入社して6年。
高田はいつも側にいて、それが当たり前だった。
でも今、高田から距離を置かれるようになり初めて気づいた。
私は高田に頼っていて、ずっと助けられてきたんだという事に。
「一華さん、まだ課長と喧嘩してるんですか?」
「喧嘩じゃないよ。嫌われたの。私が勝手な事をしたから」
「それって三和物産の件ですよね」
「うん」
「じゃあ、私のせい?」
「違うよ」
可憐ちゃんのせいじゃない。
私が高田の気持ちを傷つけたから。
「額が大きかったから、もっと問題になってもおかしくないのに、自然消滅したからおかしいなあって思ったんですよ」
可憐ちゃんは可憐ちゃんなりに、心配してくれていたんだ。
「香山さんにお願いしたんですか?」
「え?」
可憐ちゃんは社長秘書の香山さんが私の知り合いだと思ってるから、彼に頼んだと思ったんだ。
「違うよ。私は何もしてない」
「本当ですか?何か上層部の力が働いたって、もっぱらの噂ですけれど」
なるほどねえ。噂って怖いわ。
「大体さあ、大学の先輩ってだけで、そこまでしてくれると思う?」
「だから、一華さんと香山さんが付き合っているんだろうかって」
「はあぁ、ないから。それに、私にそんな力があるなら、まずは部長を飛ばしてもらうわよ」
「ああ、確かに」
普段から私と部長のバトルを見ている可憐ちゃんは、納得したように笑ってみせた。
「でも、一華さんに彼ができたんじゃないかって本気で思っていました」
「なんで?」
「最近綺麗になったし。・・・ん?.」
ジーッと顔を寄せてくる可憐ちゃん。
「何?」
「顔、赤くありませんか?」
はあ?
「熱、あります?」
「ないない」
少し頭が痛いとは思うけれど、いつもの事だし。
「本当ですか?」
と言いながら額に手を当てられた。
うわ。冷たい手。
「熱いです」
「嘘」
全く自覚はなかったけれど。
「医務室行きます?」
「いいよ。今日は忙しいから」
この後、午前と午後で2件づつ取引先回りが待っている。
今日は休めない。
「誰にも言わないでね」
「はい」
私はそのまま外回りに向かった。
***
こんな日に限って激務だったりする。
すんなりいくはずの取引先もちっちゃなトラブルがあったり、担当者が不在だったり、満員の電車移動で延々立つ事になったり。
結局昼食もとれず最後の取引先を訪問し終わったときには、私の意識がもうろうとしていた。
とにかく会社に戻らないと、その思いだけでタクシーに乗り込んだ。
本当は電車での移動予定だったんだけれど、さすがに今は無理。
自腹覚悟でタクシーに乗った。
「ハー、疲れた」
ここまで疲労感を感じたのは初めて。
まあ、熱があるみたいだから、仕方ないか。
会社に風邪薬を置いていたかなあ?
本当ならこのまま家に帰りたいんだけれど。
急ぎの伝表も起こさないといけないし、書類の作成もその日のうちに終わらせたい。
結局、無理をするしかない。
「お客さん」
いつの間にか眠ってしまっていた私は、運転手さんに起こされた。
「ああ、ごめんなさい。ありがとうございます」
慌てて支払いをし、タクシーを降りた。
渋滞に巻き込まれたせいもあって会社に戻ったのは午後7時。
その時点ではまだ数人が残業で残っていた。
けれど、いつの間にか消えていき、気がつけば私1人になった。
ああ、まずいなあ。
頭がガンガンしてきた。
それに、寒気もする。
とりあえず、デスクにおいていた私と可憐ちゃんの膝掛けを体に掛けて仕事を急いだ。
あと少し。
これだけ終われば、帰れる。
独り言のように呟きながら、気力を振り絞った。
「はあー、終わった」
やっと片付いた時、時刻は11時を回っていた。
体調が悪いせいか、随分と時間がかかってしまった。
さあ、帰ろう。
そう思って椅子から立ち上がろうとした瞬間、
ガタンッ。
崩れるように、膝から倒れた。
ダメだよ。
もう少し頑張って、家まで帰らないといけないのに。
わかっているのに、体が動かない。
火照った顔にオフィスの床が気持ちいい。
その場から動けなくなった私は
「ちょっとだけ休めば楽になるから」と言い訳して、そのまま目を閉じた。
***
ほんの一瞬、私は夢を見た。
それは6年前、入社式で初めて高田に出会ったとき。
普段から会社に出入こそなかったけれど、重役達の中には見知った顔もある。
社長の娘ってバレないように、私は後ろのすみで隠れるように座った。
ピカピカのスーツに身を包んだかわいらしい男の子。
新入社員らしく、紺や黒のスーツを着て綺麗にメイクした女の子達。
みんな笑顔で笑っていた。
そんな中に、1人。無表情な男子。
私の2つ向こうの席に座り、真っ直ぐに前を見ている。
もしかしてモデルかなって位目立つ顔立ち。
仕立ての良さそうなスーツ。
めがねの奥でキラッと光る強い眼光。
思わず引き込まれた。
誰だろう?ここにいるからには新入社員だよね?
その時、
「鈴木さん、高田くん」
30歳くらいの男性に声を掛けられた。
「「はい」」
私と共に声を上げたのは2つ向こうに座っていた男子。
呼んだのは当時の営業課長だった。
その日の新入社員の予定は、朝から2時間ほどの式典、その後は各部署に別れてのオリエンテーリング。課長は私達を迎えに来てくれていた。
「今日から君達の上司になります、森です」
「「よろしくお願いします」」
ペコンと頭を下げた。
「今年営業に入ってきたのは君達2人だけだ。鈴木さんは女の子だけれど総合職での採用だから、高田くんと同じ仕事をしてもらうことになる。覚悟はできている?」
優しそうな顔で聞かれ、
「はい、もちろんです」
はっきりと答えた。
「じゃあ、まず2人で自己紹介して」
「「えっ」」
なぜか固まってしまった。
「ほら、早く」
ニコニコと笑顔の課長。
私は仕方なく、
「鈴木一華です。よろしくお願いします」
右手を差し出した。
「高田鷹文です。よろしく」
彼も右手を差し出し、2人で握手をした。
***
「よしっ、これからお前達は俺の部下だから、高田、鈴木って呼ぶぞ」
課長の目が突然鋭くなった。
「たとえ女だろうと」
そう言って私を見る。
「たとえ」
今度は高田を見て
「・・・だろうと」
小さな声で私には聞こえなかった。
「俺の部下になった以上は遠慮しない。お前達を一人前に育ててやるから俺に着いてこい。いいな?」
「「・・・」」
予想外な体育会系ののりに、黙ってしまった私達。
「返事っ」
「「はい」」
それが高田との出会いだった。
あの日から、森課長には本当にお世話になった。
大学時代ラグビー部だった課長はいつもパワフルで、「もっとできる、頑張れ」と励ましてくれた。
失敗して雷を落とされたことも何度かあったけれど、私は森課長が好きだった。
その気持ちは高田も一緒だと思う。
2年後、栄転でアメリカ支社に行くことになった課長に「行かないでくださーい」と泣きついたっけ。
あの頃が一番幸せだったなあ。
***
そういえば、新人のときにも、今日みたいな事があった。
風邪なのに無理をして取引先周りをして、帰りの電車で動けなくなった。
駅員さんに助け起こされ、連絡先をと聞かれて教えたのが高田の電話。
家に知らせる訳にもいかず、会社にも言えず、他に頼れる人がいなかった。
あの頃は高田だって新人だったわけで、自分の事で手一杯のはずなのに、すぐに駆けつけてくれたっけ。
「無理するんじゃない」
って叱られて、タクシーに乗せてもらった。
あの頃からずっとお世話をかけていたんだね。
あれ?
高田の匂いがする。
今時の夢って匂い付きなのかなあ。
フワフワと雲の上を歩く感覚も、肌に伝わる暖かさも、久しぶりに見たいい夢かも。
このまま覚めなければいいのに。
***
「おい」
ん?
なんだかとても機嫌の悪そうな高田の声。
「おい」
もう一度聞こえてきて、私はやっと目を開けた。
嘘。
夢じゃなかった。
本当に高田が・・・いた。
それにここは、
「俺んちだ」
「はあ」
なぜ?
えっと、私は自分のデスクで気分が悪くなって、立ち上がろうとして倒れてしまった。
冷たい床が気持ちよくて・・・
ん?
「痛っ」
突然、高田が私の頬をつねった。
「お前が倒れているのを見て死んだかと思ったぞ」
私もこのまま死ぬかと思った。
そのくらい辛かった。
ギュッ。
頬をつねる指に力が加わる。
「高田、痛いから」
「当たり前だ痛くしてる」
一向に止めてはくれない。
「ふざけないで」
「ふざけてない。怒ってる」
「・・・」
きっとここは、『心配掛けてごめんなさい』っていう状況なんだと思う。
でも、私は黙ってしまった。
倒れてしまい高田に迷惑を掛けたのは事実だけれど、私も遊んでいたわけではない。
無理をして取引先を周り、事務処理もこなし、自分の責務をまっとうした。
どちらかというと、よくやったって褒めて欲しいくらい。
ギュッ。
反対の頬にも高田の手が伸び、両頬を引っ張られた。
「い、いらぁーい」
精一杯『痛い』と叫んだ。
「倒れているお前を見て、どれだけ心配したと思っているんだ。反省しろっ」
その表情が辛そうで、すごく心配させたんだと伝わってきた。
「・・・ごめん」
「馬鹿野郎」
最後にギュッと引っ張って、高田の手が頬から離れた。
***
いっ痛ーい。
ヒリヒリする頬を両手で押さえながら、私は辺りを見回した。
「今何時?」
「4時」
やっぱり夜中か。
「家は大丈夫なのか?」
「うん」
兄さんは先週からアメリカに行っているし、父さんも大阪へ泊まりの出張。
「今日は大丈夫」
「そうか。じゃあ、もう少し寝ろ。このままベットを使えよ。俺はソファーでいいから」
「う、うん」
見れば、セミダブルのベットに寝かされている私。
ジャケットだけ脱がされて、服は着たまま。
「熱は下がったみたいだけれど、今日は会社を休めよ」
「・・・」
今日も取引先との約束が何件か入っている。
「課長命令」
「でも・・・」
「これ以上言うと、取引先全部外して内勤にするぞ」
「それはダメ」
思わず出た言葉に、高田がクスッと意地悪く笑った。
誰よりも側にいて、私の弱点を知り尽くした同期は、扱いだって思いのまま。
私は諦めて、目を閉じるしかなかった。
***
朝には熱も下がり、いつもの私に戻っていた。
「俺、朝一でアポがあるから行くけれど、大丈夫?」
「うん。もう平気。家に帰って寝ます」
「そうしてくれ。約束している取引先は、俺と小熊でなんとかしておくからゆっくり休め」
「うん」
さすが高田はぬかりない。
「台所に食いもんもあるから、食べれそうなら食べてくれ」
「ありがとう」
さっきまでTシャツと短パン姿だったのに、スーツを着た瞬間できる男に見えてくる。
これが私の知っている高田鷹文だ。
「ねえ、高田?」
「ん?」
「もう、怒ってないの?」
どうしても気になって口にしてしまった。
「ああ、元気になればそれでいい」
優しい笑顔。
いや、そうじゃなくて・・・
「違うの。昨日の事じゃなくて・・三和物産の件」
「ああ」
そのことかと、少し表情が暗くなった。
あれ以来、私は高田に避けられていたから。
「お前は何もしていないんだろう?」
意地悪い顔。
「俺の知らないコネを使って上層部に手を回したりしてないんだろう?」
う、うう。
全部バレてる。
「ごめんなさい」
「鈴木らしくないな」
「・・・ごめん」
だんだんと声が小さくなっていく。
「過ぎたことはもう言わない。ただ覚えておいてくれ。俺はコソコソするのは嫌いだ。そんな事までして守ってもらってもうれしくない。2度とするな」
「ごめんなさい」
「今日はごめんなさいの大安売りだな」
クククと笑って、高田は出て行った。
1人残された私。
広いリビング、高そうな家具。
立地から言っても、かなりの高額物件のはず。
高田は何者なんだろう。
気にならないと言えば嘘になるけれど、秘密を持つ身としては追求することもできない。
しわになったスカートを必死に伸ばし、冷蔵庫のゼリーをいただき、私は自宅に向かった。
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