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第137話:MACDとRSIの奴隷〜魔王の帰還、あるいは為替チャートへの幽閉〜
「……来てる。MACDのヒストグラムがプラスに転じた。さらにRSIは40を上抜け……完璧だ。ここは絶対の『買い(ロング)』サインだ!」
帯広のボロアパート、四畳半。
俺は、三万円のゲーミングチェアの上で、完全に血走った目をPCモニターに貼り付けていた。
画面に映っているのは、もはやVTuberの配信画面でも、YouTubeのコメント欄でもない。
黒い背景に赤と緑のローソク足が並ぶ、USD/JPY(ドル円)の15分足チャートである。
株式会社インフィニティ・ワンの代表取締役社長であるはずの俺は、ここ数日、完全に本業(配信活動とマネジメント)を放棄していた。
理由は一つ。海外リスナーから投げつけられた『十万ドル(約一千五百万円)』のスーパーチャット収益を、最も高いレートで日本円に換金するためだ。
「いけ……! 上がれ! 1ドル151円の壁をぶち抜け!! そうすれば俺の資産が一瞬で十万円増えるんだ!!」
マウスを握る右手に、じっとりと嫌な汗が滲む。
俺がチャートに呪いをかけていると、ディスコードの裏回線から、我が社の冷徹な経理担当・結愛(ゆあ)の氷点下ボイスが響き渡った。
『……ルシフェル様。現在、ヨモさんのゲリラ配信がスタートしておりますが、社長としての監視業務はどうなっていますか?』
「後だ後! 今それどころじゃねえんだよ結愛! 見ろ、この美しいチャートの形を! これはエリオット波動の第3波だ! 間違いなくここから爆上げする!」
『……完全にFXの専門用語に脳を支配されていますね。先週まで「エリオット波動」なんて言葉、必殺技の名前か何かだと思っていたくせに』
「うるせえ! 人間は学ぶ生き物なんだよ! 俺は四十歳にして、ついに資本主義の真理(テクニカル分析)に辿り着いたんだ!」
俺は、画面の下部に表示させたMACD(マックディー)とRSIのグラフを指差し、ドヤ顔で熱弁を振るった。
「見ろ! このMACDのシグナル線を! ゴールデンクロスが完成して、圧倒的な上昇トレンドを示唆している! さらにRSIはまだ買われすぎの水準(70)に達していない! つまり、まだ上がる余地があるってことだ!」
『浅知恵ですね』
結愛は、ウェブカメラ越しに呆れたようにため息をついた。
『ネットで拾った浅いテクニカル指標の知識だけで、ウォール街のエリートや機関投資家のアルゴリズムに勝てると本気で思っているのですか? それは、竹槍で最新鋭のステルス戦闘機に立ち向かうようなものです』
「竹槍上等だ! こっちには十万ドルっていう弾があるんだよ! さらに言えば、最近はスワップポイント(金利差)狙いでMXN/JPY(メキシコペソ円)のチャートまで監視し始めてるからな! 俺のポートフォリオは完璧だ!」
『……完全にギャンブル依存症の初期症状です。お願いですから、本業に戻ってください。ヨモさんがまた「社長は今、画面の赤と緑の棒を見て奇声を発してる」と海外リスナーに暴露していますよ』
「なんだと!? あの野郎、社長の威厳を……!」
俺がヨモの配信枠に怒鳴り込もうと別タブを開きかけた、その時だった。
『――ルシフェルさん。USD/JPYの相場に、急激な変動(ボラティリティ)が発生しています』
AIアシスタントのジェミニ先生が、無機質な警告音と共にポップアップを出した。
「えっ?」
慌ててチャート画面に戻る。
さっきまでジワジワと右肩上がりだった赤色のローソク足(陽線)が。
突如として、巨大な緑色のローソク足(陰線)へと姿を変え、滝のように真っ逆さまに落ち始めたのだ。
「なっ……!? はあぁぁぁぁっ!?」
1ドル=150.80円だったレートが、瞬く間に150.50、150.30、そして150.00の壁をぶち抜いて下落していく。
「お、落ちるなァァァ!! なんでだよ!! MACDはゴールデンクロスしてたろ!! RSIも完璧だったじゃないか!!」
『アメリカの重要な経済指標(雇用統計)の発表時間だったからです。事前の市場予測を下回ったため、急速なドル売り・円買いが進んでいます』
結愛が、感情を一切交えずに死刑宣告を下す。
「こ、雇用統計!? なんだよそれ!! そんなのチャートに書いてなかったぞ!!」
『テクニカル指標(過去のデータ)ばかりに囚われ、ファンダメンタルズ(現実の経済指標)を完全に無視した結果ですね。典型的な、素人トレーダーの末路です』
「うわあああああ!! 止まれ!! 頼むから止まってくれ!! 俺の資産が……俺の十万ドルが、一瞬で数十万単位で目減りしていくぅぅ!!」
俺は、三万円のゲーミングチェアの上で、頭を抱えてのたうち回った。
さっきまで「俺は天才だ」「資本主義をハックした」と息巻いていた四十歳のおっさんは、今や見る影もない。
「そ、損切りだ……! いや、待てよ! これは一時的な調整(押し目)に違いない! ここで売ったら負けを確定させることになる! 耐えるんだ……耐えれば必ず反発する!!」
『出ました。「含み損は決済しなければ損じゃない」という、破産者のテンプレ思考。ルシフェル様、貴方は今、完全にプロの養分(カモ)にされています』
「うるさい結愛!! 俺のMACDを信じろ!! 戻る……絶対にレートは戻るんだァァァ!!」
俺は、画面にへばりつくようにして、下落し続ける緑色のローソク足に祈りを捧げた。
胃袋が限界まで収縮し、全身から嫌な汗が滝のように吹き出す。
VTuber事務所の社長。
そんな肩書きは、もはやどうでもよかった。
今の俺は、ただの『MACDとRSIの奴隷』。
画面上の僅かなピップス(値幅)の動きに一喜一憂し、自らの寿命(メンタル)をゴリゴリと削りながら、インボイス以上に恐ろしい【為替の沼】へと、頭の先までズブズブと沈んでいくのであった。
「上がれぇぇぇ!! メキシコペソも巻き添えで下がってんじゃねえか!! 助けてくれぇぇぇ!!」
帯広のボロアパートの四畳半に、素人FXトレーダーの断末魔が虚しく響き渡っていた。
ゆうき あきや
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コメント
1件
いやもう完全に草生えたわwww社長、完全に沼にハマってて最高に面白かった!MACDとRSIでドヤってるのに雇用統計で一瞬で奈落に落ちるところ、まさに初心者トレーダーの教科書的な末路すぎて笑いが止まらなかったわ。結愛の冷たいツッコミがまた絶妙で、ゲーミングチェアで断末魔あげる社長の姿がありありと浮かんだ。次はファンダメンタルズも勉強して戻ってくるんでしょ?楽しみにしてる!🔥