テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#年の差
当麻月菜
1,226
星キラリ

1,535
#略奪
秘翠ミツキ
1,891
美並ナナ
1,572
月曜の朝、専務は玄関で革靴を履きながら言った。
「兄さんに会う。お前は普通にしていろ」
「普通、ですか」
「決裁書を出して、棚を数えて、昼を食え。それが普通だろう」
「……はい」
専務は先に出ていった。私は靴箱の二段目からパンプスを出して、履いて、五分遅れて出た。同じ地下鉄には乗らない。それも、普通のうちだと思っている。
七時四十分、五階の棚。青いペンは、金曜に足した十本のうち、もう二本減っていた。
台帳に書く。十月十二日、五階、青0.5、残り八本。
二階に戻ると、小森さんが給湯室から出てきて、私の耳元まで来た。
「聞いちゃったんですけど。常務が、朝いちで専務を呼んだって。七階の人が」
「そう」
「ひよりさん、何か聞いてます?」
「聞いてない」
本当だった。専務は、兄さんに会う、としか言わなかった。何の話かは、昨日の車の中で見た画面で見当がついている。見当がついているだけで、聞いていない。
「普通にしてて、って言われてるから」
「誰にですか」
「専務に」
小森さんは、口を押さえて席に戻った。
その日の午前中、七階からは何も降りてこなかった。決裁書も、付箋も。私は棚の数を数えて、申請書を三枚片づけた。普通にしていろ、と言われた普通は、思っていたより難しかった。
午後三時。
フロアの半分が、会議や外出で空いていた。課長は経理に行っている。小森さんは倉庫。
佐伯さんが、エレベーターから降りてきた。
明るい色のスーツ。笑顔。私の机の前まで来て、周りを一度見て、人がいないのを確かめてから、机に片手を置いた。
「水瀬さん」
人前の声で始めて、途中で声を落とした。
「数字、出せよ」
「……何の数字ですか」
「分かってるだろ。各階の消費量。前年比。会議室の稼働率。お前が四月に作った、あれの元の数字だ」
佐伯さんは、自分で言った。お前が四月に作った、と。
私は決裁書から手を離した。
「元はお前のメモだろ。だから俺が形にしてやった。あれは、お前のためにもなる話なんだよ。プロジェクトが通れば総務の仕事が減る。お前、残業減るぞ」
「……」
「専務が数字の根拠を出せって言い出した。二週間後の報告会で。お前が出してくれれば、それで済む。協力、って形で名前も出す。悪い話じゃない」
悪い話ではない、と佐伯さんは言った。
六月に、形にしてやるよ、と言ったときと同じ顔で。
私は、台帳の上に手を置いた。緑の表紙。角が擦れている。
「私のメモなら、私の名前で出します」
佐伯さんの笑顔が、止まった。
「……本気か」
「協力、ではないので」
佐伯さんは、しばらく私を見ていた。それから、笑った。声を出して。
「お前、変わってないな。嘘が下手なところも、意地を張るところも」
「……」
「専務に何を言われたか知らないけど、お前がそういうの、向いてないのは俺がいちばん知ってる」
いちばん知っている、と言った。二年、私の作った資料と数字を褒めた人が。
机から手を離して、佐伯さんはエレベーターのほうへ歩いていった。扉が閉まるまで、私は台帳の上の手を動かさなかった。
動かしたら、震えていたと思う。
夜。
専務は、遅く帰ってきた。靴箱の音がして、台所の入口に立って、上着を脱がずに言った。
「佐伯と付き合っていたのか」
木曜の夜、知り合い、と言った。嘘ではなかったけれど、全部でもなかった。
「はい。三か月前まで」
「そうか」
専務は椅子を引いて座った。私は、立ったままでいた。
「兄さんは、お前が金目当てで俺に乗り換えたと聞いたそうだ。佐伯から」
「……金目当ては、本当です」
「契約だ」
専務は、はっきり言った。
「金目当てとは違う。対価がある。お前は半年、俺の婚約者をやる。俺は一千万を払う。それは、乗り換えでも金目当てでもない。契約だ」
「はい」
「兄さんにはそう言った。契約の中身は言っていない」
「はい」
専務は机の上の、私の台帳を見た。
「あいつは、お前の何を見ていたんだ」
聞かれて、私は答えを探した。見つからなかった。
二年、付き合った。佐伯さんは、私の作った資料を褒めた。私の作った数字を褒めた。でも私のことを、何か見ていただろうか。
「……分かりません」
「俺は、台帳を見ていた」
専務は、それだけ言った。
私は何か言おうとして、何も見つからなくて、湯を沸かした。
「兄さんの前で、佐伯に言った。二週間後の報告会で、数字の根拠を出せと」
専務が、私の背中に言った。昼に佐伯さんが言っていたのは、これだった。
「出せなければ、あいつの提案だと誰も言わなくなる。言わせる必要はない。出せないだけでいい」
「……私が出さなければ、出せません」
「そうだ」
「出せ、と言わないんですか」
「言わない」
湯が沸いた。
「お前の物だと、お前が言った」
火を止めて、振り返った。専務は、台帳を見たままだった。
翌朝、課長が私の机の前に来た。ぬるいお茶を持って、申し訳なさそうな顔で。
「水瀬さん。佐伯くんのプロジェクトからね、全フロアの備品台帳の提出を頼まれてて」
「……」
「常務からも言われてるらしくて。明日、佐伯くんに渡してくれる?」
課長は、机の上の緑の台帳を指した。
私の手が、台帳の上で止まった。
コメント
1件
めっちゃグッときた……。「私のメモなら私の名前で出します」のとこ、震えたわ。佐伯さんが「俺がいちばん知ってる」って言う直後に、専務が「台帳を見ていた」って対比が痺れる。ひよりさん、弱くないよ。ちゃんと自分のために線引いてる。次回、台帳どうなっちゃうんだろう……続きが待ち遠しい🔥