この作品はいかがでしたか?
2
この作品はいかがでしたか?
2
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、女学徒などが計96校、約5万名が学校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・高校・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條英機首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、「海行かば」の斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。
壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。
全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示すことができないままである。ただし、当時の文部省の資料によれば当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等学校などの総計)は5%以下であり(PDF) 、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。昭和18年2月現在での『文部省年報』によると、大学生(予科を含めて)が103,579名、旧制高等学校生が28,491名、旧制専門学校生が16,373名とし、総数290,443名(内女子が31,944名)となっているという。蜷川壽惠『学徒出陣 戦争と青春』1998年、吉川弘文館によると、この年報と大学側の資料を照らし合わせて算出すると、昭和18年12月時点で受験者数は旧制大学で49,061名、旧制高等専門学校で34,491名、旧制高等学校で4,587名、大学予科で5,330名、合計42400名に対し入隊者数推計が旧制大学で28,877名、専門学校で13,516名、旧制高校で1,593名、大学予科で3,895名で合計19,005名とし、うち陸軍3万3千6百2名、海軍が1万4千2百8十名としている。なお、同書によると実際は理科系と師範学校理系学生でも入営の延期年限超過等により入隊を余儀なくされ、こうした学生は東大で68名、全体推計で374名を推定し、内地人で按分すると1000人ほどになるという。
在籍者数などについては『東大資料室ニュース』1994年3月31日 12号「沿革史」では、当時東北帝国大学で1943年入学者数851名の内、法文科学生数入学者数が375名、東京帝国大学が1943年12月31日時点での在籍者数9711名で休学者を除くと6623名、うち入営での休学者が2884名、九州帝国大学で1943年12月2日時点で法文学部入学者数が336名、内残留しえる者が111名(法56名、経47名、文8名)、同年12月15日提出「臨時徴兵―調書」で法文学生の実態は受験者724名で未通者126名、既検査済者134名で半島出身者が9名、留学生と女子学生は7名、合計100名と割り出している。京都帝国大学では1943年の臨時徴兵検査で残留者が法学部で約19パーセント、文学部で約30パーセント、経済学部で約30パーセントで、文系学生の約8割が入隊し、在学生は3分の1であったとしている。なお京城帝国大学で1943年11月5日時点では陸軍特別志願兵志願者数は8名としている。日本図書センター刊『写真記録 日本学生の歴史』では、戦時中師範学校を含めて旧制高等教育機関の男女学生総数は約28万人としており、このうち18万人が理工系学生も含めて軍属産業を中心とする工場や農村で働いたとされる。総数を算出する試みが各種資料で見られる。前述の『東大資料室ニュース』では日中戦動発後の事実上の学徒動員で戦没者を早稲田大学生が4136名、慶應大学生が2225名としている。北影雄幸『六大学徒 出陣の特攻』2011年 勉強出版では、神風特攻で士官戦没者が769名、内、学徒予備士官者が653名になっているとし、学徒軍籍であったのが終戦までに約30万人、飛行予備学生戦没者が2454名としている。陸軍入営学徒が80,931名、海軍のそれが17,900名で総計98,838名で当時理工科の学生数が33,566名であったとしている。同書ではここから初年度の昭和18年12月時点での算出を試み、海軍予備学生第13期が約9,800名、特別操縦見習士官が約2,500名であるため、割合等から1,607名が戦没とみている。蜷川の前掲書によると東大と東京商大の学生について試みており、それによると東大生が入隊時2,884名で戦没者が279名、東京商大が入隊数821名で戦没者数が75名で全体の約9パーセント、全体推定数は約4,600名程度とみている。全入隊が55万名とみており、そこから飛行科、兵科、主計科、予備生と教官(士官に進んだ者であるが一般兵、下士官の区分は不明)で合計卒業者数を10,527名、そこから戦没が約9パーセントになる990人とみている。
なお、その出征者の多くが富裕層の出身であり(当時は21世紀以上に貧困層の進学は困難だった)、将来社会の支配層となる予定の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となった。