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「それは仕方ないわ。拓ちゃんは彩との別れを決めたんだから、どんな言い方をしても傷ついていたよ。それに彩を傷つけたのはあなただけじゃない……」
「えっ?」
「夜になって彩が家に来たの。拓ちゃんが彩と別れるつもりだったのか聞いてきたから、否定しないでそうだって言ったわ。とどめを刺したのは私よ」
「そうなんですか……」
「それに、私が和也君を好きだった事や、拓ちゃんを好きな事も打ち明けたわ」
「ええっ、それを……彩さんは何と?」
「気付かなくてごめんって謝っていた。それに、名義が拓ちゃんのだから、自分があのマンションを出るって言っていたわ。もう身を引くつもりなのよ」
「彩さんがそう言っていたんですか?」
明菜は無言で頷く。
拓馬はショックだった。もし、記憶が戻った時に、自分は後悔しないのだろうかと。記憶を失っている状況で事情が動くのは怖かった。
「彩は私と違って、和也君の思い出を捨てる事が出来ない。こうするしかない事は、彩自身が良くわかっているのよ」
――本当にそうなのだろうか? このまま別れて俺は後悔しないのか?
拓馬は今までで一番、記憶がない事に苛立った。
「昼間の返事を聞きたいの」
明菜が体を押し付けるように、さらに拓馬に近付く。
「昼間の返事って……」
右側に明菜の体の感触が伝わり、拓馬の緊張が高まる。
「私は本当にあなたの事が好き。その返事が聞きたいの」
明菜は潤んだ瞳で拓馬を見つめ、右手を拓馬の太ももの上に置く。
「明菜さんの気持ちは本当に嬉しいです。……でも、今の俺は明菜さんの好きな俺じゃないんです。だから、気持ちに応える事は出来ないんです」
拓馬は誘惑に負けないように、必死で答えた。
「それは違うわ。人間性は変わらない。記憶を失っても拓ちゃんは拓ちゃんよ。もし、七年前に出会っていても、私はきっとあなたを好きになる」
明菜の瞳に迷いは無かった。
「そんな事言われても、俺にはわからないよ……彩さんも明菜さんも本当に素敵な人なのに、どうしてそんなに俺の事を好きになってくれるのか、全くわからない……」
「難しく考えないで……自分の良さに気付いていないだけなんだから。あなたが一番好きよ。私を受け入れて。絶対に幸せになれるから」
明菜は今まで、こんなにも積極的に迫った事が無かった。いや、男から口説かれる事はあっても、自分から迫るのは初めてだった。
「でも、俺は彩さんの気持ちを受け入れなかった。明菜さんだけ受け入れる事は出来ないよ」
「私じゃ駄目? 彩じゃないと駄目なの?」
「それは違います! 明菜さんも凄く魅力的です。でも、今の俺が選んじゃいけないんです」
拓馬は明菜を見ないように、必死で目を閉じて叫んだ。
「俺、マンションに帰ります! 彩さんを止めなくちゃ。もっと落ち着いて考えないと」
拓馬は明菜を振り払うように、立ち上がった。掛けてあったコートを掴み、リビングを出ようとする。
「どうしてよー!」
明菜がテーブルの上に顔を伏せて叫んだ。明菜を放っておく事も出来ず、拓馬の動きが止まる。
「私はもう彩とは仲直り出来ない。このまま拓ちゃんまで出て行ったら、私は一人になるよ……」
明菜が、か細い声で呟く。
「俺が話をします。あんなに仲良かったんだから、彩さんと仲直り出来ますよ」
拓馬は膝をついて明菜の肩に手を置いた。
「出来る訳ないでしょ!」
明菜は涙で濡れた顔を上げて叫んだ。
「拓ちゃんは一人しかいないんだよ! どちらかが諦めるしかないじゃない! 彩が諦めたんだから、私の傍に居てよ……」
拓馬は何も言えずに、ただ明菜の顔を見つめる。
「和也君が生きていたら、みんな幸せになれたのに……私は拓ちゃんが一番好きなのに……」
明菜が拓馬の首に抱きつく。拓馬もそれに応えて抱き締める。
――和也の死が二人の女性を狂わせた。でも、もし俺に記憶があれば二人を救えたかも知れない。
――もどかしい。無力な自分がもどかしい。
「うううああー!!」
拓馬はやるせない気持ちで叫んだ。
仙崎ひとみ/九龍
紙吹みつ葉
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