テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#極道
鷹槻れん/鷹槻うなの

19,895
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
「五年前のことは、坊ちゃまが決めたことです」
芘沢は、長く黙ってから、そう言った。
水曜の朝、五時前。ことはは台所で茶を入れている芘沢に、聞いた。昨日の夜から、聞くと決めていた。聞かないと、手が動かなくなりそうだった。
「あの方のお店は、今はもうありません」
「……どうして、なくなったんですか」
「わたくしは、申し上げられません」
芘沢は、急須を置いた。置いた手が、少しだけ動かなかった。
「坊ちゃまが決めたことは、坊ちゃまが決めたことです。わたくしが口にすれば、形が変わります」
それだけ言って、芘沢は茶を注いだ。ことはは、湯呞みを両手で持った。熱かった。
五年前。店の娘。洋菓子屋。店はもうない。坊ちゃまが決めたこと。
決めた、というのが何を決めたのかは、分からない。別れることか。店をどうすることか。それとも、第七条を。
「芘沢さんは、その店に行ったことが」
「ございます。一度だけ」
芘沢は、急須を持ったまま言った。
「小さいお店でした。柊屋さんと、同じくらいの」
それ以上は、言わなかった。ことはは茶を飲んだ。熱いまま飲んで、舌が少し痛かった。痛いほうが、ましだった。
◇
店の帳場で、ことはは正月の注文を取っていた。
十二月に入ると、商店街の人が、正月の菓子を頼みに来る。豆大福ではなく、正月の菓子。ことはは帳面に名前と数を書いて、頭を下げた。手は動いていた。動かしながら、別のことを考えていた。
妻は、夫に恋をしないこと。
前の女は、店の娘で、店がなくなった。
恋をされた店が、なくなった。だから、恋をしないこと。
そう読むと、第七条は、店を守るための条文に見えた。柊屋が、洋菓子屋のようにならないための。
別の読み方もあった。恋をした遼が、もう一度、同じ目に合わないための。
どちらかは、分からない。どちらでも、条文の字は同じだった。
「ことは。手、止まってるわよ」
母が、帳場の後ろから言った。
「……止まってない」
「止まってた。栗蒸し羊羹、三本。山田さんの分」
ことはは、書いた。山田さん、三本。字が、歪んだ。
「お父さん、起きてる?」
「寝てる。朝、工房に降りてきて、源さんと豆の話をして、疲れて寝たわ」
母は笑った。ことはも笑った。笑ってから、帳面に戻った。
工房から、源さんの声がした。
「正月は、花びら餅をやる」
「……花びら餅」
「正市さんが、そう言った。看板の店なら、正月に花びら餅くらい出せ、だと。本店の春がなくなったんなら、正月で見せろ、と」
ことはは、帳面から顔を上げた。
花びら餅。白い餅に、味噌の餡と、牛蓡。父が、正月に作っていた。倒れた年の正月は、作れなかった。
「源さん、作れますか」
「おれは餡を炊くだけだ。包むのは、お前の手だ」
お前、と源さんは言った。そう言うときは、仕事の話だ。ことはは、帳面に書いた。花びら餅。数は、まだ書かなかった。
◇
夜、玄関の扉が開く音がした。
八時過ぎ。ことはは廊下に出た。遼が、コートも脱がずに、玄関に立っていた。手に、薬屋の紙袋。
ことはは、口を開いた。五年前のことを、聞くつもりだった。聞けなかった。口から出たのは、店のことだった。
「春の催事から、外されました。常設を断ったので」
「知っている」
「……受けるな、と言ったのは、そのためですか。春を失うと分かっていて」
「違う」
「では、何のために」
「言う必要はない」
遼は、ことはを見た。見て、紙袋を突き出した。
「芘沢に言われた」
ことはは、紙袋を受け取った。中を見た。
軟膏だった。やけどのものではない。手荒れの。冬になると、ことはの手は荒れる。水と、餡と、冷えで。今年は、もう始まっていた。
「……芘沢さんが、買ってきてって」
「そう言った」
遼は、コートを脱いだ。脱いで、腕に掛けた。
ことはは、紙袋を見た。芘沢に言われた。芘沢が買いに行けばいい話を、遼が買って帰った。それも、手荒れの軟膏を。ことはの手が荒れていることに、誰かが気づいて、誰かが薬屋に行った。
「ありがとうございます」
遼は、何も言わなかった。言わないで、階段のほうへ歩きかけて、止まった。
「十二月二十四日」
「……はい」
「本店の、創業祭の夜会に出ろ。妻として」
ことはは、紙袋を握った。
「夜会、ですか」
「叔父が来る。本家が来る。氷川の客が来る。妻は、隣に立っていればいい」
遼は、階段を上がった。上がりながら、振り返らずに言った。
「人前では妻として振る舞え。契約だ」
扉が閉まる音がした。
ことはは、玄関に立っていた。紙袋の中の、軟膏の箱。手荒れの。契約だ、と遼は言った。契約の夫が、妻の手荒れの軟膏を買って帰る。
妻は、夫に恋をしないこと。
ことはは、箱を開けた。開けて、その場で、荒れた指の付け根に塗った。
「ことはさん」
台所から、芘沢が出てきた。ことはの手の箱を見て、言った。
「わたくしは、軟膏のことは、坊ちゃまに申し上げておりません」
「……え」
「手が荒れていらっしゃることも。わたくしは、気づいておりましたが、申し上げておりません」
芘沢は、それだけ言って、台所に戻った。
ことはは、箱を持った手を見た。芘沢に言われた、と遼は言った。芘沢は、言っていない。
塗りかけの軟膏が、指の間で冷たかった。
コメント
1件
ああ、もうもう、すごくいい話だった……! 軟膏、ひとつの軟膏にこんなに心がこもってるなんて。芘沢さんが「わたくしは申し上げておりません」って言ったところ、もう胸がぎゅっとなりました。遼さんは「契約だと言いながらも、ちゃんと手荒れに気づいて買ってくるんですね。妻として立つ夜会、それもまた、何かあるんだろうな。ことはさんの手の冷たさと心の温度差みたいなものが、とても丁寧に描かれていて、引き込まれました。読み終わってしばらく、この余韻に浸っていたいです✨