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世界は僕のモノだと思っていた。〜神になった者の最後の救済〜
「私はその日、神によって殺された。」
「神はその日、私によって救われた。」
序章 救済の一節
A Passage of Salvation
変な仮装をした男は幼い私に問いかけた。
「君には世界がどう見えるか」 と。
ガチャ。
「あぁ、今日は少ない方だ」
私は丁寧に一個ずつ取り分けていく。
誰もいないその靴箱で、私の小さな息遣いだけが空間を奏でる。
——そんな彼女を異界の生き物が物陰から観察していた。
「ねえ、どんな気持ち? あんなちゃん」
分厚く塗られたべっとりとしたリップグロスが、蛍光灯の光を鈍く反射しながら歪んだ弧を描く。ロングヘアの少女——この狭い教室の支配者。
「……ごめんなさい」
私の選択肢はその文言が何千と並んでいるもの。どれを選んでも同じである。
私の世界は、靴箱の底に沈む濡れたゴムの匂いと、毎朝上履きの中に敷き詰められた鋭利な画鋲の感触で形作られている。
そんなとき、教室にいっときの空白が流れる。
「なんだ」
私を含め、目の前にいる人間が突然ぼやけ始める。校庭の隅ではラジオ体操の音楽が突然途切れている。誰かの持つ扇子がぱたぱたと動く音、机の脚が床を擦るかすかな軋み、そういった細かな音の全てが、連鎖のようにループする。
そう思った次の瞬間には世界は戻っていた。
私は何が起きたのか一切理解できない。
私は幻覚を身始めるほどに、心がやられているのかと、そう恐ろしく思った。
「毎回試験は赤点」「50m走は速くて12秒」
「すっごく泣き虫」
それが私を象徴する性質。生まれつきなんだ。私はあらゆる意味で「弱者」だった。弱さは存在すること自体が罪なのだと、教えられるまでもなく皮膚で理解していた。だって今こんな人生を送ってしまっているから。
——だが、本当にそれは「生まれつき」だったのだろうか。不思議なことに、私には幼少期の記憶が一切ない。白く塗り潰されたキャンバスのように何もかもが欠落している。
「お母さん、どうして私には昔の思い出が残ってないの?」
「重い病気にかかっていたからなのよ」
と優しく微笑む。台所の窓から差し込む夕方の光が、母の頬の産毛をうっすらと金色に照らしていた。
これが今やテンプレになっている。
その病名を聞いたことは一度もなかった。
しかし、全部が霧に沈んでいるのではない。私には、たったひとつだけ刻まれている記憶があった・・・。
「キンコーン」
昼休みのチャイムが学校中に響き渡った。
私から言えば悪魔が迎えにやってくる汽笛といえよう。
「さ、行こうか」
ここから私は女子トイレで叩かれる。
そのはずだった、のに。
私は連れられるまま廊下を進んでいたが一向に景色は変わらない。それどころが視界は歪み始め、まっすぐにその道は伸びていった。
——まただ。
私はまるで熱を発した日の夢でもみてる気分だった。
しかし、それもまたすぐに終わる。
下校のとき、一枚の落ち葉を踏んだ。それは茶色く、脆い。乾いた音を立てて砕けたはずなのに、その存在にすら私は気づかない。静かな風が灰となった葉を陰に飛ばしていく。夕暮れの街並みは橙色に染まり始めていて、電柱の影が長く道路に伸びていた。どこかの家から夕餉の匂いが漂ってきて、それが自分の家とは違う匂いであることに、私は妙な疎外感を覚えた。
雲が月を覆う夜、食材を刻む母親を横目にカッターナイフを持ち出した。刃先が蛍光灯の光を鈍く弾き、それだけで胸の奥が冷たくなった。階段を上る足音を殺しながら、私は自室のドアをそっと閉めた。ドアノブの冷たさが手のひらに残った。自室に戻ると私はその刃を腕に当てていた。冷たい金属が皮膚に沈み込む一瞬の感触。刃先を押し込もうとするたび、手が情けなく震える。
静かな部屋に私の殺傷力のない嗚咽が響いた時、ドアが軽やかな音を立てて開いた。
951
96
羽海汐遠
12,455
「どうしたの? あんな」
そこには悲しみの顔をした母が立っていた。リビングとの壁は薄いことはわかっていた。泣き声を聞かれてしまったのだろう。母は静かに部屋に足を踏み入れ、カッターを握りしめる私の手を優しく包み込み、そのまま強く抱きしめた。母の服からは、いつもの夕飯の匂い——生姜と醤油の混じった、温かい匂いがした。
エプロンの裾がまだ少し濡れていて、その水気が私の頬に触れた。
「何があんなを苦しめているのか、話せるようになるまでお母さんは待つわ。何があっても、私はあなたの味方だから」
母はいかなる時も私のことを愛してくれた。私にとって生きる理由の根源はそこにある。その優しさに触れ、再び踏み締めて生きていこうと誓った。母の背中をさすってくれる手のひらの温度が、いつまでも消えないでほしいと願った。
そんなときのことだ。突然、部屋全体が眩しく灼けつくような純白の光に飲み込まれた。網膜の奥まで焼かれるような感覚があり、耳の奥で高い音鳴りがした。視界が焼き切れそうな光芒の中、薄目を開けた私の目に飛び込んできたのは——鳥の羽とは明らかに異質な、金色の幾何学模様を帯びた巨翼だった。羽の一枚一枚の輪郭が、まるで内側から発光しているかのように滲んでいた。部屋の空気そのものが変質したかのように、甘く冷たい匂いが漂い始め、机の上のノートのページがふわりと風もないのに揺れた。
「初めまして」
あまりにも現実離れした光景に、息をすることすら忘れた。初めまして、と。天使とは、これほど平然と人の言葉を騙るものなのか。
「……どちら様、ですか」
脳は処理を終えることなく、返答することを最優先にした。聞かずともわかっていた。それが「天使」と呼ばれる存在であることに疑いの余地はなかったからだ。でも私は確かめずにはいられなかった。
「あなたを救いに来た者です」
その絶世の容貌には、神聖なまでの優しさと希望——そして、その奥底にどうしても隠しきれていない、微かで爆発的な憎悪が宿っていた。その憎悪は、まるで美しい水面の底に沈む黒い石のように、目を凝らさなければ気づけないものだった。光の粒子が翼の輪郭からこぼれ落ちて、床に触れる前に消えていくのを、私はただ呆然と見つめていた。
それ以来、天使は私の影のように寄り添うようになった。誰もいない通学路、静まり返った自室。天使は人間の認知をすり抜けながら、恐ろしいほどの速度と精密さで私に様々な「助言」を与えた。天使とは羽の生えた天才のことだったのかと一人で結論づけた。通学路の途中にある古い神社の鳥居をくぐるとき、天使はいつもそこで一瞬立ち止まり、何かを確かめるように空を見上げる癖があった。その仕草の意味を、私はまだ知らなかった。
「ねえ……どうして私だったの?」
ある夕暮れ、誰もいない屋上で私は尋ねた。錆びたフェンス越しに、橙色の光が校庭を長く伸ばしていた。フェンスに絡みついた蔦の葉が風に揺れ、乾いた音を立てていた。屋上の床には長年の雨風で剥がれかけたペンキの跡が模様のように残っていて、その上に私たちの影が並んで伸びていた。天界から見下ろしたとき全くもって気付けないほどに陰に隠れた人間である私が選ばれたのだ。凄く不思議な話である。
「君が特別だからだ」
不完全な答えだった。けれど、天使はそれ以上教えてくれることはなかった。私がしつこく聞き出す立場ではない事は分かっている。この地獄から連れ出そうとしてくれる存在に、私はただ縋るしかないのだから。遠くのグラウンドから、部活動の掛け声がかすかに届いていて、それが自分とは無縁の、健やかな世界の音のように聞こえた。
そんなある朝、天使は唐突に私へ命じた。
「今日、学校を休んで街の図書館へ行きなさい」
今まではそんな直接的で意図が読めない言葉など吐いたことがなかっただけに驚いた。しかし言われるままに私は足を進める。いつの間にか私は天使へ絶対の信頼を置いていたのだ。そこは木々が生い茂った場所に立地している古びた雰囲気を持つ図書館である。石造りの外壁には蔦が這い、入り口の扉は開けるたびに軋んだ悲鳴をあげた。歩道の脇には季節外れの落ち葉が積もっていて、踏むたびに乾いた音を立てた。
カビと古い紙の匂いが充満する室内の奥深く、人気の途絶えた書庫へと導かれていった。埃の粒子が、高窓から差し込む一筋の光の中でゆっくりと舞っているのが見えた。書棚と書棚の間の通路は狭く、両側から古い紙の重みがのしかかってくるような圧迫感があった。床は古い木材で、一歩進むたびにぎしりと軋んだ。
「あの棚の上から二段目、左端。その本を手に取りなさい」
天使の示すままに、私は細い指を伸ばした。漆黒の革装丁の本。表紙には題名も著者名も刻まれておらず、ただ革の表面だけが妙に生暖かかった。
指先に触れたその瞬間、周囲の空気がわずかに重くなったような、そんな錯覚を覚えた。好奇心のままにそれを開いた瞬間——私の存在そのものが、底なしの暗闇へと引きずり込まれていく感覚に襲われた。私にとって普通の読書のはずだったその行為は、全てを歪ませる一手となる。
そこに書かれていたのはひとりの少年が世界を呪い、踏みにじっていった残虐な物語だった。
第一章 死へ向かう誓い
A Vow Toward Death
——ぶちっ。
小さな命が潰れる湿った音が、静寂に響いた。真っ赤な甲殻を持つ、一匹のてんとう虫だった。潰れた体液が指先でぬるりと光り、乾いた土の匂いに混じって鉄錆に似た匂いが立ち上る。それを指先で潰したのは、僕だ。周囲には青々とした草が風に揺れ、遠くの森からは名も知らぬ鳥の鳴き声が断続的に響いていた。太陽は高く、草いきれの匂いが鼻腔をくすぐる。命というものは、決して平等になど作られていない。強者は生き、無力な者はただ踏みにじられる。僕はただ、この世界の冷酷な摂理を指先で体現したに過ぎない。
「何をしているの?」
背後から届いた声は、まるで銀の鈴を転がしたかのように美しく、透き通っていた。振り返るより先に、その声が空気の色を変えてしまったような気がした。風が一瞬止み、草の揺れる音すら消えたように感じられた。
「虫を、殺していたんだ」
指についた赤い体液を拭いもせず冷淡に答えると、その子は鈴を鳴らすように高く笑った。不思議な子だ、と思いながら振り返る。
そこに立っていたのは、光を吸い込んだような眩い銀髪を持つ、美しい少女だった。風もないのに、その髪だけがかすかに揺れているように見えた。彼女の纏う衣は、この鄙びた野原には似つかわしくないほど上質な白い布地で、裾には細やかな刺繍が施されていた。彼女の背後には、遠く霞んで見える城の尖塔があった。
僕はその瞬間、落雷に打たれたような衝撃とともに、一つの明確な意志を刻み込んだ。——必ず、この手でこの美しい少女を殺してやろう、と。
「姫様!」
遠くから、重厚な鋼の鎧を鳴らした男が大声で駆けてくる。金属同士がぶつかる甲高い音が、静かな野原に不釣り合いなほど響いた。草を踏みしめる重い足音が近づくにつれ、地面がかすかに震えるようにさえ感じられた。ああ、なるほど。この少女は、この国を統べる王家の姫君だったのだ。
「レオン!」
続いて僕の母が蒼白な顔で駆け寄ってくる。その顔には見たこともないほどの焦りが浮かんでいた。僕たちは無造作に引き離され、引きずられるように家へと連れ戻された。離れていく距離の中で、最後まで僕と姫の視線は絡み合ったままだった。彼女の瞳には、死を予感した恐怖ではなく、底知れない愉悦が揺らいでいた。遠ざかる彼女の白い衣が、風になびいて視界の中で小さくなっていくのを、僕はいつまでも目で追い続けていた。
第二章 世界が僕を殺した日
The Day the World Killed Me
僕が壊れ始めたのは三年前の夜だった。
当時の僕の家は、貧困の底にあった。傾いた木造の壁の隙間から冷たい隙間風が吹き込み、冬になると母は毎晩、僕と妹を挟むようにして眠った。薄い布団越しに伝わる母の体温だけが、あの寒さの中での唯一の暖房だった。壁の隙間から星明かりが漏れ入る夜もあり、その光の筋を数えながら眠りにつくのが、幼い僕のささやかな楽しみだった。毎日のように人の物を盗み金貨に変え、生計を立てていた。
こうなったのも全部父のせいである。母と結婚した父は財産になる物全てを奪って姿を消した。それからというもの生き延びるための唯一の手段は盗みとなっている。母は僕が盗みをしている事は知らず、採掘の仕事だと伝えられている。帰るたびに母は優しい笑顔を向け、目を見て「ありがとう」と一言言ってくれるのだ。それが僕にとっての誇りだった。玄関の扉を開けるたびに漂う、家の中の煮炊きの匂いと、隙間風の冷たさが入り混じる感触を、僕は今でも鮮明に覚えている。
「お兄ちゃん、おかえり!」
そんな母の隣には可愛らしい僕の妹がこちらに光を点した目を向けている。竈にかけられた鍋から、貧しいなりに工夫された芋のスープの匂いが漂っていた。妹は僕の袖を引っ張って、今日あった些細な出来事を息継ぎもせずに話し続ける癖があった。その声を聞くだけで、外の世界の冷たさが少しずつ溶けていくのを感じた。
どんなに寒い日がきてもその空間だけは僕をあっため続けてくれた。
ある日、人の声と熱気が渦巻く夜の市場。松明の煤の匂いと、揚げ物の油の匂いが混じり合って夜気に溶けていた。露店の呼び込みの声、子供の笑い声、酔客の怒鳴り声、そういった雑多な音の全てが、夜の市場を一つの生き物のように蠢かせていた。今夜は何か「大物」が手に入る——根拠のない直感が、僕の背中を押していた。僕はその大物を狙い、細めた目を四方八方に配っていた。人混みをすり抜けながら、僕は誰にも気づかれぬよう、影から影へと身を潜めていく術を心得ていた。そんなとき、人込みの隙間を、一瞬、妖しく光る美しい宝石が通り過ぎた。あれを逃せば次はない。僕は吸い寄せられるようにその男の影を追った。
男が肉屋の店頭で足を止めた瞬間、僕は滑り込むように指先を男の鞄へと滑らせた。ずっしりと重い感触が掌に触れる。それを掴み取るやいなや、僕は脱兎のごとく闇の中へ駆け出した。石畳を踏む自分の足音だけが、やけに大きく耳の奥で反響していた。背後から追ってくる気配はない。路地の角を三つほど曲がり、人気のない裏通りに入り込んでから、僕はようやく足を止めた。暗がりで息を整えながら、ガッツポーズを作った。心臓がまだ早鐘のように打ち続けていて、その鼓動の音すらどこか誇らしく感じられた。
月光の下で盗み出した石を確かめる。吸い込まれそうなほど美しく、そしてどこか禍々しい光を放っていた。石の表面には、目を凝らさなければ見えないほど微細な紋様が刻まれていて、それが月光を受けるたびにわずかに脈打つように輝いた。すぐにでも金に換えるため、僕は路地裏にある鑑定士の店を叩いた。軒先に吊るされたランプが、油の焼ける匂いを立てながら揺れていた。そこは白髪の老夫婦が静かに営む古物商だった。棚には古びた壺や色褪せた絵画、埃を被った書物が所狭しと並んでいた。
「これを見てほしい」
カウンターに石を差し出した瞬間、老夫婦の顔から血の気が引いた。カウンターの上のランプの灯りが、彼らの震える指先の影を長く伸ばしていた。老婆の口から漏れた小さな悲鳴が、静まり返った店内に不気味に響いた。
「これは……あいつらの所有物じゃないか! 頼む、何も見ていない! とっとと出ていってくれ!」
半ば突き飛ばされるように店を追い出された。背中に冷や汗が流れる。閉められた扉の向こうから、鍵を何重にもかける音が聞こえてきた。僕は取ってはならない悪魔の持ち物を盗んでしまったのだと、初めて本能的な恐怖を覚えた。夜風が急に冷たく感じられ、来た道を振り返るたびに、闇の中に何かが潜んでいるような気がしてならなかった。
その夜。薄暗い隠れ家で眠りについた僕を揺り動かしたのは、頑丈なドアが爆音とともに破壊される音だった。木片が飛び散る音と、埃が舞い上がる匂いを最後に覚えている。覚えているのはそこまでだ。暗闇の中から放たれた高位の睡眠魔法が、僕の意識を塗り潰した。
目を覚ましたとき、僕の全身は太い鉄の鎖で頑丈に拘束されていた。冷たい鎖が肌に食い込み、身動きするたびに軋んだ音を立てた。周囲を見渡す余裕もないまま、目の前の光景に意識が奪われた。石造りの壁は湿り気を帯びて黒ずみ、天井から滴る水滴が規則的な音を立てて床の水溜まりに落ちていた。
「君が、あの石を盗んだのだね」
僕を見下ろすのは、黒い装束に身を包んだ大柄な男だった。周りを取り囲む男たちも同じ漆黯の衣装を纏っている。石造りの部屋には、松明の焦げた匂いと、湿った土の匂いが充満していた。そして——僕の目の前には、同じように捕らえられ、腕を縛られた母と妹の姿があった。ふたりの瞳からは、すでに生の色が失われていた。妹の小さな体が震えているのが、鎖の擦れる音で分かった。
「さあ、始めよう。愚かな羽虫が犯した大罪の償いを」
男の淡々とした合図とともに、小柄な男が巨大な肉切り斧を振り上げ、母へと近づいていく。斧の刃が松明の光を受けて鈍く光るのを、僕は瞬きすら忘れて見つめていた。
「やめてくれ! 母さんは関係ない! 僕が、僕がやったんだ!」
僕の叫びは、虚空を割るだけだった。男の手元が下がり、重厚な刃が母の首筋を容赦なく断ち切った。鮮血が床を染める。生暖かい血の匂いが、一瞬で部屋中を満たした。母の体が崩れ落ちる音、その重みが石床に伝わる振動までもが、僕の全身の感覚に焼き付いた。
我が家はかつて、クズのような父の手によって破滅させられた。財産のすべてを奪われ、暴力を振るわれ、それでも母は必死に血を吐く思いで僕たちを育ててくれたのだ。その母が、僕の浅知恵のせいで、目の前で首を撥ねられた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
黒衣の男たちへの命乞いなのか、母への贖罪なのかも分からぬまま、僕は額を床に擦り付け、血を吐くように謝罪を繰り返した。床の冷たさと、鼻先に触れる血だまりの生温さが、奇妙に入り混じっていた。血の匂いが喉の奥まで入り込んでくるようで、吐き気がこみ上げたが、それすらも許されない状況だった。
「次は、妹だ」
「頼む、お願いだ、僕を殺してくれ! 妹だけは……!」
僕の懇願は、彼らにとって娯楽のBGMに過ぎなかった。妹の細い身体は壊れるまで痛めつけられ、最期は首を絞められて苦悶のうちに息絶えた。妹の小さな指先が、最後にほんのわずか、僕の方へ伸びかけたのを見た気がした。僕が無力だったからだ。僕が弱かったからだ。
この世界では、誰もが生まれながらに一つの超常能力『ギフト』を授かる。怪力、魔法、回復——様々な恩恵が存在する中で、僕はごく稀に生まれる完全な「無能力者」だった。僕が価値のないゴミ屑だったから、家族は無残に殺されたのだ。
それからの日々は、終わりのない地獄だった。幾度となく皮膚を削がれ、骨を砕かれる拷問。爪を剥がされるたびに立つ、鉄と脂の混じった独特の臭い。瀕死に陥るたびにヒーラーの魔法で治癒され、生き返った皮膚がひりひりと痺れる感覚とともに、再び苦痛のどん底に叩き落とされる。石壁に反響する自分自身の悲鳴すら、次第に他人の声のように聞こえてくるようになった。肉体が崩壊と再生を繰り返す中で、僕の頭を満たしていたのは家族の断末魔だけだった。時間の感覚は完全に失われ、松明の灯りが唯一の昼夜の指標だった。
「早く殺してくれ……頼むから殺してくれ……」
「何を言っている。お楽しみはこれからじゃないか」
そんな会話を何ヶ月も繰り返した、ある日のことだった。再び爪を剥がそうと近づいてきた拷問官に対し、僕は残された最後の力で抵抗した。彼の太い手首に、思い切り歯を立てたのだ。肉を食いちぎる感触とともに、生温かく鉄臭い血が口内いっぱいに広がる。
「痛えっ! このガキが!!」
重い拳が僕の側頭部を撃ち抜き、視界が真っ暗に染まった——はずだった。だが、その意識の海底で僕が見たのは、たった今噛み千切った拷問官の、くだらない人生の記憶のすべてだった。酒場での安っぽい笑い、賭博で負けて悪態をつく姿、そんな断片的な映像が奔流のように僕の中に流れ込んできた。
目を覚ますと、部屋の中に人の気配はなかった。交代の休憩にでも行ったのだろう。牢の隙間から差し込む月光が、床の血だまりを青白く照らしていた。僕は、脳裏に刻み込まれた拷問官の歪んだ記憶に意識を集中させた。肉体の芯から、ぞわりと不気味な熱量が湧き上がる。次の瞬間、僕の腕や足の筋繊維がみるみる肥大化し、爆発的な腕力が全身に充満していくのを感じた。皮膚の下で筋肉が軋むような、そんな異様な感覚が続いた。今なら、この重厚な鉄鎖すら引き千切れる——そう直感し、腕に力を込めた。
ガチァンッ!
重厚な鎖が、まるで腐った縄のように弾け飛んだ。その瞬間、僕は己の真の『ギフト』を理解した。僕は死者の血肉を喰らうことで、その者の持つ能力と記憶、存在そのものを模倣・強奪できるのだ。
「何の音だ!?」
廊下から足音が近づいてくる。見張りが入ってくる直前、僕は身体を収縮させ、元の無力な少年の姿へと戻った。息を整え、鎖が千切れた箇所を影の中に隠しながら、僕は精一杯の弱々しい表情を作った。
「実は僕……金属を分解する腐食のギフトに覚醒したんです。この鎖を少しずつ劣化させて壊しました」
見張りの男は、自身の知識の範囲内で納得したような顔をした。思考の隙を与えず、僕は滑らかに言葉を重ねる。
「よければ……あなたの持つその美しい長剣で、僕の力を試してみませんか?」
呑気な男はあっさりと乗ってきた。檻の外から、無造作に剣を投げ入れてくる。剣は僕の足元に転がった。金属が石畳を打つ、鈍い音が牢内に響いた。
「ごめんなさい……足の骨が折られていて拾えないんです。もう少しだけ、こちらへ寄せてくれませんか?」
男は腰の鍵で檻を開け、無警戒に足を踏み入れた。剣を引き寄せようと彼がかがんだその瞬間を、僕は待っていた。心臓の鼓動が、自分でも驚くほど落ち着いていたのを覚えている。
身体を一瞬で膨張させ、極限の腕力で男の頭部と四肢を力任せに引き千切った。生温かい血の雨が降り注ぐ。圧倒的な暴力を振るう快感が、脳髄を痺れさせた。飛び散った肉片が石壁に張り付き、その光景を僕はどこか他人事のように眺めていた。
異変に気づいた残りの見張りが雪崩れ込んできた。血の海と化した牢獄を見て、彼らは絶叫した。
「どういうことだ!? 何が起きた!?」
「急に俺の剣が宙に浮いて……男が自分自身を切り刻み始めたんです!」
見張りの男の姿へと変身した僕が叫ぶと、リーダーらしき男が激昂した。
「あのガキ、隠れて『物体浮遊』のギフトを持っていたのか! なぜ自害させた、貴様!」
リーダーが僕の胸ぐらを掴み上げる。僕は怯えた振りをしながら呟いた。
「は、早く主様の元へこの死体を運びましょう……!」
「主」が何者かは知らなかったが、この組織の奥底に漂う不穏な気配は感じ取れていた。僕は巧みに男たちを誘導し、狭い地下牢の奥へと死体を回収させに入らせた。狭い通路を進むにつれ、松明の灯りが揺れ、壁に映る男たちの影が伸び縮みした。
全員が牢の最奥に入り切った瞬間、最後尾にいた僕は流れるように鉄格子を閉め、鍵を回した。錠の落ちる音が、静寂の中で異様に大きく響いた。
「……おい、何の真似だ!?」
一斉に振り返る男たち。僕は見張りの皮をベリベリと剥がすように解除し、素顔を晒して微笑んだ。
「君たちは、本当に救いようのない馬鹿だ。今から全員、死んでもらう」
先ほど奪った記憶の中から覚えた高位の火炎魔法を、狭い檻の中へ解き放った。橙色の炎が石壁を舐め、瞬く間に牢内を満たしていく。炎が渦を巻きながら天井まで届き、噎せ返るような熱気が僕の頬を焙った。燃え盛る業火の中、ヒーラーの男だけが狂ったように神へ祈りを捧げ、焼き尽くされる皮膚を自己再生させながら苦痛に耐え続けていた。皮膚が焼け焦げる匂いと、再生する肉の匂いが交互に立ち上り、僕の鼻を刺した。
全身を黒く焦がしながら、リーダーの男が絶叫する。
「全ては……全ては『あのお方』の悲願のために……!」
あのお方、とは誰のことか。どうでもよかった。
絶叫と肉の焦げる匂いを背に、僕は地下牢を後にした。地上へと続く階段を上るたび、背後で響く断末魔の声が少しずつ遠ざかっていった。それから、子供を欲しがっていた裕福な狂気の未亡人に引き取られ、新しい身分を手に入れた。
あの一件以来、僕の中の倫理観は完全に破綻していた。大切な家族が無残に殺される様を見てから、僕は悟ったのだ。——人間にとって最大の救済とは、愛する者の手によって美しく殺してあげることなのだ、と。
未亡人に引き取られてからは、しばらく人殺しから遠ざかっていた日々があった。屋敷での生活は静かで、絹のシーツと磨き上げられた床が、かつての貧しさとは対極にある世界だった。だが「模倣」という力への渇きは、日を追うごとに膨らんでいった。この力の正体を、僕はもっと知りたかった。なぜ僕だけがこんな呪いを授かったのか。夜な夜な自室の窓から屋敷の庭を見下ろしながら、僕はその渇望を持て余していた。
その答えの断片を見つけたのは、屋敷を抜け出し彷徨っていたある夜、荒野の果てに立つ、朽ち果てた塔の中だった。
乾いた空気が充満している。風化した石の階段を昇るたび、足音が虚しく反響し、壁面に刻まれた奇妙な紋様が目についた。人の輪郭を模したような、幾重にも重なる影の絵。まるで、誰かが自分自身を何百通りにも描き直したかのような、執拗な反復だった。階段の踊り場ごとに置かれた燭台には、もう何十年も灯されていないだろう蝋の残骸がこびりついていた。塔の最上階。埃を被った窓から差し込む月光の中、そこに、僕は「彼」を見つけた。
椅子に腰掛けたまま、完全に干からびた一体の骸だった。だが、僕はその骸から目を離せなかった。乾いた皮膚は羊皮紙のように張り、その下から浮き出た骨格には、明らかに人間ではない者の骨が幾重にも継ぎ接ぎされていた。翼の名残と思しき骨、鱗に覆われた指の骨、獣の顎骨——数えきれないほどの異なる存在の断片が、一つの身体に無理やり縫い合わされていた。窓から差し込む月光が骸の輪郭をなぞるように照らし、その異形の姿を余計に際立たせていた。
僕と、同じだ。まだ数人しか喰らっていない僕の中に眠る力と、同じ気配がした。
「模倣」という呪いを、僕よりも遥かに長く、遥かに深く生きた者の成れの果て。
骸の傍らには、黒革の手記が落ちていた。乾いた紙をめくると、震えるような筆致で綴られた文字が目に飛び込んできた。ページを繰るたびに、埃と黴の匂いが微かに舞った。インクは所々かすれ、文字は後半になるほど乱れていった。
『幾千の魂を喰らった。幾千の世界を渡った。だが、喰らえば喰らうほど、私の中で「私」だけが薄れていく』
『今、鏡を見ても、そこに映るのが誰なのか分からない。私の顔なのか、喰らった誰かの顔なのか』
『渇きは止まらない。もっと強い者を、もっと美しい魂を——そう思っているのは、本当に私自身の意志なのか、それとも喰らった誰かの渇望が、私の声を借りて囁いているだけなのか』
最後のページは、文字にすらなっていなかった。ただ、同じ一文が、狂ったように何十回も書き殴られているだけだった。
『私は誰だ 私は誰だ 私は誰だ 私は誰だ——』
僕は手記を閉じた。指先が、微かに震えていた。
これが、僕がこれから向かう先なのだろうか。喰らい続けた果てに待つのは、強さでも復讐の完遂でもなく、ただ「自分」という輪郭を失い、幾千の他人の欠片に埋もれて干からびていくことなのだろうか。
「……お前は、どこまで喰らったんだ」
答える者はいない。骸は椅子の上で、永遠の沈黙を守り続けているだけだった。風が塔の隙間から吹き込み、乾いた骨の指がかすかに揺れたように見えた。
僕は骸に近づき、その干からびた指先に触れた。ひやりとした、紙のように軽い感触だった。喰らおうと思えば、喰らえたかもしれない。だが、僕の手はそこで止まった。初めて、僕は「喰らう」という行為そのものに、抵抗を感じていた。
——この男の記憶を取り込めば、僕はきっと、彼がなぜそこまで壊れたのかを知ることができる。だがそれは同時に、彼の狂気の続きを、僕自身の中で引き受けるということでもある。
僕は骸から手を離した。
塔を出る前、僕は最後にもう一度、彼が壁に刻んだ無数の自画像を見上げた。一枚目は、確かに人間の顔をしていた。だが描き重ねられるごとに、輪郭は崩れ、目鼻立ちは滲み、最後の一枚には、もはや何の形も残っていなかった。ただの、黒い染みだった。
僕はその染みを、長い間見つめていた。
「僕も、いずれああなるのか」
風だけが答え、乾いた音を立てて塔の中を吹き抜けていった。
だが、この夜見た黒い染みだけは、それからどれだけの顔を被り、どれだけの名を騙っても、僕の奥底から消えることはなかった。
『私は誰だ』
その問いに、僕はまだ、一度も答えを出せずにいる。
僕の思考は姫と会った日から更なる加速がかかっていく。狂おしいほどに姫の殺害へと傾倒していくのだ。彼女の気高い容姿だけではない。彼女だけが、僕の壊れきった精神の深淵を、あの日笑って受け止めてくれたのだから。彼女しかいない。彼女しか、僕の手で殺す価値のある存在はいない。僕はかつて彼女と出会った草原の上で、光に照らされる手を強く握り締めた。草の匂いと、あの日と同じ風の温度だけが、記憶と現実を繋ぐ細い糸だった。
第三章 命の重なり
The Overlap of Lives
それからの僕は、城の周囲を徘徊する幽鬼となった。夜露に濡れた城壁の下で、幾晩も息を潜めた。冷たい石壁に背を預け、月明かりだけを頼りに城の造りを目に焼き付ける夜が続いた。時折巡回の兵士の足音が近づくたびに、僕は物陰に身を沈め、息を殺した。綿密な偵察。どうすればあの深遠な城塞に侵入し、姫の首を絞められるか。得られた最大の障壁は一つ——騎士団長アルバドフ。常に姫の背後に控え、巨大な大剣を背負った男。その鋭利な眼光と威圧感だけで、彼が並の人間ではないことが理解できた。あの男を越えない限り、姫のもとへは辿り着けない。
僕の惨劇が開始した。騎士団長を上回る力を得るため、街の闇に紛れて狩りを始めた。
静まり返った深夜の路地裏。湿った石畳に染み込んだ生ゴミの匂いと、遠くの酒場から漏れる灯りだけが、この街の唯一の生気だった。軒先に吊るされた壊れかけのランタンが、風に揺れてぎいと軋んだ音を立てる。酒に酔いしれた歩行者は、絶好の獲物だった。
「ごめんなさい、さっき銀貨を落としましたよ?」
声をかけ、言葉巧みに女を暗がりへ誘い込む。狭い路地の奥へと足を進めるたびに、女の香水の匂いと酒の匂いが混じり合って漂った。強化された腕力で頭骨を砕き、飛び散った血を舐め取る。——魔物を操るギフト。くだらない、路上パフォーマンスにしかならない力だ。
「……何をしている」
路地の入口から冷ややかな声が聞こえた。見られた。即座に命を奪うべく疾走したが——僕の不意打ちの斬撃は、まるで未来を知っていたかのように完璧な動作でかわされた。何者だ、この男は。
「安心するといい。衛兵に報告するつもりはないよ。ただ、君と『友達』になりたかったんだ」
そう言われ、明かりが強い方に誘われていく。気がつくと、静かな酒場のカウンターに座っていた。木製のテーブルに染み込んだ酒の匂いと、蝋燭の芯が燃える微かな音だけが、その空間を満たしていた。カウンターの奥では、店主が黙々とグラスを磨いていて、他に客の姿は見当たらなかった。
「君と話したかったのは、君の魂から溢れ出す圧倒的な『多層の力』が見えたからだ」
男は、僕が秘匿していた模倣のアビリティを、一目で見抜いていた。
「お前は……何者だ?」
「僕は予言者。この世界でこれから起こる事象を、寸分違わず見通すことができる」
そんな神のごとき『ギフト』が存在するのか。
「僕はね、君にもっとこの世界を憎んでほしいんだ。君も気づいているだろう? 世界は根本から腐敗している。多くの人間は生への執着を演じながら、その実、生きるという苦痛から逃れる『死』を心から渇望している。人間の本当の望みは、どちらだと思う?」
僕は迷わず答えた。
「全員、死にさえすれば望みは叶うんじゃないか」
予言者の男は、腹を抱えて歓喜の声を上げた。蝋燭の炎が彼の哄笑に合わせて揺れ、その影が壁で歪んだ形に伸び縮みした。
「素晴らしい! 君とはもう、こんな穏やかな形では会えないだろう。どうか……変わらない君のままでいておくれ」
男は歓喜の声を上げ、酒をいっぱいに流し込んだ。謎めいた言葉を残して消えた。カウンターに残された空のグラスだけが、彼がそこにいた証だった。その一言一言が、僕の殺意をより研ぎ澄ませていった。なぜ僕がそいつを殺しその最強と呼べるギフトを取らなかったのかは分からない。そんな思考に至る事が許可されていないかのように封じられた。
それからも僕は殺戮を重ね、無数の命と能力を自分の中に溜め込んでいった。夜ごとに闇へ紛れ、時には市場の喧騒の中で、時には人気のない城下の外れで、僕は淡々と獲物を選び続けた。これだけの魂を融合させれば、騎士団長とも互角に渡り合えるはずだった。
ある日、道端でひとり膝を抱えて泣いている幼い男の子を見かけた。夕暮れの薄暗い路地で、彼はぼろぼろの服を纏い、小さな肩を震わせていた。他人の苦痛に何も感じなくなっていたはずの僕の目から、突然ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。——理由を知って、背筋が凍りついた。記憶の奔流。その少年と過ごした温かな日常が、脳裏に再生される。僕が先週殺した、しがない父親の記憶だ。僕の『ギフト』の代償。それは、喰らった人間の「感情」や「愛憎」までもが、僕の魂に永久に融け合ってしまうことだった。模倣とは、単なる能力のコピーではない。他者の人生そのものを自分の魂に継ぎ接ぎする、おぞましい呪いだったのだ。
だが、その呪いは僕に決定的なアドバンテージを与えた。喰らった兵士たちの記憶から、騎士団長アルバドフの『ギフト』の全貌を完璧に理解したのだ。彼のギフトは『絶対斬断』。一度放たれた大剣の軌道は概念となり、対象を真二つに切断するまで空間を追跡し続ける。直撃を受ければ即死。勝算は五分五分。だが、逃げる選択肢など最初から存在しなかった。
街ではすでに「姿なき模倣の殺人鬼」の噂で持ちきりである。しかし、どうしてだろう、僕が殺した数とその知らせは正確ではなかった。
街の中では「模倣の殺人鬼」——その名称は、行く先々の酒場、路地裏、瓦礫の陰。誰もが怯えた声で、あるいは熱に浮かされたような憧れの声で、囁やかれていた。
滑稽だと思った。名前などただの記号だ。僕自身、とうに名乗ることすら忘れかけていたというのに。
そこは空気が冷やされた鉱山だった。地下水路特有の、湿った石と鉄の匂いが鼻をつく。水滴が天井から等間隔に落ちる音が、暗闇の中でやけに大きく反響していた。僕は人の気配がしない場所を探し回っていた。地下水路に潜み殺戮をしていた僕の前に、返り血で顔を染めた若い男が立ちはだかる。手には錆びたナイフ。目には、どこか薄っぺらい、模造品めいた光が宿っていた。
「ようやく会えた」
男は震える声で笑った。
「僕は……いや、俺は、あんたの後継者だ。この街で三十七人殺した。あんたに認められるために」
三十七人。数字を誇るその安っぽさに、僕は何も感じなかった。
「君は、僕の何を知っている」
男は一瞬困ったような表情をする。
すると突然返り血に濡れたナイフを自分の腕に突き立て、傷口をこじ開けて見せた。 「見ろ、これが俺の覚悟だ! 俺にもきっと『ギフト』が目覚める。あんたのように、人を模倣する才能が!」
僕はしばらく、その痛々しい傷を眺めていた。血が滴り落ち、地下水路の澱んだ水に赤い筋を描いていく。水面に広がる赤い波紋が、松明の乏しい灯りを受けて鈍く光った。
「……喰ってみるといい」
男は目を見開いた。僕は足元に転がっていた死体——彼が三十七人目に殺した、名も知らぬ誰かの骸を顎で示した。
「僕の力は血肉を喰らうことが条件だ」
男は震える手でその肉に喰らいついた。生温かい血が顎を伝う。長い沈黙。彼は目を閉じ、何かが流れ込んでくるのを待つように、全身を強張らせていた。
何も起きなかった。
「な……なんで……」
「君にギフトなんてものはない。ただの人殺しだ」
「嘘だ! 俺はあんたと同じように——」
「同じではない」
僕は初めて、声に僅かな苛立ちを滲ませたことに自分で驚いた。
「この力を得たのも、僕が選んだからじゃない。全部、勝手に僕の上に降ってきたものだ。君は違う。君は自分で選んで、ナイフを研いで、憧れという名の言い訳を胸に人を殺した。それは、僕が背負ってきたものとは似ても似つかない、ただの——」
言葉を探して、僕は自分でも意外な単語に行き着いた。
「——ただの、贅沢な暇つぶしだ」
男の顔から、血の気が引いていった。その表情に、僕はふと既視感を覚えた。かつて僕自身が、あの黒衣の男たちに「愚かな羽虫」と呼ばれ、床に額を擦り付けて謝罪を繰り返した夜の顔。あの弱さを、この男はまるで理解していない。理解しないまま、憧れという名の甘い蜜だけを啜っている。
「……じゃあ俺は、何のために殺してきたんだ」
「知らない。だが一つだけ教えてやる」
僕は男の胸倉を掴み、地下水路の壁に押し付けた。冷たく湿った石の感触が、男の背中を伝って震えていた。ナイフを構える力さえ、彼にはもう残っていなかった。
「本物の絶望は、真似できない。君がこれから何人殺そうと、君の中には何も流れ込んでこない。空っぽのまま、ただ人殺しの記録だけが積み上がっていく。それは地獄でもなければ、神への道でもない。ただの——空虚だ」
男は泣いていた。子供のように、声を上げて。三十七人殺した手で顔を覆い、嗚咽を漏らす彼を見下ろしながら、僕は妙な感覚に襲われていた。地下水路に反響する彼の泣き声が、いつまでも止まなかった。
哀れみでも、軽蔑でもない。それは——かつて自分が持っていたはずの何かを、鏡越しに見せつけられているような、ひどく落ち着かない感覚だった。
「殺してくれ」
男が顔を上げて言った。
「これ以上、空っぽのまま生きていたくない」
その懇願は、かつて僕自身が黒衣の男たちに向けた叫びと、あまりにも似ていた。
僕はナイフを彼の首に当てた。刃の冷たさが、皮膚を通して男の脈動を伝えてくる。だが、刃を引くことができなかった。
「……君を殺しても、僕には何も流れ込まない。君の言う通りだ、空っぽのままだ」
僕は初めて、殺さないという選択をした。
「生きて、憶えていろ。お前が殺した三十七人の顔を、名前を知らないまま一生背負って生きろ。それが——お前にできる、唯一の贖罪だ」
その声は壁に跳ね返り響く。男を地下水路に残し、僕は歩き出した。振り返らなかった。だが胸の奥で、小さな棘のような違和感がずっと疼いていた。
僕は誰かにとっての「安っぽい憧れ」に成り下がる日が来たのか。それとも——僕自身が、とうの昔にその安っぽさの中に堕ちていたのだろうか。
答えの出ないまま、僕は歩き出した。地下水路を抜け、地上に出ると、夜明け前の薄青い空が広がっていた。冷たい外気が肺を満たし、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
力を蓄えた僕は決戦の日を迎えた。正面から城塞の決戦へと足を踏み入れる。石造りの回廊は静まり返り、僕の足音だけが高い天井に反響していた。壁に並ぶ燭台の炎が、僕が通り過ぎるたびにわずかに揺らめいた。
「アルバドフ、今日はもう下がりなさい。顔色が悪いぞ」
団長の最愛の弟の姿と声を完璧に模倣し、僕は執務室の前に現れた。扉の隙間から漏れる灯りが、廊下の石畳にうっすらとした光の帯を作っていた。
巨躯の騎士団長がゆっくりと振り返る。燭台の灯りが、彼の彫りの深い顔に濃い陰影を刻んでいた。
「……お前は誰だ」
「な……なぜ分かった?」
「弟は一度たりとも、私を名前で呼んだことはない。『兄上』としか呼ばん」
初歩的な失策。だが、もはや引き返す必要はなかった。
「貴様が……模倣の殺人鬼か」
「そうだよ。僕は君の弟を殺した。」
アルバドフの顔に、怒りと絶望が入り混じった深い皺が刻まれる。彼は静かに背中の大剣を引き抜いた。鋼が鞘を擦る音が、部屋の空気を切り裂くように響いた。机の上に置かれていた書類の束が、剣を抜いた風圧でわずかに舞い上がった。
僕は知っていた。アルバドフの『絶対斬断』には致命的な二つの弱点がある。一つは、網膜で対象の「個体識別」を完了しない限り発動できないという制約だ。剣が振り上げられた瞬間、僕は空間魔法で数千の鏡の欠片を室内に撒き散らした。ガラスが砕け散る音が無数に重なり、燭台の光を乱反射させる。無限に屈折する光の中、彼の視界には無数の「僕」が映し出される。初撃の判定を完全に潰した。部屋中がまるで万華鏡の内側のように、光と影の断片で埋め尽くされていった。
ここからが、真の心理戦だった。僕は穏やかな声で口を開く。
「動きを止めろ、アルバドフ。僕を斬れば、お前は取り返しのつかない後悔をすることになる」
「ハッ、命乞いか?」
「僕はこの城の地下水脈に、街全体を粉砕する大量の爆薬を仕掛けた。さらに『今宵、騎士団長アルバドフが姫奪還のために城と街を火の海に変える』という声明文を、街中の掲示板に貼り出しておいた。今ここで僕を殺せば、爆薬が起動し、お前は永遠に国を滅ぼした逆賊として歴史に刻まれる」
弱点の二つ目。アルバドフと姫は、主従を超えた禁断の愛で結ばれていた。騎士としての名誉と姫への忠誠。それを踏みにじられることが、彼にとって最大の恐怖だった。
「ブラフだ……そんなハッタリに騙されるか!」
「本当に爆薬があるか、試してみるかい?」
僕は予め設置した爆弾を使い、城に隣接する兵士の詰所を一棟、跡形もなく爆破してみせた。凄まじい振動が床を伝い、続いて悲鳴が部屋まで届く。焦げた木材と硝煙の匂いが、開けた窓から流れ込んできた。窓の外に見える炎の照り返しが、部屋の壁を赤く染めていた。
「これで国民はお前を疑う。今僕を殺しても、お前と姫の潔白を証明する術は永遠に失われる。どちらにせよ生き地獄だ。……だから提案だ。今、僕の目の前でその大剣で己の腹を貫け。そうすれば爆薬の起爆は止めてやる。これが、最期まで姫を愛し抜いたお前への救済だ」
彼の忠誠心と愛は、僕の計算通りあまりにも気高く、そして脆弱だった。アルバドフは何も言わず、ただ静かに姫の部屋の方向を一度だけ見つめると、躊躇なく己の腹部へ大剣を突き立てた。鮮血が床を赤く染めていく。生温かい血の匂いが、鏡の欠片の間に満ちていった。血だまりが床の鏡片に反射し、部屋の中に無数の赤い光を散らしていた。
崩れ落ちる彼の耳元に歩み寄り、僕は優しく囁いた。
「全部嘘だよ。告発状も爆薬も、あの詰所の一つしか仕掛けていない。城の中に入るのは想像以上に難しいからね……お前の皮がなければ」
死にゆくアルバドフの瞳に、激しい憎悪と悲痛な涙が溢れ出す。
——ああ、なんて美しいのだろう。愛する者のために自らを犠牲にするという行為は、これほどまでに無価値で、だからこそ美しい。
僕は絶命していく彼の頸脈に喰らいつき、血を飲み干した。鉄と塩の味が口の中に広がり、それが彼の最後の記憶と共に僕の中へ流れ込んでいく。風化のアビリティで彼の巨躯を灰に変え、僕は「騎士団長アルバドフ」の皮膚と存在を完璧に纏った。灰となった彼の残骸が、床の血だまりの上に静かに積もっていった。
重厚な装飾が施された大扉を開けると、そこには洗練された豪奢な私室が広がっていた。蜂蜜色の蝋燭の灯りが、絹のカーテンを淡く照らしていた。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、壁には見事な絵画が飾られていた。
「お帰りなさいませ、アルバドフ様」
控えていたメイドが恭しく頭を下げる。
「姫様が、あなたをお呼びでした」
「そうか。すぐに向かう」
部屋の奥、シルクのカーテンが揺れる天蓋付きのベッドに、あの日の銀髪の少女が佇んでいた。香が焚かれているのか、甘く重い花の香りが漂っていた。蝋燭の炎が彼女の輪郭を淡く照らし出し、その美しさをより際立たせていた。
「お勤めご苦労様、アルバドフ」
「ありがたき幸せにございます、姫様」
「近くへおいで」
姫がゆっくりと衣類を滑り落としていく。絹が肌を滑る微かな音が、静寂の中で妙に大きく聞こえた。僕もまた、アルバドフとしてその柔肌に触れるべく手を伸ばした。彼女を押し倒したその瞬間、姫は僕の耳元で可憐に微笑み、こう囁いた。
「いつまで……そんな無骨な男の皮を被っているの? レオン」
心臓が跳ね上がった。全身の毛穴が開くような衝撃。破られた。完璧だったはずの模倣が。
「……なぜ、分かった?」
僕が素顔に戻ると、姫は愛おしそうに僕の頬を撫でた。指先が思いのほか冷たかった。
「団長様とあなたの目は決定的に違うわ。その瞳に宿る色がね。あなたの目には……ドロドロとした狂おしい愛が、今にも溢れ出しそうに渦巻いているもの」
模倣の限界を、僕はそこで思い知らされた。肉体や記憶を奪えても、魂が醸し出す「色」だけは偽れないのだと。
「ねえレオン……私を殺しに来てくれたのでしょう? 私を殺して」
言葉を失った。殺そうとしていた対象が、まるで歓喜に震えながら死を求めているのだから。
「私はね、ずっと昔からあなたに恋をしていたの。だから、あなたを私と同じ不快な死の思想に染め上げるために、裏から色々と手を回させてもらったのよ」
脳内で、全てのジグソーパズルが狂暴な音を立てて噛み合わさった。あの日、僕の家族を殺させた黒衣の男たち。彼らを動かしていた糸の引き手は、目の前にいるこの幼い姫君だったのだ。
一瞬、苛烈な怒りが胸を焼いた。しかし次の瞬間には、その怒りすらも愛おしい快楽へと変わっていた。僕はとっくに、彼女が用意した狂気のシナリオに染まりきっていたのだから。言い換えれば僕の思想こそ彼女の思想に染まっていた。
「愛する人は、自分の手で美しく殺してあげるのが一番の愛よね、レオン?」
「ああ……その通りだ」
「でもその前に、ひとつだけ願いを聞いて」
「なんだい?」
「この不快な城を、跡形もなく壊してほしいの。私、ここが死ぬほど大嫌いだったのよ」
それからの日々は、狂気だった。僕はアルバドフとして騎士団を内部から崩壊させ、姫は内通者として防衛線を無力化した。城の各所に潜む見張りを一人ずつ排除し、警備の穴を作り出していく作業は、まるで精緻な儀式のようだった。最後の日、僕たちは城の柱という柱に火を放った。乾いた木材が爆ぜる音と、立ち上る煤の匂いが夜空を満たしていく。炎は瞬く間に城全体を包み込み、赤々とした光が夜空を焦がした。
「大好きだよ、レオン」
燃え上がる炎が夜空を赤く染める中、僕たちは強く抱き合った。彼女の体温は驚くほど低く、まるで炎の熱すら彼女には届いていないようだった。周囲では崩れ落ちる石材の音と、逃げ惑う人々の悲鳴が入り混じっていた。そして僕は、彼女の華奢な首に両手をかけ、徐々に力を込めた。彼女の瞳から生の色が消え去り、舌を吐き出して絶命するまで、僕はその美しい死顔を見つめ続けた。
彼女の肉体を喰らい、能力を奪おうとした時——不可解なことが起きた。僕の中に、彼女の『ギフト』は何一つ流入してこなかったのだ。無能力者だったのか、それとも拒まれたのか。疑問は残りつつも、僕は満足感の中に浸っていた。炎に包まれる城を背に、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
姫を殺して以来、僕は生きる目的を失った脱け殻となった。手当たり次第に飯を喰い、泥のように眠る。ただそれだけの虚無の日々。日が昇り、また沈む。その繰り返しの中で、僕は自分が何のために息をしているのかすら分からなくなっていた。
そんなある日、酒場の片隅で流れた噂話が、僕の死んでいた心を激しく揺り動かした。
「おい、聞いたか? 西の丘に『天使』が降臨したって話だ!」
「ハッ、おとぎ話か? 天使なんて存在するわけねえだろ」
「本当なんだよ! 俺が魔物に襲われた時、眩い翼を持った天使が舞い降りて、命を救ってくれたんだ!」
天使——神の使者。その存在は、どれほど美しく、どれほど気高いのだろうか。それをこの手で穢し、殺し、奪い取ることができたなら、どれほどの快楽が得られるだろう。姫を殺して以来の、狂おしい高揚が身体を駆け巡った。
目撃者の男から記憶を読み取り、正確な場所を特定した。夕暮れの丘に到着すると、僕は自ら猛毒をあおぎ、血を吐きながら大声で叫び続けた。喉を焼く毒の苦みと、口の中に広がる血の味が混じり合った。丘一面に咲く名も知らぬ白い花が、夕陽を受けて淡く色づいていた。
「ああ……神様! 私には家に残してきた幼い家族がいるのです! こんなところで死ぬわけにはいかない……誰か救ってください!」
弱者の演技。惨めに泥を舐め、助けを求める哀れな人間。何度も叫び続け、意識が遠のきかけたその時だった。
上空の雲が十字に割れ、神聖な光芒が降り注いだ。丘の草が黄金色に輝き、そこから現れたのは、この世の造形とは思えない美しすぎる翼を広げた存在——天使だった。翼から零れ落ちる光の粒子が、風もないのに周囲にふわりと舞い散った。
「可哀想に……今、助けてあげます」
天使が差し出した手に解毒の光が宿った瞬間。
——ズブリ。
腰に忍ばせていたアルバドフの『絶対斬断』のアビリティを乗せた短剣が、天使の脇腹を深く貫いた。宙を舞う、白銀の眩い血液。それは僕がこれまで見てきたどんな流血よりも、圧倒的に美しかった。夕陽の残光の中で、その白銀の血が花びらのように宙を舞い散っていく光景を、僕はいつまでも見ていたいと思った。
天使という種族の弱点は、弱者の嘘を見抜けぬ無垢な「善性」にある——僕の目論見は完璧に的中した。
天使は地面に叩きつけられ、羽を散らしながら血の海に伏せた。先ほどまでの神聖な威厳は消え去り、ただの無力な獲物へと成り下がっていた。僕はその顔を踏みつけ、問いかけた。
「天使様……僕の姿は、君の目にどう映る?」
天使は吐血しながら、静かに僕を見つめた。
「……悪魔以外の、何者でもありません」
「ハハッ! 簡潔で素晴らしい答えだ! だがそれじゃダメなんだよ。君と僕が『対等』になってしまうじゃないか。僕は神になりたいんだ。君ごときに負けてたまるか」
僕の中に育っていたのは、世界への憎悪を超えた「神への渇望」だった。
天使は最後に、悲しげに呟いた。
「……世界は、あなたが思っているよりも、ずっと優しいものなのです」
「くだらない」
僕はナイフを振り下ろし、天使の首を切り落とした。そして、その白銀の血をむさぼるように飲み干した。
その瞬間、脳髄が破裂するほどの奔流となって情報が流れ込んできた。天使の記憶、そして——何千、何万という「別の次元の世界」の映像。理解した。天使の持つ『ギフト』とは、次元の壁を穿ち、世界を自由に渡り歩く能力だったのだ。
僕の心に、新たなる暗い歓喜が湧き上がった。他の世界へ行ける。つまり——こんな腐りきった世界、いつでも捨てられるということだ。人々が絶望の中で死に絶えていく光景を、もっと見たい。世界は腐敗している。だから僕が、全てを焼き尽くして浄化してやらねばならない。
まずはこの世界を壊す。手当たり次第に人を殺し、また手当たり次第に街を焼いた。焼け落ちる建物の熱風が、遠くにいる僕の頬までも炙っていた。空高く昇る黒煙が幾重にも重なり、太陽の光すら遮るほどだった。
崩れた聖堂の瓦礫の中で、少女はうずくまっていた。血に汚れた白い服。折れた腕を庇うように抱え、途切れ途切れに嗚咽を漏らしている。周囲には、僕が数刻前に焼き払った街の残骸が広がっていた。炭化した木材と、まだくすぶる煙の匂いが漂っていた。崩れた石壁の隙間から、まだ火の粉がぱらぱらと落ち続けていた。
「お願い……誰か……」
僕は足を止めた。演技だと見抜けなかったわけではない。ただ、他人の弱さを見抜くことにすら興味を失いかけていた。
「僕に助けを求めているのか」
「あ……ああ、良かった……人が……」
少女は震える手を僕に差し伸べた。指先が僅かに欠けている。飢えと恐怖に晒され続けた者特有の、骨の浮いた薄い手だった。
「僕は人を助けるような者じゃない」
「知ってる……あなたが、この街を焼いた人でしょう」
少女は涙に濡れた目で僕を見上げた。
「でも、それでもいいの。あなたにしか、頼めることがない」
僕はしゃがみこみ、少女の折れた腕に触れた。骨の軋む感触が、指先に確かに伝わってきた。
「——今よ!!」
少女の声色が、まるで別人のように鋭く変わった。同時に、瓦礫の陰から無数の光の矢が僕の全身を貫いた。焼けた金属の匂いと共に、全身が焼けつくような激痛に刈り取られていく。矢が突き刺さるたびに、肉の焼ける匂いが立ち上った。
「バカな男。人を焼いてきた報いを、自分でも受けてみるといいわ」
少女は――いや、少女の姿をした何者かは、折れていたはずの腕を軽やかに振って埃を払い、僕を見下ろしていた。
「僕を、騙したのか」
「あなたが街の人たちにしてきたことの、真似をしただけよ」
その言葉に、僕は声にならない笑いを漏らした。
「僕を殺しに来た、聖職者か何かか」
「私たちは『残された者』。あなたが焼いた街の、生き残りの集まりよ。あなたを止めるためだけに、何年もかけてこの演技を練習してきた」
光の鎖が僕の四肢を締め上げていく。金属とは違う、燃えるような熱を持つ光の鎖だった。動けない。周囲の瓦礫の陰から、他にも数人の気配がじっとこちらを窺っているのが感じられた。
「なぜ、そこまでする」
「決まってるでしょう。あなたに焼かれた人たちの、誰か一人にでも、償わせるために」
僕は、光の鎖の中で妙に落ち着いていく自分に気づいていた。
「面白い」
僕は拘束された身体の中で、静かに笑った。
「君の演技には——本物の絶望が混じっていた。だから僕は騙された」
「それがどうしたの」
「いや。ただ——」
「僕を騙せるほどの絶望を持つ者が、まだこの世界にいたことが、少しだけ嬉しかっただけだ」
少女の顔が、初めて僅かに歪んだ。
「……あなた、本当に人間なの?」
「さあ、もう分からない」
僕は拘束の力を試すように、静かに肩を動かした。光の鎖に僅かな亀裂が走る。パキ、と小さな音が響いた。少女の表情が凍りついた。
「一つだけ言っておく」
「君の演技は、見事だった。だが本物の弱者は、僕を殺そうとはしない。ただ、生きようとするだけだ。……君は、まだ生きる方を選べたはずだ」
鎖が完全に砕け散った。少女は後ずさり、瓦礫の向こうへ姿を消していった。僕はその背を追わなかった。
追う理由が、もうどこにもなかったから。崩れた瓦礫の隙間から差し込む光が、少女の消えた方角をしばらく淡く照らしていた。
それからも僕は最後の人類にとっての救済を与えた。焼け野原と化した街々を渡り歩きながら、僕は自分の中の何かがすでに空洞になっていることに、うっすらと気づき始めていた。
その作業を終わらせた僕は次元の亀裂を破り、新しい世界へと飛び立った。
——だが、その瞬間だった。次元の狭間で、僕は見えない巨大な力によって強引に捕らえられ、底なしの暗黒へと引きずり落とされた。
目覚めた場所は、赤黒い大地が広がる地獄のような世界だった。空からは血の雨が降り、生温かい雫が肌を打つたびに硫黄に似た臭いが鼻を刺した。遠くには針の山が連なっている。地平線まで続く赤黒い荒野には、生き物の気配すら感じられなかった。囚われたことに気づいた僕は、すぐさま飛行のギフトを使って上空へ逃れようとした。
——しかし、身体がピクリとも動かない。
そこで僕は思い知ることになった。「弱者」の絶対的な無力感を。この世界を守護する異形の魔物たち。その頭領である巨大な角を持つ悪魔が、僕の持つすべての『ギフト』を完全に無効化する領域を展開していたのだ。悪魔の周囲には血の雨がまるで避けるように降り注ぎ、その姿だけが乾いた地面の上に浮かび上がっていた。
「身の程を知れ、矮小な人間よ。お前はここで永遠の罪を償うのだ」
無力な肉体へと戻された僕は、その世界でひたすら拷問を受け続けた。かつて僕が地下牢で受けていたものとは比較にならない、概念的な苦痛。舌を抜かれ、肉を削がれ、魂を切り刻まれる日々。声を出すことすら許されず、ただ苦痛だけが更新されていく。時間の感覚は完全に消え失せ、赤黒い空に浮かぶ月とも太陽ともつかない光源だけが、僅かな昼夜の区別をつけていた。
何度目の拷問だったか、もう数えることすらしなくなっていた。舌を抜かれ、肉を削がれ、魂を切り刻まれる合間、僕は決まって同じ場所に投げ捨てられた。血の雨が染み込んだ、狭い岩の窪みだ。岩肌はいつも生温かい血で湿り、独特の鉄臭さが染み付いていた。針の山を望むその場所には、僕の他にもう一人、囚われた男がいた。
最初は、ただの物言わぬ肉塊だと思っていた。だがある日、傷だらけの唇が微かに動いた。
「……まだ、生きているのか」
声は掠れ、ほとんど息と変わらなかった。それでも、僕がこの地獄で初めて聞いた、拷問官以外の人間の声だった。
「……ああ」
「そうか。なら、いい」
それだけだった。だが翌日も、その翌日も、意識が戻るたびに男は同じ言葉を掛けてきた。血の雨が二人の傷口に沁みるたびに、僕らは声にならない呻きを漏らしながらも、その短い言葉のやり取りだけは絶やさなかった。
「まだ、生きているか」
「ああ」
「なら、いい」
いつからか、僕はその短いやり取りだけを支えに、次の拷問へ引きずられていくようになっていた。名前も、素性も知らない。ただ、隣の窪みに誰かがいるという事実だけが、僕をぎりぎり人間の形に繋ぎ止めていた。窪みの縁に手をかけ、隣を覗き込むたび、男の傷だらけの輪郭がぼんやりと見えた。
「なあ……お前はここに、どれくらいいる」
ある日、力を振り絞って僕は尋ねた。
「数えるのをやめてから、もう長い。だが、な……」
男は血の混じった唾を吐き、それでも微かに笑ったようだった。
「生きてさえいれば、いつか終わる。どんな地獄にも、終わりはある。俺はそれだけを、ずっと信じてきた」
「……信じて、何になる」
「何にもならないさ。だが、信じることをやめたら、俺はとっくに、ただの肉になっていた」
その言葉の意味を、僕はまだ理解できずにいた。だが不思議と、その夜だけは痛みが少し遠くに感じられた。誰かが隣にいる、それだけで。血の雨の音が、いつもより少しだけ静かに聞こえた。遠くの針の山の稜線が、赤黒い空を背景にぼんやりと浮かび上がっていた。
角を持つ悪魔がそれに気づいたのは、いつのことだったか。
「ほう……お前たち、随分と仲良くなったものだな」
低く這うような声が、窪みの上から降ってきた。僕は反射的に身を強張らせた。影が窪みの縁に落ち、それだけで空気が重く冷たくなったように感じられた。
「哀れみを知ってしまった心ほど、壊しやすいものはない」
悪魔は愉しげに嗤い、隣の男を宙へ吊り上げた。抵抗する力など、とうに残されていない。
「や……やめろ……!」
声にならない叫びだけが、喉から漏れた。
「安心しろ。お前には手を出さない。お前が見るべきなのは——これから起こることの、一部始終だ」
男の身体が、ゆっくりと、丁寧に、壊されていく。悪魔は決して急がなかった。まるで、僕という観客のためだけに演じられる、残虐な余興のように。骨が軋む音、肉が引き裂かれる音、その一つ一つが、僕の鼓膜に容赦なく刻み込まれていった。男は最後まで叫び声を上げなかった。ただ一度だけ、僕の方を見て、掠れた声で呟いた。
「……まだ、生きて……」
そこで、言葉は途切れた。
「さあ、どうだ? 人間ふぜいが」
悪魔は僕の顔を掴み、無理やり上を向かせた。冷たく硬い指の感触が、頬に食い込んだ。
「お前の絶望は、まだ足りなかった。痛みには、いずれ慣れる。だが——誰かを想う心だけは、何度でも新しく壊せるのだよ」
その夜、僕の中で何かが静かに扉を閉じた。もう二度と、隣に誰かがいてほしいとは思わなかった。生きているかと問われることも、それに答えることも、二度と望まなかった。ただ、赤黒い空を流れていく血の雨だけを、僕は感情の抜け落ちた目で眺め続けていた。
——それからどれほどの時が流れたのか、僕にはもう分からない。
——そうして、百年が過ぎた。
僕の精神は完全に崩壊し、思考することすら放棄していた。ただ一つ、宇宙を塗り潰すほどの規格外の「憎悪」だけが、僕の魂の核心に残留し続けた。
僕は、ただ静かに生きようとしていた普通の人間だったはずだ。僕をここまで歪ませたのは理不尽な世界そのものだったのに、なぜ僕だけが罪人として罰せられねばならないのか。
『許さない……許さない……許さない……!!』
神を恨み、天使を恨み、運命を恨み——僕の存在のすべてが、純粋な殺意へと昇華された。
百年目の日、異次元の歪みが生じ、僕は元の世界へと吐き出された。帰ってきた世界は前いた様子と全く変わっていなかった。あの場所は時間さえ他の場所とは違っていたのかと気付かされる。僕の目に空から降る何かが映る。白い羽……それは明らかに見覚えがあった。薄々と勘づいていた。僕を地獄送りにした者が天使の残党であることを。自由を取り戻した僕は、暴走する憎悪のままにその世界を再び炎で包み込んだ。逃げ惑う人々、抱き合い最後の言葉を交わす者たち、その光景を見ている僕の顔はまさに悪の権化としか表せない。そんな様子を見送った僕は空間を力任せに引き裂いた。もう二度と、どの世界も僕を繋ぎ止めることはできない。
第四章 生みの世
The world of Birth
僕が降り立ったのは、高度な機械技術によって繁栄を極めた世界だった。高層ビルが立ち並ぶその街は「ニューヨーク」と呼ばれ、排気ガスと金属の匂いが空気に満ちていた。見上げるほどの高さのビル群が、コンクリートと硝子でできた谷を作り出し、その谷間を無数の人々が足早に行き交っていた。異界から現れた僕の姿に群衆が混乱を極めていた。僕が世界を渡る理由はただ一つ——すべての次元を焼き尽くし、無に帰すためだ。
「ファイア! 撃て!!」
この世界の兵器と思われる鉄の弾丸や光線が僕に注がれたが、百年の拷問を耐え抜いた僕の肉体には、蚊が刺したほどの痒みすら与えられなかった。弾丸が皮膚に当たって弾け飛ぶ音だけが、乾いた破裂音として周囲に響いた。
虐殺が始まった。情熱も愉悦もなく、ただ作業のように人間を肉片に変えていく。ビルの窓ガラスが次々と割れ、破片が降り注ぐたびに、街全体が悲鳴の坩堝と化していった。だが、この世界は僕の故郷よりも遥かに広大で、すべてを滅ぼすには膨大な時間を要した。
疲弊した僕は、街の外れにポツンと佇む一軒の無人の家に舞い降りた。人の気配のない静まり返った部屋。埃を被った家具と、閉め切られた空気の匂いが漂っていた。カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光が、部屋の中に長い影を作っていた。なぜか視線が吸い寄せられ、机の上に置かれた束ねられた原稿用紙へと手が伸びた。そこに書かれていた文字を目にした瞬間、僕の時が止まった。
そこには——僕が生まれた日からの全人生、母の死、姫との出会い、天使の殺害、そして百年の拷問に至るまで、僕の思考と行動のすべてが寸分違わず文字として綴られていたのだ。ページをめくる指先が震え、紙の擦れる音だけが静まり返った部屋に響いた。
「……ハハ……ハハハハハ!!」
僕は腹を抱えて大声を上げて笑った。その笑い声が、誰もいない部屋の壁に反響して幾重にも重なった。そういうことか! 全ては仕組まれていた! 僕の苦痛も、狂気も、愛も、すべてはこの紙の上に描かれた「シナリオ」に過ぎなかったのだ!
「読んでくれたかい? 僕の最高傑作を」
部屋の暗がりから、静かに男が歩み出てきた。その顔を見て、僕は目を見開いた。かつて酒場で僕に「予言者」だと名乗った、あの男だった。夕暮れの残光が男の輪郭を逆光で縁取り、その表情までは判然としなかった。
「僕はね、君の生みの親……いわゆる『著者』だよ。君はこの物語の、哀れで魅力的な主人公に過ぎないんだ」
男の言葉に、僕は妙に納得していた。道理で僕の人生がこれほどまでに理不尽で、美しく壊れていたわけだ。全てはこの男の気まぐれなペン先一つで決められていたのだから。
刹那、僕の中に沸き立ったのは、これまでの全人生を凌駕する殺意だった。アビリティを全開にし、男の首を刈り取らんと肉薄する。床を蹴った衝撃で、部屋の家具が吹き飛ばされ、埃が舞い上がった。
「無駄だよ。君のその動きすら、僕が今この原稿に書き込んだ通り——」
僕の短剣は、男の首皮一枚のところでピタリと停止した。見えない「原稿の力」が僕の肉体を拘束している。だが、男は致命的な勘違いをしていた。彼は、この主人公に苦痛を与えすぎたのだ。百年の地獄で培養された僕の「憎悪」は、すでに「作品」という器の容量を遥かに超え、現実の物理法則すら侵食していた。
バリバリバリッ!!
空間が悲鳴を上げ、見えない原稿の拘束にヒビが入る。亀裂は蜘蛛の巣のように部屋全体へ広がり、その隙間から見たこともない色の光が漏れ出した。僕は怨嗟の絶叫とともに拘束を力任せに打ち破り、短剣で男の身体を細切れに切り刻んだ。切り裂かれた肉片が部屋のあちこちに飛び散り、床を赤く染めていった。
「な……そんなはずは……」
男は絶望と恐怖に顔を歪ませながら、肉片となって転がった。僕は男の生温かい血に喰らいつき、その魂を飲み干した。その男の記憶が流れ込む、はずだった。そのはずなのに、少しも鮮明に見ることができなかった。その記憶に入ることがまるで禁忌とされているような、そんな次元のものである。もう一度深く入り込もうとする。すると僕の心がそれを拒絶した。
『創造』——それが、この男の持つ『ギフト』である。世界を文字通り書き換え、万物を産み出す神の力。今やその絶対の権能すらも、僕の手の中に落ちたのだ。
その時、僕の脳内の奥深くから、懐かしい声が響き渡った。
『……これで、私とあなただけの世界が叶えられるわね、レオン』
心臓が跳ね上がった。姫の声だった。
『ずっと待っていたの。あなたがこの「世界の壁」を打ち破る瞬間を』
彼女の声は、僕の魂の最深部から直接響いていた。
『あの日、あなたに殺された時から、私はあなたの中で生きていたの。あなたの苦痛も、殺意も、ずっと一番近くで見つめていたわ』
彼女の真の『ギフト』は『寄生』——自分を殺した者の魂に寄生し、永遠に存在し続ける能力だったのだ。だからあの日、彼女のギフトは僕に流入しなかったのだ。
「なるほど……ずっとそこにいたのか」
『さあレオン、創造の力で私とあなただけの美しい愛の世界を作りましょう?』
姫の魂が、僕の意識を侵食し、僕という存在を乗っ取ろうと膨れ上がる。頭の中で無数の声が反響し、視界の端に彼女の銀髪の残像がちらついた。
「生憎だが……君の望みには応えられない。今の僕にあるのは、世界への憎悪だけだ」
『……なんですって? 私を拒絶するの!? 私の愛を否定するの!?』
姫の声が恐ろしい怪物の叫びへと変貌し、僕の自我を内側から食い破ろうとする。だが、今の僕には『創造』の力があった。
「消えろ」
僕は自身の魂の内部を『書き換えた』。姫という概念を消去し、上書きする。
『嫌……嫌あぁぁぁぁぁ!! レオン、あなたを愛して——』
姫の叫びは途切れ、完全に虚無へと消滅した。部屋の中に、静寂だけが残った。窓の外では、まだ遠くで人々の悲鳴が続いていた。
それからの僕は、愛も、情も、哀愁もすべてを削ぎ落とし、ただ私欲と憎悪のためだけに世界を支配する絶対神となった。創造の力で何万、何億という新しい世界を生み出し、そこに生きる登場人物たちに、僕が味わった以上の地獄と苦痛を与え続けた。人生というものが、存在というものが、いかに腐りきったゴミ屑であるかを証明するために。
原稿に一文を書けば、そこに世界が生まれる。山、海、街、そこに息づく無数の人間たち。彼らに与えるのは苦痛と絶望だけでいい。それだけで十分、僕の渇きは満たされるはずだった。
——はずだった。
その日、僕はいつものように新しい原稿を広げ、指先にインクを滲ませた。何を書くという目的もなかった。ただ手を動かしていないと、自分が自分でなくなりそうな、そんな感覚があっただけだ。ペン先が紙を擦る音だけが、静かな部屋に規則的に響いていた。
意識は半ば別のところにあった。何百、何千と繰り返してきた「苦痛を与える世界」の設計は、もう手が勝手に覚えている。考えなくても、貧しさも、絶望も、死も、するすると文字になって紙の上に積み上がっていく。僕はその作業を、ほとんど惰性で続けていた。
——どれくらい経った頃だろうか。ふと、ペン先が止まっていることに気づいた。
紙の上に綴られていた文字を、僕は初めてまともに読み返した。
『……名前を、あんなという』
書いた覚えがなかった。いや、正確には——書いている間、自分が何を書いているのか、まったく意識していなかった。手が、僕の知らないところで、勝手に一人の少女を生み出していた。
紙の上には、赤子の泣き声を上げるその子と、それを抱き上げる女の姿があった。生姜と醤油の匂いのする、狭い台所。その光景に、僕は妙な既視感を覚えた。だが、どこがどう既視感なのか、突き詰めて考える気力はなかった。ただ、目を離せなかった。
気づけば僕は、その紙の上の光景を、何年も眺め続けていた。少女は転び、泣き、また笑った。母と呼ばれる女は、その子を抱きしめる度に、同じ台詞を繰り返した。それが誰の記憶の反復なのか、僕はあえて確かめようとしなかった。確かめれば、何かが壊れる気がした。
「僕はまだあの景色を・・・」
僕はこの子の目に世界がどう映っているのか知りたくなった。理由らしい理由はなかった。ただそれだけが知りたくて、僕は紙の中に足を踏み入れた。
まだ小さいあんなは、庭先で蟻の列をしゃがんで眺めていた。人の気配など知らないはずなのに、僕が近づいても顔を上げなかった。
「……君には、世界がどう見える」
唐突な問いだった。自分でも、何を聞きたいのか分からないまま口が動いていた。
あんなはようやく顔を上げ、僕を一瞥した。怯えも、警戒もなかった。ただ、蟻を見ていたのと同じ目で、僕を見ていた。
「どうって……あるものが、あるだけ」
「それだけか」
「うん。蟻は歩いてる。土は黒い。お母さんは晩ご飯を作ってる。それだけだよ」
拍子抜けするほど、何もない答えだった。恨みも、絶望も、意味への渇望すらもない。ただ目の前にあるものを、あるがままに受け取っているだけの目だった。
僕はその目を、しばらく見下ろしていた。かつて自分がこんな目を持っていたことがあっただろうか。思い出せなかった。もう思い出す必要もない気がした。
「……そうか」
それだけ言って、僕は紙の外へと引き返した。あんなは僕が消えたことにすら気づかず、また蟻の列に視線を戻していた。
その世界を消しきれないまま、僕は去る。
——本物の絶望を求めて世界を渡り歩いてきたはずだった。だが、いつの間にか僕自身が、一番安っぽい模倣に手を伸ばしかけていた。家族という、この上なく甘美な、この上なく卑劣な贋作に。
創造の力とは、なんと残酷な力なのだろう。欲しいものを何でも作り出せるからこそ、本物と偽物の境界線を、自分自身で引き続けなければならない。
僕は新しい原稿を広げた。今度は、何も書かなかった。ただ真っ白なページを、長い間見つめ続けていた。窓の外の光が徐々に翳っていき、部屋は静かに闇に沈んでいった。
——ここで、物語は書き終えていた。
終章 最後の一文
The last sentence
ハッと息を吹き返した時、私は無意識のうちに隣に立つ天使の細い首を強く締め上げていた。図書館の書庫に漂う古紙の匂いが、急速に現実感を取り戻していく。
「あっ……ご、ごめんなさい……!」
我に返り、慌てて手を離す。指先に残った天使の首の感触の生々しさに、自分の手を見下ろした。手のひらにはまだうっすらと、締め付けた感触の余韻が残っていた。本を読んでいる間に、私は少年の絶望と狂気に深く共鳴し、自我を失いかけていたのだ。
「……つまり」
私が震える声で呟くと、首を押さえて咳き込んでいた天使が悲痛な瞳で私を見つめた。書庫の高窓から差し込む光は、いつの間にかすっかり弱まり、夕闇が忍び寄っていた。
「そう……この本に書かれていることは、すべて真実なんだ。私たちの生きるこの世界も、あの男が憎悪のままに創造した無数の玩具の一つに過ぎない。私は殺された天使の生き残りだ。君の持つ『可能性』に賭けて、世界の外側から君をスカウトしに来たんだ」
突拍子もない話だったが、私の中に残る読後感と辻褄は、吐き気がするほど完璧に合致していた。本を持つ手が、まだ微かに震えていた。
天使の手を取り、私たちは次元の亀裂を越えた。降り立った場所は、手記の最後に記されていた通りの場所——燃え盛る廃墟と化したニューヨーク。焦げたビルの骨組みが、赤黒い空に向かって歪んだ影を伸ばしていた。人っ子一人いない静寂の中、空から漆黒の衣を纏った男が舞い降りてきた。焦げた瓦礫の隙間から立ち昇る煙が、緩やかに風に流されていく。
本には顔の描写がほとんどなかった。だから、初めてその素顔を見た。哀しいほどに美しく、そして救いようのないほどに孤高な——「悪魔」そのものの姿だった。
「僕を百年の地獄に叩き落とした天使の生き残りかい?」
黒い男——レオンが、冷ややかな声で天使に問いかける。
「そうだ。お前の狂気を止めるために来た」
「なら、今度こそ木っ端微塵に砕いてあげないとね」
レオンが不吉な圧力を放ち、殺意とともに地を蹴った瞬間、私は迷わず天使の前に立ちはだかった。両足に力を込め、震える声を絞り出す。
「私を……私を先に殺しなさい! 私はこの世で最強のギフトを持っている。私を殺せば、それがあなたのものになる!」
レオンは空中でピタリと動きを止め、不審そうに私を見下ろした。死を恐れず、むしろ差し出してくる私の心理が理解できなかったのだろう。世界が一瞬静まりかえる。焦げた瓦礫の匂いと、風に舞う灰だけが、この静寂を伝えていた。
「……いいだろう。望み通りにしてやる」
静まり返った世界に、肉体を容易く引き裂く刃の音が響いた。レオンは私の言葉を信じ、私の首筋を切り裂いて、流れ出る血をその唇で受け止めた。
いつものように。彼がこれまで何千人もの命を奪ってきた時のように。私の記憶と存在が、彼の狂った魂の深淵へと流れ込んでいく。
「……あ……?」
レオンの動きが完全に止まった。その漆黒の瞳から、ボロボロと大きな涙の粒が溢れ落ちる。
彼の中に流れ込んだのは、圧倒的な暴力でも、絶大な能力でもなかった。それは——私という人間が生きてきた、惨めで、貧しくて、けれど絶対的に温かかった「記憶」だった。
毎朝のイジメ、痛みに満ちた日常。その極限の地獄の底で、私を固く抱きしめてくれた母の温もり。生姜と醤油の混じった、あの夕飯の匂い。『何があっても、私はあなたの世界でたった一人の味方だから』という、無償の愛。
レオンの魂の中で、何千もの殺戮の記憶が弾け飛んだ。貧しくも温かかった家庭で、母や妹と笑い合っていたあの「純粋な愛」の記憶が、私の記憶と激しく共鳴し、彼の殺意を内側から浄化していく。
「生きているからこそ……愛し合える……というのか……?」
悪魔は、己の中にいた「幼い頃の自分」とついに再会してしまった。世界を滅ぼすほどに肥大化した憎悪の鎧が砕け散り、そこに残されたのは、ただ傷つき疲れ果てた一人の少年だった。廃墟の中に立つその姿は、あまりにも小さく、頼りなく見えた。
「人とは何か……生きるとは何か……。それを測るには、この世界は……あまりにも複雑で、美しすぎたんだな……」
レオンは膝をつき、絞り出すような声で呟いた。地面に落ちた灰が、彼の膝の周りにうっすらと舞い上がった。
「僕は……もう疲れてしまった。全てを……終わりにしよう」
彼は虚空から一冊の古い原稿用紙を取り出した。それは私たち全ての始まりである、あの紙だった。レオンは震える指先で最後の『創造』の力を込め、一文を書き走らせた。
『僕はその日、全てを葬り去った。ある世界だけを遺して』
ついに天使が口を開く。
「私はあの子を犠牲に差し出した。君にとっての記憶にいる幸せ。それを彼女が持っていた。君が目を向けるべき真実はそこにあった。」
「私はあなたを救いに来た。」
レオンは続けた。
「天使は所詮天使なのか」
「痛みで溢れる世界が大嫌いだった。でも本当は遺った愛の記憶までも嫌いにはなれなかったんだ」
最後にレオンはそう天使に囁いた。
光が溢れ出す。燃え盛るニューヨークも、次元の壁も、天使も、優しい光の中に溶けていく。眩さの中に、どこか懐かしい、生姜と醤油の匂いが一瞬だけ立ち上った気がした。
眩しい情景の中、悪魔は瀕死の私の体を抱え、残された世界へ向かっていく。
消えゆく意識の中で、私は最後に思い出していた。図書館で手にした、あの漆黒の本のタイトルを。
その本の名は——
『終わりの共作』
——全ては最高傑作のために。
コメント
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めっちゃおもろい

すごく重厚なストーリーだなと思いました。文章の書き方も読みやすくとてもいい作品でした
「全編」読了……めっちゃ重くて、美しかったです。レオンの憎悪と絶望の連鎖、その根源にある純粋だった頃の愛の記憶が、最後に主人公の記憶と共鳴して浄化される流れ、本当に心臓掴まれるようでした。特に、創造の力で偽りの家族を作りながらも「本物の冒涜だ」と拒絶する場面、あそこでレオンが自分を誤魔化せないところに、彼の本当の優しさが滲んでて泣きそうになりました。重いテーマを丁寧に紡ぐSuzushi Akikazeさんの筆力、尊敬します。読後感がずっと胸に残る、素晴らしい作品でした。