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「ねぇ、お願い……お願いします。どうか、お爺さんの願いを受け取ってあげてください」
アネモネはアニスから手を離して、深く頭を下げた。
でもいくら待ってもアニスは何も言わない。そっと顔を上げても表情が動かない彼を見て、虚無感が爪先から這い上がってくる。
(受け取ってくれたら、全部がわかる。関係だって、きっと修復できるのに……!)
アニスも、チャービルも、死んでしまったアニスの両親も、間違いなく今より幸せになれる。
それがわかっているアネモネは、とても歯がゆかった。
自分だけが知っていることが悔しくて、辛くて──とうとう<紡織師>としてあるまじき、口頭で伝えるという最悪な手段に出てしまった。
「聞いて、お願いっ。あなたが思っているのと、真実は違うんですよ。本当は……んぐっ」
「黙れ!」
そこまで言った途端、アニスの手で口を塞がれてしまった。
「ぴーちくぱーちく、うるさいっ。ガチョウか、お前は」
「ん゛ん゛っ」
酷い言い様だ。アネモネに対しても、ガチョウに対しても。
「少し、黙れ。いいな?今度、余計なことをしゃべったら、こんなんじゃすまないぞ」
脅しながら手を離したアニスに、文句の一つでも言ってやろうとした瞬間、馬車の扉が開いた。
「なっ……え?ちょ、ちょっと……っ!!」
嫌な予感がして、アニスの腕を掴もうとしたけれどタッチの差で間に合わず、視界がぐるりと回った。続いて、全身に強い衝撃が走った。
鬼の形相でアニスが馬車の中で仁王立ちしているのを見て、アネモネは馬車から突き飛ばされたことを知る。
「二度と俺の前に姿を現すな!」
無様に地面に叩きつけられたアネモネに向け、アニスはそんな酷い言葉を吐き捨てる。
「ちょ、ちょっと!……あ、あぁー」
ガバリと起き上がって、再び馬車に飛び乗ろうとしたけれど、不運にも御者は既に戻っており、アニスを乗せた馬車は馬の嘶と共に走り出してしまった。
「……くそったれ」
アネモネは淑女が生涯決して口にしないであろう、汚い言葉を呟いた。
最低だ。なんていう奴だ。こんなことなら、料金をもっとぼれば良かった。
そんな不届きなことを思ってしまうほど、アネモネは憤慨していた。最初に屋敷の玄関からつまみ出された時より、もっと憤慨していた。
しゃがみ込んだまま、去っていく馬車を険しい視線で睨み付ける。車輪が外れろと呪いをかけるが、無情にも馬車は街のざわめきの中に消えてしまった。
砂埃にゴホゴホしながら、アネモネはアニスのことを思い出す。
馬車に乱入してきても、自分と気づかない間は、紳士に接していた。明らかに女慣れしていた。
性格は抜きにして、あの家柄と容姿だ。きっと女性には不自由していないに違いない。でも、自分だったらあんな奴と結婚するなんて死んでも嫌だ。
アニスの祖父チャービルは、好好爺とまではいかないけれど、アネモネに優しかった。
遠いところまで来てくれてありがとうと、頭を下げてくれたし、帰りの馬車も用意してくれた。ナッツが入った焼きたての菓子まで持たせてくれた。
複雑な事情があったにせよ、どうしてあの遺伝子を受け継がなかったのだろうか。神様は本当に意地が悪い。
手のひらにくっついた土を払い落しながら、アネモネは心の中で悪態を吐く。
ちくりと痛みを感じて手のひらを広げたら、擦り傷ができて血が滲んでいた。それに気づいた途端、遅れて痛みがやってくる。
ふと視線を感じて顔を上げれば、通行人が足を止め、アネモネを遠巻きに見ていた。
「……は、ははっ。ど、どうも」
さっさと立ち上がって、この場から去りたいが、足腰が笑っているため、なかなか立つことができない。
有り難いことにアネモネが動くことができなくても、イベントが終わればギャラリーは一人二人と勝手に去っていく。
あっという間に日常に戻りつつある光景を見て、アネモネはこのまま顔を伏せたまま、時をやり過ごそうと思った。
そんな中、ギャラリーをかき分けて、一人の少女がアネモネに颯爽と駆け寄ってきた。
「どいて、どいてくださいませっ。ちょっとあなた、大丈夫?!」
慌ててアネモネは立ち上がろうとしたが、それを阻むように少女がしゃがみ込む。
見たところ自分より1つか2つ年下の貴族令嬢のようだ。夏の季節にふさわしいパフスリーブ袖のドレスが良く似合っていて可愛らしい。
格上相手を見下ろすのも何だか失礼なような気がして、アネモネもしゃがんだ態勢でもじもじとしていた。でも、
「っ……?!」
貴族令嬢と目が合った途端、アネモネは己の瞳を限界まで開いた。
気付くのが遅くなってしまったけれど、貴族令嬢はアネモネの知り合いだった。
「……エルダー」
無意識に紡がれた言葉は、幸いにも声が掠れすぎていて貴族令嬢の元には届かなかった。
アネモネは再びその名が口から飛び出さないよう、両手で口元を覆う。
この人の名を絶対に呼んではいけない。今すぐここを去らなくてはならない。
なぜなら貴族令嬢は、かつてアネモネの義理の妹だったから。