テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#オリジナルキャラクター有り
鼻を突く鉄錆の匂い。真っ白な大理石の床に広がった赤黒い海は、この家の非現実的な豪華さを無残に汚していた。近藤さんが無線で鑑識と応援を要請している間、柊さんはまるで美術館でも歩くような足取りで、遺体の周囲を徘徊し始めた。
「ちょっと、柊さん。鑑識が来るまで勝手に動かないでください」
「わかっているよ、南さん。床の海には入らない。僕が興味があるのは、あっちだ」
彼が指差したのは、リビングの壁一面を埋め尽くすガラス張りのワインセラーだった。中には素人の私でも名前を知っているような、数十万、あるいは数百万は下らないであろうヴィンテージボトルが整然と並んでいる。
柊さんはセラーを眺めた後、今度はダイニングテーブルへ歩み寄った。そこには、一本のワインが開けられていた。
「ほう。シャトー・ペトリュスか。しかも当たり年だ。これ一本で、君の給料が何ヶ月分飛ぶかな」
柊さんは贅沢に注がれたグラスを手に取り、あろうことか口をつけようとした。
「何してるんですか! それは証拠品です! てか、毒が入ってたらどうするんですか!」
私は反射的に彼の腕を掴んだ。
「喉が渇いていては思考が鈍る。それに、死者はもうこれを飲めないし、刺殺だろうから毒は関係ない」
「ふざけないで。一課の現場なら即刻つまみ出されてますよ」
私が本気で睨みつけると、彼は「冗談だよ」と肩をすくめてグラスを置いた。だが、その視線はグラスの隣にあるものに固定されていた。そこには、食べかけの宅配ピザの箱が置かれていた。
「……南さん。この光景、どう思う?」
「どうって……。阿久津が夕食中に襲われたんじゃないんですか?」
「ピザは手付かず。食べ始める前に殺されたのか……近藤さん!」
柊さんは、無線を終えた二課の刑事に向かって声をかけた。
「そのうつ伏せの死体、よく顔を見てごらん。……それは、阿久津じゃないだろう?」
近藤さんが目を見開いた。彼は躊躇いながらも、ハンカチ越しに遺体の肩を掴み、その横顔を覗き込んだ。
「なっ……。これは阿久津の秘書の、長谷川だ。……なぜわかった?」
柊さんは、ピザの箱に残った一切れを指差した。
「このセラーを見ればわかる。阿久津という男は、自分のステータスを何よりも愛している。これほどのワインを揃える人間は、ワインと料理の相性にも病的なまでにこだわるものだ。……南さん。五大シャトーの一つを飲みながら、ジャンクな宅配ピザをあてにするワイン好きが、この世にいると思うかい?」
「それは……確かに、不自然ですね」
「ピザを注文したのは、この長谷川という男だろう。阿久津が不在の隙に、主人に内緒で高価なワインを盗み飲みしていた。そこへ客がやってきたんだ。……長谷川は阿久津だと思われて殺されたのか、あるいは……」
その時だった。背後で玄関の開く音がし、複数の足音が近づいてきた。応援の刑事かと思ったが、聞こえてきたのは聞き覚えのない、傲慢な響きを持った男の声だった。
「……なんだ、これは。一体私の家で何をしているんです?」
振り返ると、そこには一分の隙もないスリーピースのスーツを着こなした中年の男が立っていた。今回の捜査の標的、阿久津その人だった。
彼はリビングに広がる惨劇と、そこに群がる私たちを交互に見て、不快そうに眉を寄せた。
「警察の方々ですか? 令状もなしに不法侵入とは、穏やかではありませんな」
近藤さんが絶句する中、柊さんはゆっくりと阿久津に歩み寄った。そして、死体を確認したばかりの冷たい瞳で、家の主をまっすぐに見つめた。
「不法侵入ではありませんよ、阿久津さん。僕たちは、あなたの『生存確認』に来たんです」
「生存確認だと?」
「ええ。残念ながら一歩遅かったようです。あなたは殺されました」
柊さんは、床に転がる秘書の遺体から視線を外し、阿久津の顔に至近距離まで顔を近づけた。
阿久津の頬が引き攣った。
「これは、長谷川!」
豪華な自宅に帰還した主は、自分の玉座のすぐ脇で、自分自身の身代わりが冷たくなっている現実を突きつけられたのだ。
「……さて。とりあえずここではなく、警察で話をしましょう。ワインを二、三本持参してもいいですよ。飲みながら話しましょう」
柊さんの静かな問いかけが、ワインと血の匂いが混ざり合うリビングに、鋭く突き刺さった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!