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このような戦中・戦後の死線をくぐり、日本に帰還した学徒兵は多くが元の学校に復学し卒業した後は戦後日本の復興や発展の牽引役となった者も現れた。答辞を読んだ江橋慎四郎は出陣後、航空整備兵として内地で陸軍に所属して無事生還し、後に東京大学教育学部教授や鹿屋体育大学学長になった。早稲田大学第一商学部から陸軍特別操縦見習士官に志願した竹下登も戦後に卒業して故郷の島根県で県議となり、後に内閣総理大臣まで務めた。竹下の後に内閣総理大臣となった宇野宗佑は神戸商業大学在学中に学徒出陣となり、シベリア抑留を経て帰国した後も大学には戻らず滋賀県県議から政治家の道を歩んだ。宇野内閣では内閣官房長官の塩川正十郎も慶應義塾大学経済学部の学生として明治神宮外苑の壮行会から出征した(出征中に卒業扱いとなった)。竹下と宇野、それに明治大学専門部政治経済学科から1944年(昭和19年)に徴集され、戦後復学して卒業した村山富市の3人が、日本の内閣総理大臣になった学徒出陣経験者である。また、宮澤内閣の副総理などを務めた渡辺美智雄も東京商科大学を繰り上げ卒業し学徒出陣した。このほか、日本統治時代の台湾に生まれ、後に中華民国総統になった李登輝(日本名:岩里政男)も京都帝国大学在学中に学徒出陣している。茶道裏千家の家元の家に生まれた千玄室は同志社大学法経学部経済学科在学中に徴兵を受け海軍で志願して特攻隊員となったが、出撃前に戦争が終結したために大学に復学し後に第15代家元を襲名した。千の居た部隊で生き残ったのは2人だけで、もう1人が日本大学専門部芸術科から徴兵された後に俳優になる西村晃だった。宇野や塩川は自分の戦争体験を(宇野はその後の抑留を含めて)著書や講演などで語った。一方、江橋は沈黙を守っていたが、学徒出陣式から67年後の当日になる2010年10月21日付の朝日新聞でインタビューに答え、2013年の同日には毎日新聞の取材にも応じた。毎日新聞のインタビュー記事では「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ、戦後に事実と異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかった理由としながら、「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」として、自らの姿勢を変えたことを説明している。