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ここまでだと思い、どのように手助けするかも考えず、ユカリは飛び出そうとした。しかしレモニカがコドーズからは見えないように手で、ユカリたちに止まるように合図する。まだ何かがあるらしい。
「どうして分かったんですか?」とレモニカは声を震わせてコドーズに尋ねる。
「あの馬鹿女は、ケブシュテラ、お前と違って自信だけは無駄にあったからな。相手から目をそらすなんてことはなかったぜ。それで? 本当のところは一体俺に何の用だ?」
レモニカは言う。「怪馬の嘶きが聞こえまして?」
少し間を開けてコドーズは答える。
「ああ、聞こえるぜ。お前と違って忠実な下僕だ。今頃兵士どもの何人かは踏み潰してくれてるんじゃねえかな」
「なぜ、ああも暴れるのですか?」
「言っただろうが。俺のために暴れてるんだ。そうか、てめえ、今度は俺の愛馬まで奪おうってんだな。だが、そうはいかねえ。あいつだけはてめえらにそそのかされなかった。俺への忠誠があるんだ。何人がかりで抑え込もうとしているか知らねえが、まあ、時間の問題だな」
「時間の問題?」
「ほら、聞こえるか? 聞こえねえだろ? さっきまでの騒ぎがよ」
怪馬の激しい嘶きが収まり、夜の監獄に相応しい静けさが戻って来た。兵士たちの怒声も聞こえない。そのことにユカリが気付いた瞬間、静寂の薄布を切り裂くように、コドーズの牢から指笛らしき高い音が響く。
呼応するようにうめくような声音で怪馬が激しく嘶いた。先ほどまでとはまるで違う、塔をも揺るがす嘶きが戦場の角笛の如く轟き渡る。次いで下から突き上げるような衝撃に襲われる。床が揺れて不吉に軋む。まるでこの牢獄が投石機の標的になったかのようだ。
ユカリとベルニージュは今度こそレモニカの元へ走る。そして牢を覗き込む。コドーズは牢の奥の壁にもたれて座っていた。伸ばした髭は滅茶苦茶で、全身が擦り傷だらけになっている。すでに少なからず制裁を受けたらしい。足首に環をつけられ、鎖の先は壁に繋がっている。
しかしコドーズは鋭い眼光をユカリの後ろのレモニカに向けて言い続ける。
「鎖泥棒の見世物泥棒どももいたか。さあ、来るぜ。時に獅子をも食らうという毛長の怪馬が」
破壊的な怪馬の蹄の音が近づいてくる。まるで塔が下から崩壊しているかのように感じさせる。壁や檻を蹴破っていてもおかしくない騒ぎだ。
「どうすれば止まるのですか!?」とレモニカは鉄格子につかみかかり、なじるように問う。
「てめえらを食い殺したら止まるだろうぜ」とコドーズは嘲笑う。
「グリュエーは食べられないけどね」とグリュエーが笑って言う。
巨人が砦を踏み荒らすような破壊音が近づいている。怪馬は塔の内部を破壊しながら徐々に上へ、確実に近づいている。
「落ち着いて、レモニカ」ユカリはしっかりした声で言う。「指笛ひとつでそこまで細かな指示ができるとは思えない。ただ単に牢を破壊して脱獄するために呼び寄せただけだよ」
ベルニージュが炎の獣を灯す。激しい明かりが牢獄を照らし、独房の隅を住処とする暗闇は愚痴を吐いて出て行った。
呪文を唱え終えるとベルニージュは気楽そうに言う。「とにかく押さえつけるしかないね。ワタシが牽制するからユカリは怪馬に憑依して」
ユカリは答える。「分かった。グリュエーは分かった?」
グリュエーは答える。「分かった。レモニカは分かった?」
レモニカはじっと階段の向こうの炎に揺らめく薄暗闇を見つめ、凶暴な蹄の音に耳を澄ましている。残っていた獄吏や他の囚人たちの絶望に囚われた者特有の悲鳴も混じる。怪馬は将のように騒乱を従え、着実に塔を上ってきている。
怪馬は何かに勘づいたのか、直下の階までやってくると慎重に歩を運び始める。数本の鎖の引きずる音と蹄の床を叩く音が獲物を見定めた蛇のように近づいてくる。荒々しく苦しそうな呼吸の合間に苛立たし気に嘶く怪馬がベルニージュの炎の明かりに照らされて現れた。と、同時に後脚で立ち上がり、雄々しく全身の毛を振り回す。すると鎖までもが荒ぶり、壁を破壊する。ユカリもベルもたまらず後退するが、ベルニージュの炎の獣は命令に従って怪馬に飛び掛かった。
「ユカリ、まだ!?」とベルニージュが急かす。
しかしユカリは耳を澄ましていた。怪馬が何かを言っている。ただの叫びだと思っていたが、魔法少女の魔法で聞き取れる言葉を話している。
「怖い。怖い。熱い。熱い。熱い」と怪馬は嘶いていた。
「ベル! 火を消して! グリュエーも松明を! すぐに!」
ベルニージュもグリュエーも疑問を挟まずすぐさまユカリの言う通りにし、最上階に暗闇が訪う。と、同時にユカリは魔法少女の杖だけ出して仄かな明かりをもたらす。
しかし怪馬は変わらず、鎖の手綱を噛み締めて絞り出すように嘶いている。「怖い。怖い。熱い。熱い。痛い。痛い」
他に心当たりなど無い。ユカリは牢の中のコドーズの方を振り返って言う。
「いったいこの馬に何をしたの!?」
「何をも何も俺の見世物小屋で汗水たらして働いてきたんだよ! 昼間は働き、夜はこいつらに芸を仕込んでやってきたんだ。それをよくもてめえら俺の商売道具を!」
要するにとても怖ろしい躾の成果がこれというわけだ、とユカリは察する。
あの時、見世物小屋で怪物たちに語り掛けた時、ユカリは「逃げたいひとは私が逃がしてあげます」と言った。しかし、逃げたいと思うことすらできない者もいたのだ。思い返してみれば、レモニカ自身がそうだった、とユカリは今更になって気づく。
「ごめんね。私が浅はかだった」とユカリは言うが、怪馬に言葉は届いていない様子だった。
するとレモニカが進み出る。怪馬は少し怯むが、同じ見世物小屋で働いていたケブシュテラだと気づいたのか、焚書官姿のその少女の接近を許した。レモニカはそっと手を伸ばし、怪馬が口にくわえる鎖をつかんで言う。
「もう怖いものはありませんわ。恐れる必要も暴れる必要もありません」
レモニカの姿は、最も近くにいるユカリに応じて焚書官姿の母の姿になっていた。人間以外では、藻《ヴァミア》川の怪物の心を写し取っていたレモニカの呪いも、動物には反応しないことが分かっている。だからレモニカは、動物にだけは呪いのために嫌われたり恐れられたりしない。
レモニカから鎖の端を受け取るとベルニージュは素早く呪文を唱える。呪縛を溶かす言葉がその戒めの呪いを包んでいく。初めて人のために詠われた古い詩を、多くの鳥にも通じるという群島の言葉で唱え、怯える犬を宥める手つきで、ベルニージュは怪馬を戒める鎖を撫でる。ベルニージュの力持つ魔法は邪な鎖に腕づくで浸透し、狼に立ち向かう牧羊犬のように怪馬を鏈る悪意を追い出す。
しかし呪縛から解き放たれてもなお、怪馬は鎖を噛み締めたまま、レモニカが引き留めようとするのも構わずに、ゆっくりと牢の方へと進む。
ベルニージュがあからさまにため息をつき、自虐的に冷笑する。「結局のところこの魔法では心の呪縛までは解けないってわけだね」
怪馬が鉄格子に鼻面を押し付けると、蝶番が弾け飛び、扉は倒れた。魔法のような力づくだ。
コドーズは不敵な笑みを浮かべ、怪馬の鼻面を撫でて言う。「これこそが真の忠誠ってもんだ。可愛い奴め」
しかしユカリの耳に聞こえてくる怪馬の言葉は相変わらずだ。「怖い。痛い。熱い」
忠誠からは程遠い。むしろ命乞いに近い悲痛な嘶きだ。それでも怪馬は牢の奥にて戒められたコドーズにすがるように歩を進める。
「ユカリさま。通訳をお願いします」とレモニカは決然と言った。
「え? うん。それはいいけど」とユカリは応じた。
「どのような苦しみを抱いているのか、わたくしには想像することしかできませんが」と話し始めるレモニカの言葉をユカリは逐一繰り返す。唐突に分かる言葉を話し始めたユカリに驚いて、耳を傾ける怪馬にレモニカは語り掛ける。「自身を救うことができるのはいつだって自分自身なのです。助かろうとする者しか助からず、逃げようとする者しか逃げられず、思いを持たねば思いのままにはなりません」
コドーズが口を挟む。「何をごちゃごちゃ言ってやがる。そいつは自分の意志で俺に使われることを選んだんだ。お前と同じだ、ケブシュテラ」
レモニカは構わず続ける。「それでも自分の力だけではどうにもならないこともありましょう。自分自身でさえ、どうにもならないことがあるものです。その時はせめて差し伸べられた手をつかんで離さないでください」
多少馬の実感に伝わる翻訳をしつつユカリは通訳する。
「さあ、答えを聞かせてください。気高き銀馬よ」そう言ってレモニカはクオルの姿に変身し、怪馬の口元に手を差し伸べ、鎖を引き抜こうとする。「星明りを編んだかの如き貴方の壮麗なる銀毛は薄暗い天幕の下にて眺められるべきものですか? その岩をも踏み砕く堅き蹄は芸のために無闇に打ち鳴らすものですか?」
怪馬は身を震わせ、とうとう鎖を吐き捨て、そして呟くように、そしてさっきまでと違い、吉兆を思わせる銀の喇叭の響きのように格調高く嘶く。
「否。否。我が銀毛は風の同胞なり。我が鉄蹄は大地の賓客なり」
そして怪馬は鼻面をコドーズに向け、鼻息荒くしながら、値踏みするように近づいていく。
気圧されたコドーズは後ずさりするが、背はぴったりと壁についていた。そしてコドーズの恐怖に呼応し、レモニカの肉体が大きく変じる。枝でくみ上げたかのような細長いクオルの体は逞しい怪馬へと変身する。
二頭の怪馬を前にしてコドーズは怒鳴る。「やめろ! 近づくな! くそ! 鞭さえあればてめえなんぞ!」
そしてコドーズは怒鳴るように呪文を唱える。明かりを恐れる盗人が隠れて口ずさむ邪な言葉だ。するとコドーズの手のひらを覆うように火がついた。唱えた者に熱の苦しみはないが、その顔は歪んでいる。そうして後先を考えもせず、今までもそうしてきたかのように、コドーズはその赤熱した手のひらで怪馬の鼻面を叩いてしまった。
炎への恐怖に急き立てられたのか、怪馬が高らかに嘶き、前足を振り上げ、鉄槌の如き蹄をコドーズに振り下ろした。しかしその狙いは外れ、コドーズを戒める鎖と床を踏み砕き、さらにはその堅固な壁をも踏み抜いて、怪馬は外へと飛び出した。
「危ない!」とユカリが叫んだ時には、すでにその巨体は塔から落ちていた。
ユカリは壁の穴へと飛びつき、恐る恐る見下ろす。怪馬はみるみる遠退いて、地面に叩きつけられたが、少しも怯む様子なく、夜に溶け込む黒の街へと走って行く。
「すごい! この高さで着地した!」とユカリは歓声をあげる。
「感心してる場合じゃないよ!」と隣へ来たベルニージュが言う。「追いかけないと!」
「ここから飛び降りるだけならともかく」と言ってユカリはベルニージュと怪馬の姿のレモニカを見る。「三人まとめて飛びながら怪馬を追いかけるなんて器用なことはグリュエーにはできないよ」
「そうだそうだ」とグリュエーも呼応するように吹く。
「お任せください」と言ったのはレモニカであり、馬の嘶きでもあった。
レモニカはコドーズの腰帯を咥えると軽々と持ち上げ、己の背中に放り上げると壁の穴から躊躇なく飛び出した。
「あの子、とんでもないね」とベルニージュが呟く。
ユカリも頷いて言う。「コドーズは無事では済まなさそう。長毛で衝撃が和らぐと良いけど」