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藤代久枝。
書類の申請者欄に義母の名前を見つけた瞬間、美沙は、紙を持つ手から力が抜けた。
白い書類が膝の上に落ちる。
乾いた音がした。
航平の嘘だけではなかった。
夫婦の中だけの問題でもなかった。
美沙の知らないところで、何かが動いている。
その中心に、義母までいる。
美沙はしばらく、リビングの椅子に座ったまま動けなかった。
窓の外では、朝の光が何事もないようにマンションの向かいの壁を照らしている。下の道路からは、通勤する人たちの足音が聞こえた。
世界は普通だった。
普通の朝。
普通の生活音。
普通に仕事へ行った夫。
けれど、美沙の目の前には、普通ではない書類がある。
残業証明願 差戻通知
何度読んでも、そこに書かれている内容は変わらなかった。
午後六時十二分、退社。
午後六時四十分、飲食店。
午後八時四十分、ホテル。
午後十時五十五分、退室。
そして、同伴者。
瀬名里緒
美沙は、その名前をスマホに打ち込んだ。
検索する指が震えていた。
検索結果には、同姓同名がいくつも出てくる。美容師、会社員らしきSNS、誰かの結婚式の写真、古い投稿。
どれが航平とホテルに行った女なのか、分からない。
分からないのに、画面を閉じられなかった。
ふいに、航平の笑顔が頭に浮かんだ。
「ああ、それか。接待」
嘘だった。
「取引先と俺で二名だろ」
嘘だった。
「俺を疑うの、癖になってない?」
それも、嘘をごまかすための言葉だった。
美沙はスマホをテーブルに伏せた。
今までにも、こういうことはあったのではないか。
急な残業。
休日の仕事。
出張帰りに増えた香水の匂い。
スマホを伏せて置く癖。
風呂場までスマホを持っていくようになったこと。
その一つ一つを、美沙は「考えすぎ」と片づけてきた。
航平に言われたからではない。
自分で、そう思おうとしてきた。
夫を疑う妻になりたくなかった。
疑ったあと、本当に黒だった時に壊れるものを見たくなかった。
けれど今、書類がそれを目の前に置いている。
見なさい、と。
美沙は立ち上がった。
まず、財布。
次に、脱衣所の洗濯かご。
その次に、航平の仕事用バッグ。
昨夜までなら絶対にできなかった。
夫の持ち物を調べるなんて、卑しいことだと思っていた。
でも今は違う。
卑しいのは、見ようとすることではない。
見られて困るものを隠すことだ。
航平のバッグは、寝室のクローゼット横に置かれていた。
ファスナーを開けると、書類、名刺入れ、タブレット、折りたたみ傘、ミントのタブレットが入っている。
特に怪しいものはない。
そう思った時、内側の小さなポケットから、薄いカードが出てきた。
ホテルのポイントカードだった。
美沙は息を止めた。
表には、昨夜のレシートと同じホテル名が印字されている。裏面には、小さなスタンプが三つ押されていた。
三つ。
三日前だけではない。
美沙はカードを持ったまま、ベッドの端に座り込んだ。
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
けれど涙にはならなかった。
代わりに、腹の底が冷えていく。
航平は、ただ一度だけ過ちを犯したのではない。
隠していた。
繰り返していた。
そして美沙に、疑うお前がおかしいと言った。
手の中のカードが、急に汚れたものに見えた。
美沙は写真を撮った。
表。裏。スタンプの数。ホテル名。
それから元のポケットへ戻した。
証拠は、怒りながら集めると失敗する。
千尋の声が頭の中で響いたわけではない。
まだ千尋には相談していない。
でも、美沙は直感的にそう思った。
今ここで航平に電話しても、また言い負かされる。
怒鳴られるか、笑われるか、泣き落とされるか。
そして最後には、また自分が謝ることになる。
それだけは、もう嫌だった。
昼過ぎ、美沙は高校時代からの友人・香坂千尋に連絡した。
千尋は司法書士事務所で働いている。
昔から現実的で、言いにくいこともはっきり言う人だった。
電話口の千尋は、最初は軽い調子だった。
「どうしたの、平日の昼に。珍しいじゃん」
美沙は何から話せばいいか分からなかった。
「千尋……夫が、浮気してるかもしれない」
口にした途端、それは「かもしれない」ではなくなった。
電話の向こうで、千尋が黙った。
数秒後、声の温度が変わった。
「今、一人?」
「うん」
「証拠は?」
「ホテルのレシート。あと、ポイントカード。たぶん何回か行ってる」
「写真撮った?」
「撮った」
「よし。現物は戻した?」
「戻した」
「いい判断」
千尋の声は落ち着いていた。
その落ち着きに、美沙の喉が詰まった。
「私、どうしたらいいのか分からなくて」
「まず、本人にぶつけない」
「でも……」
「今すぐ問い詰めたくなるのは分かる。でも、向こうが嘘をつくタイプなら、証拠を消される。スマホもロックされる。カードも捨てられる。話し合いの前に、紙で残す」
紙で残す。
美沙はテーブルの上の白い書類を見た。
夜間窓口の差戻通知。
千尋には、まだその話をしていない。
言っても信じてもらえないと思った。
「日付、金額、店名、ホテル名、全部メモして。できれば時系列で。レシートの写真もバックアップ。共有口座やカード明細も確認。あと、会話は録音できるなら録音」
「録音……」
「自分を守るため。怒るためじゃない。分かる?」
「うん」
「美沙」
千尋の声が少し柔らかくなった。
「今、つらいと思う。でも、自分を疑わないで。証拠が出てきたなら、あなたの違和感は間違ってなかった」
その言葉で、美沙は初めて泣きそうになった。
航平に言ってほしかったのは、これだったのかもしれない。
お前の感じたことは、なかったことじゃない。
ただ、それだけでよかった。
電話を切ったあと、美沙はノートを出した。
表紙に何も書かれていない白いノート。
そこに、日付を書いた。
三日前、木曜日。
航平「残業」と連絡。
実際は十八時十二分退社。
十八時四十分、飲食店。
二十時四十分、ホテル。
二十二時五十五分、退室。
同伴者、瀬名里緒。
書いているうちに、手の震えが少しだけ収まっていった。
夫の嘘を文章にすることは、痛かった。
けれど同時に、霧の中に線を引くようでもあった。
夜、航平はいつも通り帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
美沙は味噌汁を温めていた。
昨日より少し濃いめに作った。そんな自分に気づいて、胸の内で苦く笑った。
航平はネクタイを外しながら、リビングへ入ってきた。
「今日、何してた?」
「いつも通り」
「ふうん」
航平の視線が、一瞬だけソファの上のバッグへ向いた。
美沙の心臓が跳ねる。
バッグの中には、夜間窓口の書類が入っている。
見られたらどうなるのだろう。
航平にも読めるのだろうか。
それとも、ただの白紙に見えるのだろうか。
「何?」
航平がこちらを見た。
「ううん。何でもない」
「また変な顔してる」
航平は笑った。
「昨日のこと、まだ気にしてる?」
「……別に」
「ならいいけどさ。あんまり疑り深いと、ほんと疲れるから」
美沙は鍋の火を止めた。
昨日なら、謝っていた。
「ごめんね」と言って、空気を戻そうとしていた。
でも今日は、言わなかった。
航平は気づかなかったのか、気づいていて無視したのか、そのまま食卓についた。
いつも通りの夫。
いつも通りの夕食。
いつも通りの会話。
けれど、美沙にはもう、同じものには見えなかった。
味噌汁をすする航平の手。
スマホを伏せる指。
何気なく置かれたバッグ。
その全部に、別の意味が貼りついている。
嘘は、見えないのではない。
見ようとしない限り、生活の形をしているだけなのだ。
深夜、航平が寝たあと、美沙はコートを羽織った。
バッグには離婚届。
そして、残業証明願の差戻通知。
午前零時ちょうど、市役所の右端に、また明かりが灯っていた。
地下へ続く階段。
古びた案内板。
夜間受理窓口。
昨日と同じなのに、今日はもう夢だとは思わなかった。
美沙は階段を下りた。
窓口には、宮乃が座っていた。
黒い制服。
白い手袋。
赤い朱肉。
「お待ちしておりました。藤代美沙様」
美沙はバッグから書類を出した。
「これ、本当なんですね」
「返送された書類に、虚偽はありません」
「じゃあ、夫は……」
「一枚目の嘘を、提出しませんでした」
宮乃は淡々と言った。
美沙は唇を噛んだ。
「私は、どうすればいいんですか」
「確認してください」
「確認ならしました。ホテルのカードもありました。スタンプが三つ」
「では、一枚目は処理済みです」
宮乃は書類を受け取り、受理印ではなく、別の小さな印を押した。
確認済
赤い文字が、白い紙の上に浮かんだ。
その瞬間、窓口の奥で、また引き出しが開く音がした。
昨日よりも深い場所から。
もっと古い棚が、ゆっくり目を覚ますような音。
宮乃は一枚の書類を取り出した。
美沙の胸がざわつく。
「次は、何ですか」
宮乃は書類の表題を読み上げた。
「家族維持申請書」
そして、顔色ひとつ変えずに続けた。
「申請者は、藤代久枝様。あなたのお義母様です」
美沙は息を飲んだ。
宮乃は、白い書類を窓口に置いた。
「二枚目の嘘は、家族の形をしています」