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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
お義母さまが茶室を出ていったのは、二時四十分だった。
封筒を、金庫に戻して。
写真立てを、胸に抱いて。
七枚目の板が鳴り、三枚目が鳴り、足音は寝間の奥へ消えた。
私は、水屋の闇の中で、さらに十分待った。
それから、跨ぐべき板を跨いで、半地下へ戻った。
戻りました。
送ると、一秒もたたずに返事が来た。
よかった。
それだけだった。
その四文字を打つ指が、どれだけ長く画面の上で止まっていたのかを、私は考えないようにした。
*
木曜日は、私の休みの日だった。
根津へは行かず、朝のムギの散歩のあと、そのまま離れに上がった。
榊さんは、私のスマホの写真を、一枚ずつ指で広げて見ていた。
表の、遺言書という字。閉じ目の、朱い印。
閉じ目の、波打った紙で、指が止まった。
「湯気だな」
低い声だった。
「やかんの湯気に当てれば、糊はゆるむ。……開けて、読んで、閉じ直している」
「三年前に、だと思います」
「それでも、燃やさなかった。捨てもしなかった」
榊さんは、画面を消した。
「三年間、毎晩のように、あれを抱いていたのかもしれないな」
それから、次の写真に指を滑らせた。
瑞雲堂、の判の押された書類の表紙。
「曙の、売り渡しの書類だろう。……これも、捨てられなかったんだな。あの人は、自分を傷つける紙ほど、手元に置く」
私は、水屋の棚の、欠けた茶碗のことを思った。
話さなかった。それは、私だけが見たものにしておきたかった。
「日曜日」
榊さんが、言った。
「あの人に、自分の手で出させる。それ以外の出し方は、しない」
*
その日の夕方、麗奈が駅前のネイルサロンから、早足で帰ってきた。
「凛さん。蒼真さん、何時に帰るの」
「本日は、遅くなると伺っております」
「カードが、止まってたの」
麗奈は、玄関の上がり框に、ブランドの紙袋を投げ出した。
指先の付け爪は、塗りかけの桜色のまま、半分だけ光っていた。
「お店の人の前で、二回もよ。別のカードも、だめだった。……恥ずかしくて、死ぬかと思った」
それから、私を睨んだ。
「何よ。笑ってるの」
「いいえ、奥様」
笑ってはいなかった。
ただ、思っていた。私の命の値段だったお金は、もう、この人の爪一枚ぶんも残っていないのだと。
*
金曜日の朝、蒼真は鞄を持たずに玄関を出た。
書斎の机の上に、黒い革の書類鞄が残っていた。
私は、それを抱えて勝手口からガレージへ回った。
ガレージの前で、足が止まった。
声がした。
「旦那。今月の分、まだ入ってねえんですがね」
堂島の声だった。
黒いセダンの横で、蒼真の前に立ちふさがっていた。
「もう、ない」
蒼真は、堂島の顔を見なかった。
「お前に払う金は、一円もない。会社の口座は、全部見られてるんだ」
「上場したら、もう一本。そういう約束でしたよね」
「上場は、消えた」
蒼真が、ようやく顔を上げた。
「それに、約束って何だ。俺は、お前に何も頼んだ覚えはない。……証拠でもあるのか」
ハッカ飴を噛む音が、ガレージの壁に響いた。
「ありますよ、旦那」
堂島は、笑っていた。
太い指で、セダンのボンネットを、とん、と叩いた。
蒼真の顔から、血の気が引いた。
それから、蒼真も笑った。
発表会の舞台で見たのと同じ、えくぼの浮いた、凍った笑い方だった。
「出せば、お前が先に捕まる。手を動かしたのは、お前なんだから」
「旦那――」
「今日は、タクシーで行く」
蒼真は、堂島の脇をすり抜けた。
勝手口の前で、書類鞄を抱えた私に気づいて、一瞬だけ足を止めた。
「……凛さん。ありがとう」
鞄を受け取る手が、冷たく湿っていた。
蒼真が門の外へ出ていくまで、堂島は、セダンの横から動かなかった。
口の中で、ハッカ飴が、ばりばりと砕けていた。
*
その日の午後、私は灯油の缶を取りに、ガレージの奥の物置へ行った。
工具棚の前を通ったとき、背中で、詰所の戸が開いた。
「家政婦さん」
ハッカの匂いが、先に届いた。
それから、機械油の匂い。
堂島が、詰所の戸口に寄りかかっていた。
黒いスーツの上着を脱いで、白いシャツの袖をまくっていた。爪の間が、黒かった。
「ちょっと、いいかい」
「旦那様のお車の、ご用でしたら」
「車じゃねえよ」
堂島は、戸口から一歩出てきた。
私と物置の扉のあいだに、太い体が入った。
「あんた、事故の夜のこと、本当に何も覚えてねえのか」
灯油の缶の取っ手を、手袋の指で握りしめた。
「何も、覚えておりません」
凛の声で、答えた。
覚えている。
あなたが細工したブレーキを、五つ目のカーブの手前で、凛さんがどれだけ踏んでも、床まで沈んでいったことを。
「そうかい」
堂島は、ハッカ飴を一つ、口に放りこんだ。
「あの夜は、雨だったよな。坂の上から下まで、ひでえ雨だった」
「……そう、伺っております」
「あんた、助手席に乗ってたんだってな」
噛み砕く音がした。
「燃える車の、助手席から、どうやって出た」
堂島の目が、私の顔ではなく、首のスカーフを見ていた。
それから、左手の手袋を。
「覚えておりません」
「いつも、手袋だな」
太い指が、伸びてきた。
私は、灯油の缶を体の前に持ち上げた。
指は、缶の縁に当たって止まった。
「火傷の痕が、まだ、ひどいものですから」
堂島は、しばらく私を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと手を引っこめた。
「思い出したら」
声を、落とした。
「旦那じゃなく、俺に言いな。高く買ってやるよ」
ぱちん、と音がした。
剪定鋏の音だった。
物置の脇の、柘植の生け垣の向こうから。
「堂島」
源さんが、手拭いの鉢巻きのまま、生け垣の上から顔を出していた。
「大奥様が、車を出せ言うとる。四時に、坂上先生のとこだそうだ」
堂島は、舌打ちをした。
それから、私の脇を、肩が触れるほど近くを通って、セダンのほうへ歩いていった。
私は、灯油の缶を抱えたまま、物置の扉にもたれた。
膝が、笑っていた。
源さんは、生け垣の向こうで、何も言わずにまた鋏を鳴らした。
ぱちん。ぱちん。私の膝の震えが止まるまで、その音は続いた。
夜、離れにだけ、短く送った。
堂島に、事故の夜のことを聞かれました。何も覚えていないと答えました。源さんが、来てくれました。
返事は、少し遅れて来た。
今から行く。
来ないでください、と打った。
あなたが母屋に来たら、堂島は、私が何かを話したと思います。
長い間があった。
なら、離れの灯りを、朝までつけておく。窓から見えるように。
半地下の窓は、地面すれすれにしかない。
私は鉄のベッドの上に膝で立ち、窓ガラスに額をつけた。
濡れた芝の向こう、温室の影の先に、離れの窓が小さく光っていた。
鍵をかけたドアに、背中を向けたまま、私はその灯りを見ていた。
ハッカの匂いが、まだ手袋の指先に残っている気がした。
*
その夜、堂島賢治は、詰所の灯りを消したまま座っていた。
去年の十一月。雨の七曲り坂。
白い小型車を、距離をあけて尾けた。
二つ目のカーブで、車は街灯の下の人影を一人拾った。
少し下の待避所で、もう一度止まった。運転席と助手席のドアが、両方開いて閉じた。雨で、顔は見えなかった。
五つ目のカーブで、車はガードレールの切れ目へ消えた。
坂の上から見下ろすと、燃える車の割れた助手席の窓から、女が一人、這い出してきた。女は、運転席のほうへ這って戻っていった。
堂島は、車の向きを変えて逃げた。旦那には言わなかった。言えば、金が減る気がした。
助手席の女は、家政婦だった。その家政婦は今、あの家で犬に懐かれ、源のじじいに頭を下げられている。
堂島は、ハッカ飴を奥歯で噛み砕いた。
「燃える車から這い出したのが御影の嫁なら、俺の命綱は、もう一本増える」
コメント
1件
読み終わりました……今回もすごく心臓に悪い回でしたね(いい意味で)。 特に堂島さんと凛さんのガレージの場面、灯油の缶を盾にする動きと、源さんの剪定鋏のタイミングが怖いくらいに緻密で、「助かった……」と思わず息を止めてしまいました。 それと、ラストの堂島視点で、あの夜の助手席から這い出してきたのが“御影の嫁”だったと気づく瞬間——背筋が冷えました。凛さんの素性が少しずつ透けて見えてくる構成が本当に巧いです。 それでいて、離れの灯りを朝までつけておくという榊さんの行動が、言葉以上の信頼で胸に沁みました。次が待ち遠しいです。