ドアを開けると、部屋の中央に置かれた机を挟んで奥の椅子に座っていた男は、音に反応したのか少し顔をあげた。長めの前髪のあいだから、特に何の感情も読み取れないふたつの瞳がこちらを捉える。取調室の調光のせいなのか、それとも彼本来の性質なのか、光の入らない真っ暗なそれは、まるでこちらを呑み込まんとするかのようにどこまでも深く、田村は思わずゾッとして目を逸らした。テレビでみる印象とは随分違うな、と彼は感じたが、こんな事件の当事者なわけだし当然かとも思い直す。男は取調室のお世辞にも機能性がいいとはいえないパイプ椅子に深めに腰掛け、両足は投げ出すようにしている。両手の指は組んで腹の上にのせており、少なくともこれから取り調べを受ける多くの人間が感じる緊張感や恐怖感みたいなものからは全くかけ離れたところにいるようにみえた。
「大森元貴さんですね?」
彼と向き合うようにして座り、調書を確認するふりをしながらそう問うと、男はうっすらと笑みを浮かべた。愛想笑いのつもりなのだろうか。形のいい唇がゆっくりと弧を描くのを目で追いながら、田村は、なんで俺なんだ、とひどく苦々しく思った。
「お住いはーーー。お間違いないですか?」
大森は不気味な薄ら笑いを浮かべたまま、再びゆっくりと頷く。一通り必要な手続きを終え、さて本題に入るかと息を吐いた瞬間
「刑事さん」
今まで一言も発しなかった大森が突然声を出したため、田村は驚いて思わず肩を震わせてしまう。なんとなくばつが悪くなり、なにか?と控えめな声で尋ねると
「前の人はどうしました?僕に……僕にまだ何か聞きたいことがあるんですか?それとも捜査に進展が?」
真っ暗な瞳は瞬きもせずにこちらを捉えている。思わず息を呑んでから
「捜査に関することは、お答えできない決まりです」
と、一音一音をゆっくりと丁寧に、噛んで含めるように発した。
「以前お話しいただいた内容でいくつか確認したい点がありましてね」
田村の前に彼の聴取を担当していた刑事は、思うように話せなくなる、と引き継ぎの際にぼやいていた。相手のペースに呑まれてしまい聴取が思うようにいかない、というのはまだ田村が新米だった頃に何度か経験し、不甲斐ない思いをしたことがある。ただ、大抵の場合は状況が状況なので、相手はひたすらに大人しく、こちらがペースを乱されることはない。前任者もそれなりのベテランだ。不思議に思い、大森という男はそんなにやっかいなのかと尋ねると
「一度経験すれば分かるさ、俺にはどうも……無理だった」
それで彼はこの役を退きたいと上に願い出た。それで、今回捜査線上に大森を容疑者として浮かべるきっかけを作った田村のところにお鉢がまわってきたというわけだ。相手のペースに呑まれてなるものか、と彼はぐっと身体に力を入れた。
「まずは、藤澤涼架さんが失踪された日の夜の事ですが……」
その名前を口にした途端に、明らかに目の前の男の顔つきが変わる。
「ねぇ、本当はなにか新しいことが分かったんでしょう?そうでしょう?そうじゃなきゃ、わざわざまたあの日のことなんて聞くはずない!涼ちゃんは?涼ちゃんは無事なんですか?」
身を乗り出すようにして矢継ぎ早に言葉を紡ぐ彼を、補助についていたまだ若手の刑事が慌てて押さえつける。
「俺の話が捜査の役に立つなら何度だって話すさ!でももうあれから2ヶ月だ、それなのに何も、何も進展しやしない!それでまた『確認』だって?」
大森さん、と補助の刑事が彼の肩を押さえつけたまま窘めるように声をかける。田村は表情を変えないようにして、ただまっすぐに大森のことを見つめた。
「藤澤さんが失踪したのは8月21日の夜で間違いないですね?」
大森は、今度ははっきりとこちらを睨みつけていた。
「ですが、警察に捜索願を届け出たのは3日後の8月24日だ。それは何故ですか?」
田村の言葉に大森は、あははっ、と高笑いをする。それからすぐに表情をまたあの暗いものに戻し、そこに書いてあるくせに、と彼は吐き捨てるように言った。
大森元貴と藤澤涼架は同じバンドグループに所属し、恋人関係にあった。これはもう1人のメンバーである若井滉斗をはじめとした関係者たちからも確認が取れている。2人は3年ほど前から交際を開始し、それと同時期から同棲も始めていた。仕事柄その方が都合は良かったのだと大森は語っている。国内外問わず広く知られるメジャーバンドであり、いわば国民的アーティストである彼らの人気ぶりはすさまじいものだ。しかし意外なことに、ファンの間にも二人の交際事実は知られていたという。
「同性カップルへの偏見も随分減ってきましたしね。それになんていうか、活動再開後からビジュアルを売りにした戦略を展開してたので女性ファンが僕らは多くて。だからむしろ、この方が受け入れられたっていうか。まぁ特殊ですよね」
彼は過去の聴取の中で、そう小馬鹿にしたように笑って話したという。ファンの中には彼らをビジネスカップルとして捉えていた者もいたらしいが、概ね好意的に受け入れられていたらしい。実際のところどうだったのかという質問に、公表した理由はたしかにビジネス的に利があったからだが、自分たちは本当に愛し合っていた、公表の件についても二人で話し合って決めたことだ、と答えている。
しかし、どうも他の関係者からの聞き取りによれば、仕事に関しては大森の意見を通すことが多かったらしい。彼の立ち位置的にそうなるのは当然と話す者もいれば、メンバーには実は不満もあったのではないかと話す者もいた。その中で、とある女性スタッフの発言は捜査関係者の間でいっとき話題となった。
「藤澤さんとのね、公表するっていうのはちょっと揉めたらしいんですよ。いや自分も直接聞いたわけではないですから。でもほらぁ、寛容になってきたとはいえ心無い言葉をかける人もいるでしょう?藤澤さんはそういうの、心配したらしいのね。どうしても公表しなくたっていいわけだしって。それをなんだか大森さんが押し切っちゃったって」
これに関して事実確認を大森にした際には
「たしかに公表に関して藤澤には不安もあったようですけれど、揉めたとか、そういうことはないです。先程も言いましたけど、話し合って二人で決めたことですから」
とはっきり否定している。他に「二人の間で揉め事があった」というような話は聞かれなかったので、その女性スタッフが単なる「うわさ好き」なのだろうという見解が多かった。
そして、8月21日の夜、藤澤涼架は突然「失踪」している。大森の証言によれば、その日は共に19時頃に夕食をとり、21時過ぎに藤澤が趣味のランニングに出かけてくると家を出て、それきりだったという。スマホは家に忘れていったらしく、そういうことも珍しくなかったらしい。
大森がマネージャーとも相談して捜索願を出したのが8月24日。失踪から3日後のことだ。
「藤澤はときどき、そういうことがあったんです。ふらっと出かけて、翌朝まで戻ってこないとか。丸二日くらい所在が不明になるとか」
これは最初の調書による記録だ。口元に好意的な微笑をたたえながら、終始穏やかに受け答えしていたと記録されている。今の姿からでは全く想像がつかない。しかし妙なものだ。恋人が行方不明の人間が、そんなに落ち着き払っていられるものだろうか。
大森は、藤澤のそういった行動について次のようにも供述している。
「もちろん最初の時はものすごく心配しました。その時はコンビニに行ってくるとかなんとか言って家を出て、1時間経っても2時間経っても帰ってこないからさすがにおかしいなと思って慌てて若井とか、共通の知り合いにも連絡して」
この点については、バンドメンバーである若井滉斗にも同様の状況が確認できている。この時の聴取は田村も隣室でミラー越しに様子をみていたし、非常に印象的だったためよく覚えている。
「あぁ、あの時はびっくりしました」
大森よりも背が高く、いかにもバンドマンのギタリストといったふうの派手な装いの彼も、この時はやつれてみえた。パイプ椅子の背もたれからは若干身体を浮かし、緊張のせいか表情はずっと強ばっていた。
「去年の7月とかです。それこそこれくらいの時期。元貴から……あ、大森から急に連絡が来て、涼ちゃんが帰ってこないんだ、どうしようって。気分が変わって散歩でもしてるんじゃないのって思ったけど、大森がすごく不安そうで、それで俺も電話かけてみたり、行きそうなとこ探してみたり。でも結局見つからなくて、マネージャーにも連絡して、朝イチで警察に行こうとか何とか大森の家で話してたんです。そしたら明け方……まだ辺りが薄暗くて6時前とかだったかな、ふらっと帰ってきたんです。何事も無かったみたいに」
「藤澤さんはなんと説明を?」
すると若井は言葉に詰まった。何をどこまで言うべきか……つまり何かを隠そうと迷っている人間のそれだ。
「それが……」
彼は重たげに口を開く。
「何も覚えてないって言ってたんです。コンビニに行くつもりで家を出て、それでいま、気づいたら家の前に居たんだって……」
この時彼の聴取を担当していた捜査官は田村とは旧知の仲であり、こうした聞き取りも手馴れたもののはずだったが思わずというように眉根をひそめた。
「……失礼ですが、藤澤さんに精神疾患などは?または過去にそういった診断を受けたことなどは」
「俺の知る限りでは無いです」
若井は強めに首を振った。
「藤澤はもともとちょっとぼんやりしたとこがあって……でもそれはさすがにおかしいと思ったから俺も彼に病院でみてもらったらと言ったことがあったんです。それは、その、実はそうやって姿を消したのは1回ではなくて、その件以降も何回かあって……2日くらい帰ってこなかった時は警察にも捜索願を出しました」
これは署の方にも記録が残っている。今年の3月初めくらいの出来事であった。
「でも涼ちゃん……藤澤は、自分は大丈夫だからって、無事に帰って来れてるし心配しなくていいよ、なんて言ってて……」
今回もふらっと帰ってきそうな気がしてるんです、そう言って若井は苦笑した。
「すみません、こんなに一生懸命捜査してもらってるのに。きっと涼ちゃん帰ってきたら、青い顔してめちゃくちゃ謝るんだろうな」
これは8月28日の記録だ。失踪から1週間。この頃はまだ若井滉斗は藤澤がいつも通りにふらっと「お出かけ」しているのだとどこかで思っていたのかもしれない。あるいは今でも、そう願い続けているかもしれなかった。
当初は第三者による誘拐や何らかの事件に巻き込まれた可能性などを主力路線として捜査を進めていた。しかし、夜で目撃者がほぼ皆無だったのと、彼がランニングコースとしていた道沿いにはほとんど防犯カメラもなく、彼の足取りを掴むのは難航した。大森の証言通り、マンションのエントランスに設置されたカメラが、21時11分にランニングウェア姿の藤澤がエントランスを出ていくのを記録している。それから21時30分すぎに、あるコンビニの防犯カメラに外を走っていく彼らしき姿も捉えられている。そのコンビニは、よく藤澤がランニングコースとしていたルート沿いにあるもので間違いないと大森からの証言を得ている。しかし、得られた情報はこれのみだった。大森の証言にある彼のランニングコース上には他にもいくつか、公園や個人宅などに防犯カメラが設置されているが、その多くは48時間、もしくは72時間で記録が上書きされてしまうタイプのものであり、事件発生当時の映像が手に入らなかったのだ。また、他の長期記録のカメラにも彼らしきランニングウェアの人物は映っていない。彼が当初は予定通りランニングに出発したということは確かなこととして分かっている。では、彼はいつどこで消えたのか?これが捜査上、最大の謎として残り続けた。そんな中、捜査線上に1人の容疑者が浮かぶことになった。
それは、失踪した藤澤の恋人である大森だった。きっかけはつい最近彼らの仕事に携わったというTV会社の女性スタッフの発言だった。その発言を入手したのが田村だった。目撃情報もほとんどなく捜査が行き詰まるなかで、田村は関係者から何か手がかりになるようなことが聞き出せないかと地道な聞き込みに尽力していたのだ。その折のことだった。
「藤澤さんのね、腕にこう大きな痣があったんです。それでこちらが用意してた衣装がNGで。昨日ランニング中に転んじゃって、なんてすごく申し訳なさそうになさってたんですね。それで代わりの衣装をお持ちした時に、その、見ちゃって」
女は言いにくそうに、一度目を伏せてからこちらを見た。
「これ、私が話したことはミセスの関係者には伝わらないんですよね?」
もちろんです、と田村は大きく頷く。
「ちょうどTシャツをこう、脱いでる時に私が入ってしまって。慌てて謝って部屋を出たんですけど、身体にいくつも痣があったんです。一度転んだくらいではつかないような。……まるで、誰かから日常的に暴力を受けてるみたいな」
彼女がそう思ったのには、以前恋人からDVを受けている友人の相談に乗っていたことがあり、その時に見せてもらった傷の様相と酷似していたかららしい。それで余計に印象にも残ったのだと、顔を顰めながら話した。
その件があり、関係者の何人かにかまをかけたところ、もう警察にその話が伝わっているのなら、と藤澤のその「傷跡」について口を割る者が出てきた。
「最近は、たぶんあまり上手くいってなかったんだと思いますあの二人」
とある関係者によるこの発言が決定打となり、大森元貴は「行方不明者の恋人」から「最有力の容疑者」として舞台上に引き上げられることとなったのだった。
もともと彼の態度に対する「違和感」は捜査関係者の中でも話題に上がっていた。当初より大森は落ち着きはらっており、事情聴取にも愛想良く答えている。緊張した様子などはなかったと調書にも記録されていた。でも普通なら、このような状況下において取調室で落ち着き払っていることなどまずありえない。
「あれは、『演じている』んだ」
前任者は田村にそう話した。
「自分は怪しくない、だからこんなに落ち着いていられるんだと。だから最初は心象を良くしようとでも思ったのかああいう振る舞いをした。でも自分に疑いが向けられていると知ってからはそれが間違っていたと思ったんじゃないか?恋人が行方不明なのに取り乱さないのはおかしいのではないかと。だから急に行方不明の恋人を激しく心配するふりをしたり、狂人のようにふるまったりしている」
「単に時間の問題じゃないのか?時間が経って、なかなか見つからなければ心を病んでもおかしくない」
しかし、彼は田村の意見にはっきりと否定を示した。
「違うね、あれは演技だ。田村も一度話してみれば分かるさ」
そして現在、田村は大森と対峙している。なるほどな、と彼は心の中で納得する。確かにこれは「よくできた演技」だ。しかし何か釈然としない。何が引っかかっているのだろうか、と彼は調書にざっと目を通しなおしながら考える。まだ時間はある。これはカンを冴えさせる必要がある、と田村はそっと息を吐いた。
※※※
いままでとはお話の雰囲気がだいぶ違いますがどうでしょうか……?(⑉• •⑉)
4話構成となっていますが、1話あたりの文量がこれまでの2~3倍となっています(大体7000字弱)
恋愛要素も少ないし、あまり長きに渡って投稿するのもな〜と思ったので4日間での更新を考えていますが、もし読みにくさなどあれば遠慮無くコメントください!
コメント
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この短期間にこの文章量、本物の作家さんですか?
すごい、、、なんか新ジャンルな感じで、もう展開が楽しみすぎる! 7000とかあってもいろはさんの文章うますぎて入り込んで読んじゃうからあっという間ー! むしろありがたい✨
私の好きな曲名…似た言葉とかで意味が色々あったりなかったり…楽しみん🥰