下の名前呼びをして、完全赤面状態になった僕である。ちょっとだけ、恋人同士になったみたいで嬉しい。嬉しいんだけど、小出さんは平然としてるし。うーん……なんていうかこれ、『脈なし』ってことじゃない? そう考えると、ヘコむ。飲み終えたペットボトルみたいにペコペコと。
僕の心、折れそう。て、僕の心ってもしかしてポッキー並? いや、違う。絶対に認めない。そんな簡単に折れてたまるもんか。僕の心はごぼう並だ!
……ごぼうもポッキーと同じようなものじゃん。何考えてるの、僕? 駄目だ。下の名前で呼び合ってから変なテンションになってしまっている。
「はーい、お待たせしましたー! ごめんねチカちゃん、時間かかっちゃって。でもしっかりとドリップしたから美味しいと思うよー」
お店の中で、メグさんの明るくて透明感のある声が広がった。その声音を聞いただけで、落ち込んでいた僕の心が復活。なんだか不思議だな、この人。いつの間にか惹きつけられてしまうし、一瞬で店内の空気の色を変えてしまった。だからこそ、小出さんはこのお店を好きになったのかもしれない。
「ありがとうございます」
礼儀正しく、小出さんはペコリと頭を下げる。そして目の前に置かれたホットコーヒーに手を伸ばし、一口。「ふぅー」と声を漏らし、すっかりリラックスしている。
「はーい、ご主人様もお待たせしましたー」
メグさんはテーブルに、小出さんと同じホットコーヒーを僕の前に置いて……置いて? え!? ちょ、ちょっと!!
「あ、あのー、メグさん? これって……」
「はい。ご主人様、お店に来てくれたの初めてだからサービスしちゃいましたー。美味しいからぜひ飲んでくださいね」
「の、飲んでくださいと言われても……」
コーヒーカップの中を見て、僕は完全にフリーズ。何故かって? そりゃ当たり前だよ。だって、僕のコーヒーカップに入っているのは――
「こ、これは飲めないと思うんですけど……」
フリーズしたまま、しばし呆然。そうなのだ。僕のコーヒーカップの中には液体ではなく固体。端的にいうと、コーヒー豆。それがそのままカップの中に入っていた。それも山盛り状態で。
「こ、こい……ううん。チカちゃん。これって……」
「良かったね、ダイチくん。サービスしてもらって」
そして小出さんはホットコーヒーを口に含んだ。平然と。穏やかに。そして、何故かちょっと優雅に。良いわけないでしょ!
「あはは! ご主人様、真面目すぎー。冗談ですよ、冗談。今からちゃんとしたやつ持ってきまーす」
じょ、冗談だったんだ。少しだけ安堵。で、小出さんをチラリ。コーヒーを一口一口、しっかりと味わうようにして飲んでいた。コーヒー豆のことに対して特にビックリすることなく。まるでなかったかのように。たぶん、小出さんも最初にこのお店に来た時にやられた口だな。でもさ、知ってるなら教えてよ!
* * *
それからメグさんは改めてホットコーヒーを持ってきてくれた。うん、ちゃんとした液体だ。コーヒー豆じゃない。……コーヒーを注文して液体か固体かどうかを確認する必要があるとか、変な話だなあと思う今時分だけど。
「チカちゃんもご主人様も、他にご注文ありますか?」
「はい。私はカレーでお願いします」
あ、そうだった。すっかり忘れてた。小出さんにメニューに書かれている料理名について訊こうとしてたところだったんだっけ。と、いうわけで僕は再度メニュー表を開いて、疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「あのさ、こいでさ――じゃなかった。ち、チカちゃん。これなんだけど。『オムライチュ』って書いてあるじゃん? どんな料理なのかなって」
そう。それが知りたかった。僕はオムライスを食べたいと思ったんだけど、でもこのメニュー表にはオムライ『チュ』と書いてあって。普通はオムライ『ス』だよね? なんなんだろうと疑問に思っていたところだったのだ。
まあ、他にも疑問に思う料理名はいっぱいあるんだけどね。『ロシアンルーレット焼き』とか『地獄のマグマ』とか『悪魔のお好み焼き』とか。でも訊かない。さすがに僕でも分かるから。これ、絶対に地雷だって。
「え? 普通のオムライスだよ?」
「本当に? 本当に普通のやつ?」
「うん、普通。普通のオムライス」
そんな感じで、小出さんは平然と答えてくれた。でも、なーんか引っかかるんだよね。さっきのホットコーヒーの時と同じように、実は普通のオムライスではないんじゃないかって。だけど、小出さんがそう言っているんだ。信じよう。
「あ、それじゃ僕はこのオムライ……」
「どうしました? ご主人様?」
笑顔で小首を傾げるメグさんだけど、なんというか、オムライ『チュ』と言葉にするのがちょっと恥ずかしい。まさか喫茶店で料理を注文するのに恥ずかしさを覚えることになるだなんて……。でも、いいか。勇気を出して言っちゃおう。
「あ、ごめんなさい。えーと……こ、この、オムライ『チュ』をひとつ」
「オムライ『チュ』、ですね。かしこまりましたー」
相変わらずの笑顔のまま、メグさんはメニュー表を一度片付けてくれてからカウンターへ。でも、さっきのメグさん。やたらと『チュ』を強調していたような気が……。いやいや、疑いすぎだね。小出さんも普通のオムライスって言っていたし、ただの杞憂だろうな。
と、思っていた時期も僕にはありました。
「はーい、ご主人様。お待たせしましたー。こちら、オムライチュになりまーす。チカちゃんはちょっと待っててねー」
僕の目の前に置かれたのは、なんでもない普通のオムライスだった。あ、美味しそう。それに、本当に普通のオムライスだし。あれなのかな。お店の個性を出すためにちょっとだけ料理名を変えただけだったのかな。
でも、甘かった。僕の杞憂はやっぱり杞憂ではなかったのだ。
「それじゃご主人様。今から魔法をかけますねー」
「ま、魔法ですか……?」
「はい、そうです。オムライスを美味しくするための魔法です。というわけで、ご主人様のお名前を教えてくください。ね、チカちゃん」
話を振られた小出さんはコクリと頷く。一体、何が始まるんだろう。でもまあ、ずっと『ご主人様』と呼ばれるのも何だし、名前は伝えてようっと。
「はい、えーと、ダイチです。名前はダイチ」
「ダイチさーん! なんかカッコいい名前ー!」
「いや、そんな。カッコいいだなんて。って、ん……?」
小出さんがメグさんを呼び寄せ、コソコソと何かを耳打ちしている。
「あははー! オッケー、チカちゃん! と、いうわけで。書かせてもらいますねー。それから魔法をかけるんでよろしくね、ダイチくん!」
か、書く? オムライスに? 一体、何を? あと、魔法って何さ?
その疑問はすぐに解消。メグさんは肩に掛けてあったポーチからケチャップを取り出したのだ。あ、なるほど。これで名前を書いてくれるわけね。
そしてメグさんはケチャップで文字を書き始めた。僕の名前を。まずはダイチの『ダ』から。そして『イ』……ではない。『イ』ではない。メグさんが次に書き始めたのは『ダ』ではなく『マ』だったのだ。
「あ、あのー、メグさん? 僕の名前は『ダイチ』なんですけど……」
という僕の言葉を無視して、メグさんは書き進める。楽しそうに鼻歌を交えながら。なんか嫌な予感ビンビンなんですけど。って、え!?
「め、メグさん! ストップ! ストーップ!」
僕の心からの叫び、全く届かず。メグさんの手は止まらない。そして『それ』を書き終えたところで、今度はハートマークと猫の絵を描き始めた。
そこで一度、僕は小出さんをチラリ。僕の顔を見ないようにするため、わざとらしくそっぽを向いてるし。さっきのヒソヒソ話の内容、ようやく理解。
ちなみに。書かれていた文字は、こんな感じ。
『ダマされやすいダイチくん』
図ったな小出さん!
「というわけで、今から美味しくなる魔法をかけまーす。ダイチくん、ちゃーんと見ててくださいねー。萌え萌えキュン!」
両手でハートマークを作って、それを左右に動かし、最後の『キュン』のところでオムライスに向けてそう言い放った。これが魔法かあ。
でも、この後。思いがけない展開に。
「それじゃー、次はダイチくんの番ですよー」
「……え? ぼ、僕の番って?」
「決まってるじゃないですかー、魔法ですよ魔法。魔法はまだ完成してないの。ご主人様と力を合わせるの。だから『ちゃんと見ててくださいね』って言ったじゃないですか? 同じようにダイチくんも私と同じようにやってみてー」
僕、絶句。ウソでしょ!? ただでさえ恥ずかしがり屋でヘタレな僕に『それ』をやれって言うの!? 無理だって!
再度、小出さんをチラリ。うん、やっぱりそっぽを向いている。うう……全然、普通のオムライスじゃないじゃないか!
けど、仕方がない。早くしないとオムライスも冷めちゃうし。
――よし! 覚悟を決めてやってやる!
僕はメグさんがやったことと同じように、両手でハートマークを作った。そして、それをオムライスに向ける。さあ、次は魔法だ。
「も、もえもえ……きゅん……」
さっきまでの僕の覚悟、完全に消滅。恥ずかしい! 恥ずかしすぎるってば! もう、穴があったら入りたいよ!
「はーい、よくできましたー。それじゃチカちゃんとダイチくん、ごゆっくりー」
そう言い残し、メグさんはスキップしながらルンルン気分でカウンターの方へと戻っていった。そして、僕はチラ見ではなく真正面を向いて小出さんを見やった。口元を両手で隠し、必死で笑いを堪えていた。顔を見られまいと少しだけ下を向いて。
今日の新発見。
小出さん、実はかなりのイタズラ好き。
『第15話 メイド喫茶だよ小出さん!【3】』
終わり
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!