「おお、やはりか。堀口さんも何かしらの成果を挙げたってことだな」
モニターに目を光らせていたポジティブマンは、テーブルの緑茶を一口飲んでから言った。
「直接お会いした翌日にこのようなことになるなんて、予想外ですね」
魚井玲奈も緑茶を一口飲んだ。
「表彰されるんだったら、昨日言ってくれればよかったのに」
「昨日の段階では何も知らなかったと思います。副会長が生きてらっしゃったことを知らなかったのですから」
「ああ、そうだったな」
ポジティブマンは堀口ミノルの表情を注意深く見つめた。
彼は相当緊張していて、さらには困惑もしているようだった。
「とにかく、いい知らせが聞けそうで何よりです。家族を亡くした悲しみが少しでも慰められることを願います」
魚井玲奈はソファから背を離してモニター画面を見ている。
最愛の妻と娘を失ってなお黙々と仕事をするなど、勇信には想像できないことだった。
兄の勇太を亡くして混乱に陥った自分を思うと、堀口ミノルの勤勉さは称賛に値するだけでなく、同時にあまりに悲しい現実であると認識する。
「こちらにいらっしゃる堀口ミノル課長は、静岡県しそね町に建設中の複合商業施設『ビスタ』の企画担当をなさっています。ご存じの通り、ビスタは吾妻和志会長が故郷を思ってはじめた地域再生プロジェクトであり、すべての計画は会長の希望に沿って実施されています。間違いありませんね? 堀口課長」
「はい、その通りです」
「つまり裏を返せば、吾妻建設は会長の意思に従ってただ建設だけやっていればいい。利益が出る出ないは自分たちには関係ないということですね?」
「はい?」
吾妻勇太の口調に周りが一瞬にして凍りついた。
「もちろん会長の方針に従うことは、社員としての健全な態度でもあります。しかし会長がベッドに寝たきりになっている今、そのままビスタの建設を推し進める必要があるのでしょうか? 私が何を言おうとしているのかわかりますか」
「申し訳ございません……うまく理解できておりません」
「人が盲目的に働きはじめると、怠惰がはじまります。ただ上からの指示に従って毎日を過ごすことになるのですからね。
しかし怠惰というものが深刻なのは、それを利用してのさばる人間が現れることでしょう」
吾妻勇太はスーツのポケットから小さなリモコンを取り出してボタンを押した。
スタジオの照明が暗くなり、スクリーンに一枚の紙が映し出された。
「こちらは私のもとに届いたレポートです。実物取引のない空手形や、下請け業者からの賄賂など。計4件の報告がありました」
えっ……という声が魚井玲奈の喉から漏れた。
「こ、これはいったい何でしょうか」
堀口ミノルはぽかんとした表情でスクリーンを見つめた。
「怠惰の証拠品です。この資料は堀口課長の悪行をこれ以上見ていられないと感じた人物から送られてきたものです。堀口さん、我々がもつべき情熱を身勝手な方向に向けてはなりません。自分さえよければいいという願望のために、グループ全体のイメージを失墜させるおつもりだったのですか?」
「吾妻副会長。私はこんなことは一度もやっていません……」
勇太がステージの奥を見つめ小さくうなずいた。
するとふたりの警護員が現れ、堀口ミノルの腕を掴んだ。いきなり体の自由を奪われた堀口は、激しく抵抗をはじめた。
「言いたいことがあるんだ、離してくれ! 私は賄賂などに手を染めてない! 信じてください、副会長。お願いします!」
吾妻勇太は表情を変えることなく、リモコンのボタンを押した。
画面が切り替わると、下請け業者から堀口ミノル当てに送金された生々しい金額が、画面に映し出された。
「堀口ミノル課長の主張と、こちらの口座の内訳。私はどちらを信じればいいのでしょうか」
「これは陰謀です! 副会長、私は何もしていません!」
「彼を引きずりおろすんだ」
ふたりの警護員が堀口を強制的にステージから退場させた。
堀口は抵抗できないまま無言で連れていかれた。
「親愛なる社員の皆さん。利益も望めず内部腐敗まで発覚した静岡県しそね町の「ビスタプロジェクト」は一旦中断します。
我々の目的はボランティアではありません。我々が成すべきは、人々に良い製品を提供し、その利益によってさらなる良品を生み出すことにあります。情熱の裏側に隠された腐敗。私が戻ったからには、そうした悪行を一掃することをお約束します」
スタジオの撮影スタッフが大きな拍手をあげた。
会見を見ていた吾妻勇信と魚井玲奈が目を合わせた。執務室の外からは一切の拍手は聞こえてこなかった。
――堀口ミノル。彼は犠牲者ではないのか?
ポジティブマンはしばらく考えにふけった。
一度会っただけだったが、堀口が汚職などに手を染める人物ではないとの確信があった。
そもそも妻と娘を亡くしたことで、保険金も受け取っていたはず。なのになぜ彼は危険な川を渡ってさらなる金銭を得る必要があったのか。
魚井玲奈も勇信同様、どこか信じられないといった顔をしていた。
ステージ上の吾妻勇太が、言葉を締めくくっている。
「親愛なる社員の皆さん。私は皆さんの熱意を歓迎します。そしてこれより組織内部に溜まった膿を切り取っていきます。
我々グループはすべてが可視化された透明な政策によって、さらなる発展をしていくでしょう。努力が無駄にならない企業。そんな美しい職場こそが吾妻グループが目指す未来なのです」
堀口ミノルにとって、この状況は受け入れがたいものだった。
突然の辞令を受けて夜明けに東京にやって来たが、わずか数分後には犯罪者として追放された。
明るく照らされたスタジオから引きずり出される。
他者の目があまりに冷たい。
同じグループの一員とは思えないほどの、軽蔑する表情たち。
「犯罪者め」
通りすがりの誰かが、堀口に聞こえるように言った。
堀口はふたりの男に引きずられながら通路を歩いていく。
私服警官ではないかと思えるほどに、彼らは慣れた様子で任務を遂行している。
心は一色に染まってた。
まるで空から真っ黒な雪が降り、暗黒の風景を作っているようだった。
やがてその色がひとつの思考となって、堀口ミノルの頭の中を流れた。
――だまされた。
吾妻建設・谷川署長の罠にかかったのだ。
谷川が常に内政だけを気にしていたことは、部署の誰もが知っていた。商業施設ビスタの建設になど興味はなく、どうやって個人的な利益を得られるかだけに情熱を注いでいた。
地域住民への社会奉仕。
利益の創出に向けた取り組み。
そのどれも谷川にとっては関心外だった。
一日でもはやくビスタの建設を終えて、退屈な田舎から抜け出したかっただけだった。
最初に企画書を提出した際にも、谷川は3行と読まずにゴミ箱に投げ捨てた。
それでも堀口はあきらめなかった。忙しい日々の中で計画の見直しと修正を繰り返し、どうにか谷川を説得しようと幾度となく彼を訪ねた。
しかし署長の承認は、彼の100キロの体重と同じほどに重かった。
堀口の同僚たちもまた、家族に会える週末だけを楽しみにしていた。
長年の友人である同僚は、堀口の努力を認めながらもあまり肩肘張らないようにと勧めた。
田舎暮らしの不便ささえ我慢すれば、楽して給料がもらえる仕事。
それがビスタだった。
堀口は孤立していた。それでも彼は努力を続けた。
複合商業施設ひとつが建てられたからと、地域の再生につながるはずはないことを誰もが知っていた。
だからこそ雇用をどう生み出すかを考えた。ビスタ周辺に新たな働き口を作る必要があった。雇用先があってこそ労働者が生まれ、消費者となり、経済は回るのだから。
ビスタが生き残るためには、地元の人間ではない新たな購買層が必要だったし、ビスタの客になるには近隣に職場と住まいがなければならなかった。
そのためのスポーツ振興事業だ。
しかし悲劇は今日、突然やってきた。
すべてを失った今、残る希望の光はただひとつ。
「吾妻常務……」
昨日送ったプロジェクト企画書を、彼が慎重に検討してくれることに期待するしかない。
――あまり落ち込むなよ。人生ってこんなもんなんだから。
数日前の同僚の言葉が頭に浮かんだ。
堀口の努力を知っているからこそ、同僚はそう言ったのだろう。
「上が何を考えているかはわかっているさ。ただ門前払いばかり食うから、結構精神にこたえるな」
堀口ミノルは手にした焼酎を飲み干した。
「それがサラリーマン社会ってもんさ。出る杭は打たれる。俺の知る限り、吾妻勇太副会長だって似たような方だそうだが?」
「副会長……」
しそね町の中心を流れるしそね川と、周辺にある寂れた工場と家々。
あの日のことを思い出す。
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