テラーノベル
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台帳の上に置いた手を、私はゆっくり持ち上げた。
「課長」
「ん」
「会社の記録は、データでお渡しします。三年ぶん、全部あります。この台帳は、私の備忘です」
課長は、お茶を持ったまま私を見た。
「備忘」
「はい。誰の机のペンが減りやすいか、とか。会社の記録には要らないことまで書いてあるので」
「……まあ、データで足りるなら、それでいいんじゃない」
課長は、それ以上言わなかった。言わない人で、私はそのことに、今日は少しだけ助けられた。
十時までに、表計算の三年ぶんを一つにまとめて、佐伯さんに送った。件名は「備品消費量データ(三年分)」。本文は三行。課長をCCに入れた。
返事は、十分後に来た。
『これ、何の数字か分からないんだけど。説明の資料ある?』
私は返した。
『列の見出しのとおりです。』
それだけ書いて送って、画面を閉じた。
分からないはずはない。四月に私が渡したメモは、この数字を一枚にまとめたものだ。まとめたものを使った人が、元の数字を読めない。
読めなくても、使えたのだ。それが、いちばん分かった。
午後、七階からエレベーターが降りてきて、氷室さんが出てきた。
栗色の髪、きれいな笑顔。課長の机の前で止まる。
「大久保課長。社長が、水瀬さんの勤務態度を確認したいとおっしゃっていて」
フロアの何人かが、手を止めた。私は止めなかった。
「勤務態度」
「はい。勤怠と、評価の記録を。ご子息の婚約者ですから、社長としては当然かと」
「……まあまあ、それは。出しますけど」
課長は、まあまあ、と言いながら、人事に電話をかけ始めた。氷室さんは私を見た。上から下まで、一度。それから、笑顔のままエレベーターに戻った。
「社長が、って」
小森さんが、私の隣で小さく言った。
「毎回言いますよね、あの人」
「社長秘書だから」
「社長が言ったかどうか、誰も確かめられないのに」
小森さんは正しい。私は返事をしないで、申請書に印を押した。
夜の二時。
明日、出さなければならない決裁がもう一つある。四階の営業部からの、備品の追加申請。根拠を添えて、と言われる前に添えておく。
台所の机で、台帳を開いていた。寝室にいると、音で起こすかもしれない。それだけの理由だった。
水の音がして、顔を上げると、専務が台所の入口に立っていた。寝る前の格好で、髪が少し乱れている。
「……起きていたのか」
「明日の決裁の根拠を」
専務は冷蔵庫から水を出して、飲んだ。それから、私の手元を見た。
「見せろ」
「私物です」
今度は、はっきり言えた。専務は水のボトルを持ったまま、しばらく私を見ていた。
「じゃあ、横で読め。俺は聞くだけだ」
椅子を引いて、私の隣に座った。
隣に座られると、台帳を閉じるわけにもいかなかった。私は開いているページを、そのまま読んだ。
「四階の営業部です。先月、付箋が五十冊。前の年の同じ月は三十二冊」
「増えた理由は」
「人が四人増えました。四月に」
「そうか」
「五階は、青いペンが先月十二本です。残りが八本。今月中にまた足します」
「五階は人が増えていない」
「はい」
「誰が使っている」
私は、ページを一枚戻した。七階の欄。
「……五階は、分かりません。でも、七階は分かります」
専務は、ボトルを持ったまま止まった。
「あなたの部屋のペンが、いちばん減ります。月に八本」
専務は、目をそらした。
台所の壁を見て、冷蔵庫を見て、それから、ボトルの蓋を閉めた。
「……そうか」
「社内で、一人で月に八本使う人は、ほかにいません」
「そうか」
二度目のそうか、は、少し低かった。
私はページを戻して、四階の欄に指を置いた。
「ほかに、六階の会議室Fの予約表も、私がつけています。予約システムに入っていないので」
「会議室F」
「旧資料室です。使う人が多いので、扉に紙を貼っています。三年前から」
「誰が使う」
「営業企画の方が、いちばん多いです。先月は十一回。それと、秘書室が二回」
「秘書室が、六階の資料室を」
「予約表には、社長のお名前で」
専務は、ボトルの蓋を一度開けて、また閉めた。
「……それも、台帳か」
「別の紙です。でも、集計はここに」
専務は、何も言わずに、台帳の端を見ていた。読んではいない。聞くだけだ、と言ったとおりに。
二時半になって、専務は立ち上がった。
「寝ろ。明日も棚を回るんだろう」
「はい」
「十分で通す」
専務は水のボトルを持って、寝室に戻った。
私はあと一行だけ書いて、台帳を閉じた。七階、青0.5、月八本。前から書いてあった数字を、今日もう一度書いた。
水曜の夜、八時過ぎ。
専務はまだ帰っていなかった。私が台所で湯を沸かしていると、玄関のチャイムが鳴った。
この家でチャイムが鳴ったのは、初めてだった。家政サービスの人は鍵を持っている。宅配の人は、下の入口で止まる。
扉の覗き窓を見て、私は少し間を置いてから、鍵を開けた。
栗色の髪。きれいな笑顔。手に、紙包み。
「こんばんは、水瀬さん」
氷室さんが、玄関の中を見た。靴箱と廊下を見て、私を見た。
「社長のお使いで。寝室が二つあるお宅だと、伺いましたけど」
コメント
1件
第8話読み終えた!今回も台帳がただの数字じゃなくて、人の動きや関係性を炙り出す鏡みたいになってて好きだな。専務の前で「あなたの部屋のペンがいちばん減ります」って言うシーン、空気の変わり方すごかった。あの「そうか」の二度目の低さ、なにか隠してる感じがした。そしてラストの氷室さん…いきなり家の玄関まで来るの、この流れでどう転ぶのかめっちゃ気になる。続き楽しみにしてます!
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