テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#不倫
#離婚
#ヒトコワ
家族の形をしています。
宮乃のその言葉が、美沙の耳の奥に残ったまま、夜間窓口の蛍光灯が静かに瞬いた。
窓口に置かれた白い書類には、赤い枠線が引かれていた。
表題は、昨日見たものよりもずっと穏やかに見える。
家族維持申請書
けれど、その下に記された申請者名を見た瞬間、美沙の胸は冷えた。
申請者 藤代久枝
義母の名前だった。
美沙は紙に手を伸ばせなかった。
「どういうことですか」
かすれた声で聞くと、宮乃はいつものように淡々と答えた。
「ご家族の維持を希望する申請です」
「義母が、ここに来たんですか」
「いいえ。来所の有無は関係ありません。提出されなかった本音は、こちらに記録されます」
提出されなかった本音。
美沙は、久枝の顔を思い浮かべた。
柔らかな声。
いつも整えられた髪。
季節の煮物や漬物を持ってきてくれる手。
親戚の前では、美沙を「うちのお嫁さんは本当におとなしくて助かるの」と褒めてくれる。
優しい義母。
少なくとも、美沙はずっとそう思おうとしてきた。
宮乃は書類の下部を指した。
「お読みください」
美沙は息を整え、書類を手に取った。
紙は、異様に冷たかった。
そこには、細かな文字で申請内容が記されていた。
家族維持申請内容
対象者 藤代美沙
目的 婚姻関係の継続
処理方針 対象者に不満を自覚させず、妻としての責任を優先させること。
補足 息子の交友関係については、家庭維持のため不問とする。
息子の交友関係。
美沙の視界が、そこだけ赤く滲んだ。
「交友関係って……」
「ご主人の不貞行為を指しています」
宮乃はためらわずに言った。
不貞行為。
その言葉は、ホテルのレシートよりも、ポイントカードよりも、ずっと直接的だった。
「義母は、知っていたんですか」
「少なくとも、疑ってはいませんでした」
「それなのに、私には何も……」
「申請書上では、あなたに知らせないことが家庭維持に必要とされています」
美沙は書類を握りしめた。
でも、紙はやはり破れない。
どれだけ指に力を込めても、冷たいまま、白いままだった。
書類の下には、久枝の言葉が記録されていた。
男は外で少し息抜きが必要。
嫁は家庭を守るもの。
子どもがいないのだから、せめて息子の居場所を壊さないよう努めること。
美沙の喉の奥が詰まった。
子どもがいない。
その言葉は、何度も聞いてきた。
直接責められたわけではない。
久枝はいつも、やわらかな言い方をした。
「二人だけだと、いつまでも恋人気分でいられていいわね」
「でも老後は寂しいわよ」
「航平は子ども好きだったんだけどね」
そのたびに、美沙は笑って流した。
笑わなければ、場が壊れると思ったから。
妻として、嫁として、うまくやらなければいけないと思ったから。
宮乃が静かに言った。
「この書類は、本日中に現実側で差し戻されます」
「現実側?」
「言葉として、あなたのもとへ返ります」
意味を聞き返す前に、蛍光灯がちかりと点滅した。
美沙は次の瞬間、自宅マンションの玄関前に立っていた。
手には、家族維持申請書がある。
空はまだ暗い。
けれど、東の端だけが少し青くなり始めていた。
その日の午前十時過ぎ、久枝から電話が来た。
スマホの画面に「お義母さん」と表示された瞬間、美沙は心臓を掴まれたようになった。
出たくない。
でも、出なければ、きっと後でもっと面倒になる。
「はい」
「あら、美沙さん? 今、大丈夫?」
いつもの声だった。
少し高くて、優しげで、こちらを気遣うような声。
「はい。大丈夫です」
「ごめんなさいね、急に。航平から少し聞いたんだけど」
美沙は黙った。
「あなた、最近ちょっと不安定なんですって?」
不安定。
その言葉が、耳の中で硬く響いた。
「不安定、ですか」
「航平が心配してたのよ。仕事で帰りが遅いだけなのに、浮気じゃないかって疑われるって」
美沙は、テーブルの上の家族維持申請書を見た。
そこには確かに、夫の交友関係は不問とする、と書かれている。
「お義母さんは、航平がどこに行っていたかご存じなんですか」
少しだけ、声が震えた。
電話の向こうで、久枝が小さく息を吐いた。
「美沙さん」
その呼び方だけで、もう答えのようだった。
「男の人にはね、家庭の外で息をつく場所も必要なの」
美沙は目を閉じた。
返ってきた。
宮乃の言った通り、言葉として返ってきた。
「それは、浮気してもいいってことですか」
「そんな言い方は極端よ」
「でも、知っていたんですね」
「知っていたというより……なんとなくね。航平も大人だもの。母親がいちいち口を出すことじゃないでしょう」
「私には、口を出すんですね」
言った瞬間、自分でも驚いた。
久枝も一瞬黙った。
けれどすぐに、困ったような声を出した。
「美沙さん、そういう受け取り方をするから、話がこじれるのよ」
まただ。
美沙は思った。
夫と同じだ。
私の受け取り方の問題にされる。
「私は、ただ家庭を守ってほしいだけ。航平は外で本当に頑張っているの。あなたは家にいる時間が長いんだから、少しくらい受け止めてあげないと」
「受け止めるって、何をですか」
「夫婦ってそういうものでしょう」
「夫の嘘もですか」
「嘘と決めつけないの」
久枝の声が、少し低くなった。
「それにね、美沙さん。あなたたちには子どもがいないでしょう。だからこそ、夫婦二人で支え合わないと。航平の居場所をなくしたら、あなた自身も困るのよ」
その言葉で、美沙の胸の奥に、ずっと沈んでいたものが浮かび上がった。
子どもがいないから。
妻だから。
嫁だから。
家を守る立場だから。
美沙の痛みは、いつも誰かの都合で小さく折りたたまれてきた。
「お義母さん」
美沙はゆっくり言った。
「私は、航平の居場所を壊したいんじゃありません」
「だったら」
「私の居場所が、もう壊れているんです」
電話の向こうで、久枝が黙った。
美沙自身も、驚いていた。
そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
でも、言ってしまえば、それは本当だった。
久枝は、少し間を置いてから言った。
「……今日は、あなた少し疲れているみたいね。また改めましょう」
通話は切れた。
美沙はスマホを置いた。
手が震えている。
怖かった。
言い返したことも、その後の沈黙も。
けれど、昨夜までとは違った。
自分が何か悪いことをしたとは、思わなかった。
午後、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、久枝が立っていた。
手には紙袋を下げている。
美沙は一瞬迷ったが、玄関を開けた。
「急にごめんなさいね」
久枝は、いつもの柔らかな笑顔だった。
午前中の電話などなかったように。
「煮物、作りすぎちゃったの。航平、これ好きでしょう?」
差し出された紙袋から、甘辛い匂いがした。
昔なら、美沙はありがたく受け取っていた。
義母が気にかけてくれている。そう思おうとしていた。
でも今は、その匂いすら重かった。
「ありがとうございます」
美沙が受け取ると、久枝は玄関の中をのぞくように見た。
「航平は、ちゃんと帰ってきてる?」
「はい」
「そう。ならいいの」
何が、いいのだろう。
久枝は美沙の顔を見て、眉を下げた。
「美沙さん、あまり思いつめないでね。夫婦には、見ない方がいいこともあるのよ」
美沙は紙袋の持ち手を握った。
「私は、見ない方がいいことを見ないで、今までやってきました」
「え?」
「でも、見なかったことは、なくなりませんでした」
久枝の笑顔が、少しだけ固まった。
「……航平に変なことを吹き込まないでちょうだいね。あの子、今大事な時期なの。仕事も忙しいし」
「あの子?」
思わず、声が漏れた。
四十歳の夫。
嘘をつき、不倫をし、妻を疑り深い女に仕立てる男。
それでも義母にとっては、守るべき「あの子」なのだ。
久枝は、取り繕うように笑った。
「じゃあ、また連絡するわね」
去っていく背中は、小さく上品だった。
けれど美沙には、その背中の向こうに、巨大な壁が見えた気がした。
嫁は越えてはいけない。
妻は騒いではいけない。
女は家庭を壊してはいけない。
古い言葉で積み上げられた壁。
美沙は玄関を閉め、紙袋を食卓に置いた。
袋の中には、保存容器が二つ。
きんぴらと、筑前煮。
いつものように丁寧に詰められている。
その底に、何か赤いものが見えた。
美沙は手を止めた。
紙袋の底に、小さな赤い紙片が貼りついていた。
指でつまんで取り出す。
名刺ほどの大きさの紙。
そこには、夜間窓口のものと同じ印が押されていた。
家族維持申請書
差戻済
下には、小さく追記がある。
申請理由不備
対象者の意思確認なし
美沙は、その赤い紙片を見つめた。
対象者。
それはきっと、美沙のことだ。
私の意思確認なし。
ずっと、そうだった。
夫婦のことなのに、美沙の気持ちは確認されなかった。
家庭のことなのに、美沙の痛みは数えられなかった。
守るべき家族の中に、美沙自身は入っていなかった。
その夜、航平は久枝の煮物を見て嬉しそうに言った。
「母さん来たんだ」
「うん」
「よかったじゃん。気にかけてもらって」
美沙は箸を持ったまま、航平を見た。
気にかける。
その言葉は、今の美沙にはあまりにも軽かった。
「お義母さん、あなたのことを心配してた」
「だろうね。美沙が変なこと言ってないかって?」
航平は笑った。
美沙は箸を置いた。
「航平」
「何?」
「お義母さん、知ってたんだね」
航平の箸が止まった。
ほんの一瞬。
でも、美沙は見逃さなかった。
「何を」
「ホテルのこと」
「またそれ?」
航平は露骨にうんざりした顔をした。
「母さんまで巻き込むなよ」
「巻き込んだのは私じゃない」
航平の目が細くなった。
「誰に何を聞いた?」
その声には、昨夜までとは違う硬さがあった。
美沙は答えなかった。
答えれば、夜間窓口のことまで話してしまいそうだった。
航平はしばらく美沙を見ていたが、やがて鼻で笑った。
「ほんと、最近怖いよ。美沙」
まただ。
怖いのは私。
疑うのは私。
壊そうとしているのは私。
美沙は心の中で、赤い紙片の文字を思い出した。
対象者の意思確認なし。
今まで、自分の意思を確認してこなかったのは、自分自身でもあった。
「怖くてもいい」
美沙は小さく言った。
航平が眉を寄せる。
「何?」
「何でもない」
それ以上は、まだ言えなかった。
でも、謝らなかった。
深夜、航平が寝たあと、美沙は赤い紙片と家族維持申請書をバッグに入れた。
午前零時。
市役所の右端に、また明かりが灯る。
地下へ下りると、宮乃は変わらず窓口に座っていた。
「二枚目の処理に来ました」
美沙が言うと、宮乃は静かにうなずいた。
「確認されましたか」
「はい」
「ご感想は」
感想。
役所の窓口で聞かれるには、不思議な言葉だった。
美沙は少し考えた。
「優しさにも、同意書が必要なんだと思いました」
宮乃の目が、わずかに動いた。
「同意書、ですか」
「相手のためと言いながら、私の気持ちを確認しない優しさは、支配と同じです」
言葉にして、初めて分かった。
久枝の優しさは、美沙を守るものではなかった。
家族という形を守るために、美沙を黙らせるものだった。
宮乃は家族維持申請書を受け取り、小さな印を押した。
確認済
赤い文字が浮かぶ。
その瞬間、窓口の奥でまた引き出しが開いた。
今度は、硬貨が落ちるような音が混じっていた。
ちゃり、と乾いた金属音。
宮乃は次の書類を取り出す。
「三枚目の返送予定です」
美沙は、息を整えた。
「次は、何ですか」
宮乃は、白い書類を窓口へ滑らせた。
表題には、こう書かれていた。
共有財産移動届
その下に、赤字で一文。
夫婦共有口座に、空白があります。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!