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朝。
雨は上がり窓の外には水滴の残る街路樹が揺れていた。
藤澤はふと目を覚ます。見知らぬ天井。
けれど、見知らぬ感じはしなかった。
ほんのり甘くて深い沈丁花とウッド系の香り。昨夜眠る直前に嗅いだその香りが、まだ空気の奥に残っている。
(ああ、そっか)
香水店の大森の部屋。
あの人に見つけられて運ばれて、そして
思い出した瞬間頬が熱くなる。
──ベッドのそばで、顔が近かった。
──何か言ってた気がする。
──好き、って。
(いやいや寝ぼけてただけだよね。夢かもしれないし…いや、夢にしておくべき……)
藤澤は顔を押さえた。
そのときキッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。ついでにカップを置く音と、小さく鼻歌を歌う声も。
(歌ってる…ほんとに、余裕なんだなあの人)
ベッドから出て、そっと足音を立てずにドアを開ける。
朝の日差しが差し込むキッチン。大森はTシャツ姿でコーヒーをドリップしていた。
その背中を見た瞬間胸の奥がまたちくりとした。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい、たぶん過去一で」
「ふふ。じゃあ僕、処方師としては合格だね」
そう言って大森は振り向くと、カップを差し出してきた。
「ブレンド。今朝は君がいちばん落ち着ける組み合わせにしてみた」
受け取る手が少しだけ震える。香りを吸い込むと、やっぱり落ち着く。
それと同時に昨夜の記憶がまた胸を刺す。
「あの、大森さん」
「うん?」
「昨日、ぼくなんか言いましたか、?」
「言ってたね」
「えっ」
「“大森さんの匂い、近くで眠れる”って。可愛かったよ」
一瞬で顔が熱を持つ。
「ちが、あれはたぶん寝ぼけてて、正気じゃなくて、」
「でも僕は正気だったから。全部覚えてる」
「~~~~っ」
藤澤は黙ってコーヒーを飲んだ。香りも味もしなかった気がする。
少しの沈黙。
けれどどちらからともなく、視線が合う。
「大森さん」
「うん?」
「ぼく、好きじゃないって言ったらたぶん嘘になると思います」
その言葉に、大森の目がゆっくりと見開かれる。
「言い切らないんだね」
「はい。まだ、自信なくて。好きかもしれない、じゃなくて好きなんだと思う。でもどうしたらいいかわからないです」
「うん。じゃあそれでいいよ、今は」
大森は笑った。
どこか安心したような、ずっと待ってたような、そんな笑い方だった。
「でも、ひとつだけお願い。もう“好きじゃないふり”はしないで」
藤澤はしばらく俯いたまま、頷いた。
その一瞬の動きに、大森が思わず手を伸ばしそうになったけれど、触れなかった。
「じゃあ次会うときの処方は“恋のはじまり”って名前にするね」
「恥ずかしいのでそれだけはやめてください」
ふたりの朝が少しだけ、いつもと違う空気で始まった。
好きだとはまだ言えない。でももう香りでは隠せない。
そんな関係が静かに動きはじめていた。
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あと4話くらいで完結です。