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「今日、時間ある?」
そう聞かれたのは、休日の朝だった。
「……うん」
それ以上の意味を考える前に、まろは続ける。
「買い物付き合ってほしくて。近くやし」
“デート”なんて言葉は出てこない。
ただの用事の延長。
ないこはそう思うことにした。
外に出ると、風が少し冷たかった。
並んで歩く距離は、近くも遠くもない。
「寒くない?」
「……大丈夫」
本当かどうかは、自分でもわからない。
店をいくつか回って、
まろは服を見たり、日用品を手に取ったりする。
「これとこれ、どっちがええと思う?」
そう聞かれて、ないこは少し迷ったあと答える。
「……こっちの方が、使いやすそう」
「やっぱ? ないこ、見る目あるな」
軽く言われただけなのに、
胸の奥がわずかにざわついた。
昼前、カフェに入る。
向かいに座るまろを見て、ないこら視線を落とす。
「何飲む?」
「同じので、」
運ばれてきたコーヒーの湯気を見つめながら、
ないこはふと思う。
(俺今、逃げたいと思ってない)
それが、少しだけ不思議だった。
会話は多くない。
沈黙も多い。
でも、居心地は悪くなかった。
帰り道。
「……混んでるな」
まろがそう言って、ないこを庇うように立つ。 その距離が、逆に息苦しく感じて、ないこは小さく頷いた。
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
揺れに合わせて、体が押される。
逃げ場はない。
——その時だった。
違和感。
ほんのわずかな、でも確実な不快感。
(……違う、これは痴漢だ)
気のせいだと思おうとした。
混んでいるから、仕方がない。
誰かの手が下半身に当たっているだけだ。
でも、何度揺れても、
その違和感は消えなかった。
喉が、きゅっと縮まる。
(言わなきゃ、助けてって….)
まろはすぐ隣にいる。
助けて、と言えばいい。
それだけで、終わるはずなのに。
「……」
声が出ない。
頭の中で言葉は浮かぶのに、
口を開こうとすると、何も出てこなかった。
怖い。
騒ぎになるのが。
周りに見られるのが。
そして、拒否されるのが。
徐々に相手の手も動いていく。
「ん…っ」
少しだけ声を漏らしてしまった。
いやだ、怖い
怖い。
ないこは無意識に、まろの服の裾を少しだけ掴んだ。
呼ぶ代わりに、すがるように。
「……?」
まろが気づいて、ないこを見る。
その視線と合った瞬間、
ないこはすぐに目を逸らした。
助けて、とは言えない。
言えないけれど、
——気づいてほしかった。
電車が次の駅に滑り込む。
ドアが開いた瞬間、まろが低く言った。
「降りるで」
理由は聞かれなかった。
まろはないこの手首を掴み、人混みから引き離す。
ホームに出た瞬間、
ないこの足から、力が抜けた。
「……ごめ…ん」
やっと出た声は、それだけだった。
まろは何も責めず、ただ言う。
「ええよ。言わんでも」
「ごめんな、すぐ気づけんくって」
ないこの胸の奥が、静かに震える。
怖さは消えない。
でも、一人じゃないと思えた。
ないこは小さく、ほんの小さく頷いた。
その仕草を見て、まろはそれ以上何も言わなかった。
ただ隣に立ち、同じ速度で歩き出す。
その沈黙は、不思議と重くなかった。
家に着いて、靴を脱いだ瞬間だった。
張りつめていたものが、ふっと緩む。
部屋の静けさに包まれて、ないこその場に立ち尽くした。
そのとき、ようやく気づく。
手が、震えている。
さっきまで感じていなかったはずの感覚が、遅れて押し寄せてくる。
寒いわけじゃない。
力を入れようとしても、指先が言うことを聞かなかった。
(……なんで、今)
自分で自分がわからない。
平気な顔をしていたはずなのに、
胸の奥が、じわじわと苦しくなる。
呼吸を整えようとして、深く息を吸う。
それだけで、喉が詰まった。
リビングの方から、足音がする。
まろが、ないこの様子を窺うように立っていた。
「……大丈夫か」
その一言で、限界が来た。
震えを止めようとして、ないこは無意識に腕を抱える。
視線を合わせられず、床を見たまま、唇が動く。
「……っ」
声にならない。
言葉にした瞬間、全部崩れてしまいそうで。
それでも、絞り出すように。
「……こわ……」
一度、そこで途切れる。
喉が鳴って、息が乱れる。
まろは急かさなかった。
近づきすぎず、離れすぎず、ただ待つ。
ないこはもう一度、息を吸った。
「……怖かった」
たったそれだけ。
短くて、弱い言葉。
でも、それはないこが初めて自分の感情を認めた瞬間だった。
まろは何も言わず、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
それ以上、聞かない。
否定もしない。
その反応に、ないこの震えは少しだけ、ほんの少しだけ和らいだ。
怖かったと、言ってもいい。
そう思えたこと自体が、
俺にとっては大きな変化だった。