「…だから、死にたいなんて言葉簡単に使わないで」
道浦は低く静かに呟き私に刃先を向ける。
私に刃先を向ける。していることと言っていることが矛盾しているのだが。
「…な、何それ…。ストーリーの終わり…だからキスをしようっていうのはどういうこと。それとその。い、意味がわからないです…。」
細く薄く尖り続ける刃先に全意識が集中する。
まさか本当に死が目の前に迫っていることに現実味がない。刃先を見ているだけで皮膚を引き切る感触が伝わってくるようだ。
みるみる私の顔は強ばった。どうしても表情を作ることができない。
実際に死を前にするとこんなにも情けなく怯える自分がいた。
すると、一歩、また一歩と道浦は踏み出した。柵のせいでそれ以上後ろに下がれない私は、道浦に追い込まれたが、そのまま腰に手を回し、顔をうずくめられた。
刃物と行動の狂気と安堵のギャップに思わず心を委ねてしまいそうになったが、きっとその感情は信じてはいけない。こんなやつに心を委ねるだなんてことは絶対にしてはいけない。DV彼氏や洗脳する宗教と同じようなものだ。
「僕は君を…愛してるんだと思う。」
突き放そうとしたが、身体に力が入らない。唐突に睡魔が私を勧誘したのだ。睡魔と死にたいは紙一重のようだ。目の前にあるのはどうも現実味のない光景。まるで夢を見ているよう。感覚がふわふわと鈍くなる。
あれ?私を抱き寄せるのは誰?
懐かしさを感じるのは何故?
違う。こいつは、道浦だ。あの、道浦のはずなんだ。私はこいつに心を許す訳がない。
愛してる?
その言葉の意味をこいつは知っているのか?当てはめる言葉が違うだろ。
睡魔へと誘う”誰か”に抱きしめられる。”誰か”は私を見ていた。私は今、ここにいるよ。
「そうか、私はお前が大嫌いだ」
なんとか言葉だけでも反抗を試みた。
すると、たちまち視界は輪郭を失い、私は眠りの世界に落ちる。
くたりと意識を失ったような楓果を腕の中で感じ、僕は不思議に思いながらも、甘い味に触れたくてキスをした。柔らかい肉の感触。触れるごとに麻痺するようなこそばゆくも歓喜の痺れ。もっと彼女の深くに入り込みたい。そんな欲求は抑えないことにした。
どうせもうすぐで死んじゃうからね。
ボタンを1つ1つ外していく。
隠しているものを強引にこじ開け、君を見つけてしまいたい。
早く起きてほしいな。
覗かせた肌に触れてみようとしたその瞬間。
「はっ…はははははははは!」
くらりと身体を持ち上げ、彼女は唐突に笑い始めたのだ。僕は手を離しその光景を、静かに眺めた。
「ははは…道浦あっ!やるなあ。お前、親を殺したのか。」
芯のある声。下着を軽く覗かせ、ニタリと口角を上げた彼女。先程までの僕の行いなんてなんとも思っていないような。
それは楓果ではない別人のようだった。
?
?
どうして親を殺したことを知っている?
「道浦…。私が誰かわかるか?」
「…二重人格か何かかな?」
すると彼女は僕をまっすぐに捉えたまま見下すように再び笑いを溢した。襟元を強く捉まれ、僕へと再度口づけが交わされる。
…っい!
僕は彼女を突き放し、反射的に口元に手を当てる。
「私は私専属のボディーガードだよ。」
がりっ…と舌を噛まれた。熱く痛みが鼓動する。口内に広がるのは、血の味。血の匂い。唾液とともに赤いものが顎をつたった。
「君は楓果じゃないということか…?君は誰」
どうやら彼女の人格が変わったらしいが、とくに衝撃はなかった。いや、僕は”彼女”を探していた。
「私は楓果だ。私にそれ以外の名前をつけるな。お前のことなんぞ興味はない。私が気に食わんのは…」
瞬間、首を掴まれた僕は咳き込むが声が押し込まれうめき声だけが漏れ出る。
「お前が私を見下したことだ。」
「だからこうしてレイプという行動に走ったのだろう?人を殺めた理由だってそうだろう?」
身体が倒され、喉を上から押し込み馬乗りになった彼女を眺めた。
「もっと抵抗しろよ。気持ち悪い。」
すると、首から手が離され、僕はその隙に大きく咳き込んだ。ヒューヒューとどこからか空気の漏れ出る音もする。
「あ……ああ。楓果…!会い…たかった…。ぼ………僕は君を探していたんだよ。」
「…君…は昔、人を刺したことがあ……あるんだろ?そして…飛び降りたんだろう?」
「君だったんだね!あ…会いたかった…!僕と同じ…!」
とたんにみぞおちを強く蹴られる。冷や汗が溢れ、がたがたと身体が震える。本能的に腹部を庇う。
「何を根拠にそんなにも恥ずかしい台詞ついちゃってんの?馬鹿さん。」
「それに私と君を同じにしないで。あとさ…」
彼女は目を細める。
「君のいう、愛してる。は、性欲のことを言ってるんじゃない?何綺麗に言葉を美化してんだよ。」
「お前は自分勝手だ。自分のことしか考えていない。前にも言っただろう?都合のいいものばかり見て都合よく解釈する馬鹿だと。」
口元に薄ら笑みを浮かべ彼女は言った。
「君。邪魔だからさ、死んでくれない?」
初めて言葉を交わしたあの台詞は君の言葉だった….
にこり。と疑いようのない優しい笑みを浮かべながら呪いの言葉を吐いた。
救いの言葉を吐いた。僕はこの言葉を言ってほしかった。誰かが僕をもう一度殺してくれるんじゃないかと。それは魔法の言葉だった。
“君のその言葉は僕を見つけてくれたから”
母の死があったあの日、本来の僕は殺された。
それからは生きている心地なんてものはなかったんだ。この人が僕を救ってくれるのだろうか。死に本能的に抗う生き物である惨めな僕に、どうか、罰を。救いを。下さい。
「私を虐めていいのは私だけ。君、本当に邪魔。」
そう言い残した彼女は落ちた包丁を服越しに手に取った。
とたんに胃液が逆流し、思わず中身を吹き出してしまう。胃酸の匂いが鼻をつんざく。
「道浦くぅーん。じゃあねん。」
楓果はスマホを取り出し電話をかけた。違う。僕はそれを求めてない。君の手で僕を殺してほしいんだ…!
道浦は目を見開き、もの凄い勢いで立ち上がり手に持つスマホをなぎ払った。
「やめろおおおっ!全部台無しになるだろうがっ!!楓果あっ!お前こそ調子にのるなよ!」
けたけたと目を細め舌を出し、僕を嘲る。
「はははっ!それそれ!美化してんじゃねえよっていうのはそういうこと。ゲロまみれ必死になるその姿が一番君らしいよ。」
…取り乱してしまった。それは僕じゃない。手をさする彼女を見て、彼女のか弱さを思い出す。
「…ごめん手痛かったよね…。」
やはり今のうちに楽しみたいものは楽しんでおかなくては。通報なんてどうでもよかったけど、まだ、だめだ。もっと一緒にいたい。彼女が生きている限り。どうにかして長く長く一緒になりたい。
「スマホ…もう持ってないよね。持ってないよね。」
「持ってたらどうするの?」
「持ってるの?」
「スマホ2台も普通持ってないよ。」
そういえば、彼女はいつも黒色のスマホなんて使っていない。肩にかけているリュックを即座に掴みにかかる。
「…っ!止めてよ!」
声を荒げ、今までになく激しい抵抗をみせる。するとどこかのポケットに手を突っ込み何かを救出しようとする様子が目に入り、僕は強く彼女の腕を掴んだ。
「助けてください!殺されます!助けてください!場所は…」
110番に繋がったままの画面が目に入る。いつから通報していた?!時間の長さによってはすでに位置を把握されている可能性がある!
腹立たしい。
カタリと地面に落ちたスマホをこれでもかと一発大きく踏みつける。蹴り飛ばす。
「………………………」
「ぐっ…う…」
彼女の首をきりきりと締め上げた。これ以上大声で叫び散らかされるのもうんざりだ。誰かが来たらどうするんだよ。手のひらに血管の脈打つ流れを感じながら、意識を失ってくれるのを待った。
コメント
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執筆お疲れ様です…😭 本当にめちゃくちゃ楽しみにしていました!! 木ノ下さんの描く人間の狂気だったり、闇だったりが大好きです。 まるでその場面に遭遇したことがあるかのような情景描写や、楓果さんと道浦くんの似たようで似つかない狂気が沢山読めたので、今日も一日生きていけます…☺️☺️