彼はいつも、足音もなく、きっかり0時に姿を現す。真っ黒なマントを翻して、まるで、影のように窓辺に現れる。いつも、決まって、きっかり、0時に。
俺はいつも、じっと息を殺して彼を待つ。寝ている振りをする。彼が部屋の中に入ってくる気配を、敏感に感じ取りながら。鍵をかけたって彼はお構いなしだった。何でもない顔をして、するりと壁をすり抜けて、ベッドに潜り込んだ俺のすぐ隣までやってくるのだから。
俺の心拍数は0時に近付くにつれ次第に上がっていく。息が、殺せないほどに高くなる。俺はこうして、毎晩、毎晩、彼がやってくるのを待っている。努めて待っていない振りをしながら、心の中ではこれ以上ないくらいに強く強く彼の訪れを待っている。俺はひたすら、彼には確実にばれているような、くだらない芝居を続けていた。それはほかでもなく、こんなこと、本当は望んではいけないことだと俺自身が知っていたからだった。
かたかた窓が音を立てた。風が吹いたせいだった。かと思えば、ふと彼の気配を感じた。ゆっくり、腕がシーツの中の俺へと伸びてくる気配だ。
彼にわからないよう、ちらりと窺った時計は、やはりぴったり0時を指していた。
彼の手のひらが音もたてないでシーツを剥ぎ取って、寝た振りをした俺の前髪をそっと撫でる。耳元に冷ややかな吐息を吹きつけて、俺を覚醒へ導こうとする。俺は、まるでいましがた目を覚ましたみたいに、ぱちぱち瞬きをしてから、ゆっくりと彼の頬に指を伸ばした。
真っ暗な部屋の中は今、月明かりだけでぼんやり青白く照らされていた。毎晩0時からしばらくの間は、俺の部屋も俺自身も全て彼に支配される。耳には自分と彼の息遣い以外何も聞こえない。
「……ん」
彼と目があったかと思うと、あっという間に彼の冷たい唇で俺のそれが塞がれた。唇と同じく、氷のようにひんやりした舌が口腔の中に滑り込む。
「んん、」
毎晩、同じ時間に、同じように訪れるのは、ぞくぞくするほどの快楽。
シーツをひっかいて、必死で彼の舌に自分のを絡ませながら、夢中の口付け。本当に、文字通り、これは夢であるのが望ましかった。夢であることを望むのが普通だと誰もが口を揃えるだろう。恐怖におののいて泣き叫ぶのが本当だと。だけれど、俺は違った。これが夢か、はたまた現実かなんてどうだって良かった。事実、これは紛れもない現実だった。身の毛もよだつような、本当の出来事だった。
「ああ…、ん」
冷たい指先が、凍るような爪が、俺の肌を辿っていく。彼はいつだって少しも間違うことなく、俺の悦ぶ場所を愛撫する。真っ黒な、目にかかる前髪をさらさらと落として、俺の肌に口付ける。俺は、時折高い嬌声をあげて、恍惚とした気分に浸りながら、彼に身を任せた。
愛しい。
愛しい。彼が、とても、愛しい。
間違った愛情。だけれど、止められない。彼に支配されても良いなんて思うのは、本当に間違った愛情だった。そんな、自分の完全な間違いでさえ、彼を思えば愛しいだけで終わる。彼の前では、正しいとか間違いとか、そんな決まりごとは意味がなかった。
闇黒が、彼の住処だった。不吉は彼を象徴した。彼は暗闇の世界でならば全てを支配した。人々は彼を恐れた。
俺は、彼を愛した。
彼の指先も舌も唇も、冷たい楔だって受け止められた。望んで、この身を差し出した。
「…あっ、あ…あ!」
俺が彼を愛するのと同じように、彼も俺を愛してくれた。彼に愛されることで、俺は生きていられた。彼に愛されるために、俺は生きていた。
矛盾した愛。本当の意味で、彼に支配されたい俺と、本当の意味では俺を支配しようとしない彼。俺たちはただもうずっと、毎晩午前0時からの、ほんの少しの間だけ肌を重ねあって、噛み合わないはずのおかしな歯車を、無理やりに削りあっている。
「ん、あ…ああ」
彼の絶頂が近付くのにあわせて、俺も何度目かの高みに導かれるけれど、胸の奥は引き裂かれるように痛くて。
悔しくて、彼の背中に爪を立ててみても、その冷たい肌は血を流したりしない。だから、それなら、俺が…。
「あっ」
ピクリと指先を震わせて、身体の一番奥で、ひんやり冷たい彼の愛を受け止める。肩で息をしながら彼の黒いマントをひっぱってみせると、そっと、優しい口付けが振ってきた。まるで、彼の口元にはあるはずのない笑みが浮かんでいるような気さえする。優しさなんて、彼が持ち合わせているはずもないのに。
俺は、あるはずなんてない彼のちいさな優しさが、憎くて、そしてとても愛しかった。
もうすぐ、行ってしまう。彼が、俺のもとを去ろうとしている。悲しくて、苦しい。あんなに愛し合ったのに。明日になればまた俺は、息を潜めて、シーツの中に潜り込んで、懲りないで寝た振りをしながら彼の気配を待つんだ。こんなにも、愛し合ってるっていうのに。
彼の支配は月の元だけ。人々が彼を恐れるのも、真っ暗な闇夜の中でだけ。俺は太陽の元を恐れ、彼の支配を待ち望む。夜が必ず来るなんて、そんな保障はあるだろうか? 今度彼に愛される時が、必ず来るなんて保障はある?
「ねえ…」
行かないで。彼の首に抱きついて、真っ黒な、大きな瞳の中を覗き込む。
「いつになったら俺の魂を食らうの? 親愛なる、死神さま」
ああ。黒い瞳の、光なんて映さない深い深い闇の中、覗き込んだその美しい闇の中に、このまま吸い込まれてしまいたい。
コメント
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わあ…なんか素敵🖤💚