は着ていたシャツをまくり上げ、腹から何かを取り出した。
ああ……。
やっぱり人間は、イノシシより随分と頭がいい……。
次第にぼやけていく意識の中で、高阪伸太郎は見た。
クソが……。
腹に、イノシシの肉を隠しておいたのか。
奴は最初からこれを狙っていた。
俺はこいつの仕組んだ罠に、見事にかかってやる野生動物だったわけか。
やはり人間とは合わない。
おまえたちは……少し頭がよすぎる……。
……ガキども。
おまえたちのおかげで、あのヤロウに一応の復讐はできたようだ。
これから新しい主人をそっちに送るから、一緒に山を下りるなり何なり勝手にすればいい。
高阪は記憶の奥底にある、たったひとつの光を思い浮かべた。
……ばあちゃん。
結構かかっちまったが、やっと会いに行けそうだ。
今すぐそっちに……。
高阪の命の鼓動は停止した。
********
ハァハァ……。
目の前にいた男が死んだ。
ほんの数秒前まで自分を殺そうと動いていたはずが……無機物になってしまった。
堀口ミノルは死体の圧倒的な存在感に怯え、その場にへたり込んだ。
遠くから猟犬が堀口を見ていた。
これまで見せた威圧的な姿はもうなかった。
犬は堀口よりも、極めて正確に現実を見抜いていた。
王が変わった。
覇気を失った猟犬の視線から目を離し、倒れている男をもう一度見た。
男は目を開けたまま空を眺めている。
いくら正当防衛だとしても、警察は自分を信じてくれるのだろうか……。
いや、それよりもこの死体を工場の中に移さなければ。
犬も男もこのまま放置しておくわけにはいかなかった。
男の両足をつかんで、工場の中へと引きずっていく。
作業場を越え、血の匂いのするキッチンに男と犬を運んだ。
堀口は呼吸を整え、それからふたつの目がある部屋の前に立った。
この中にいる人間を救わなければならなかった。
それこそが生きながらえた理由。
ドアノブを見ると錠はかかっていなかった。
代わりに扉はロープで縛られていた。
堀口は男が武器として使っていたナイフでロープを切ろうとした。
そのとき……。
至極単純な考えが頭をよぎった。
中にいる者たちが私を敵だと認識したら?
拷問に近い仕打ちを受けてきた堀口には、もう抵抗する力など残っていない。
刺された背中がまだ回復しておらず、折れた肋骨のせいでいまだに規則的な呼吸ができない。
扉を開ける前に、確実に体を回復させておく必要があった。
「すまない。たった1日だけ……あと1日だけ待っていてほしい」
堀口はその言葉を残してロープから手を離した。
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