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監獄塔から飛び降りた怪馬レモニカが着地したのを確認し、二人も壁の穴から飛び出す。グリュエーの風をまとって速度を殺しつつ落下し、待ち受けるレモニカのふわふわした背中に跨る。レモニカが人間の姿になりかねないと乗ってから気づいたが、怪馬の身は維持された。意識を失ったコドーズは毛の中に埋もれており、その僅かな差だけレモニカの近くにいるのだった。
すぐさまレモニカは夜の街へ、春の始まりに吹く突風の如く駆け出し、騒ぎの聞こえる方へと向かう。こちらは三人を抱えて追っているが、恐慌状態の怪馬は目的も何もなく走り回っている。追いつけるはずだ。
そして暗く黒く信心深いネリーグロッサの街にあって迷う心配もなさそうだ。というのも夜の帳を突き破るような怪馬の嘶きと切り裂くような人々の悲鳴がユカリたちを正確に導いたからだ。
しばらくして「いた!」と叫んでユカリは指をさす。
疾走する怪馬の姿をユカリの目は薄闇の向こうにとらえていた。
「見えないけど!?」と後ろのベルニージュはユカリ越しに目を凝らす。
ユカリが距離と方向を伝えると、すぐさまベルニージュが魔術を行使しようとした。しかしユカリが制止する。
「駄目だよベル。無理やり取り押さえたりしたら話を聞いてくれないよ。それに炎なんてもってのほかでしょ?」
ユカリの耳元でベルニージュが尋ねる。「でもじゃあどうする? 疲れるまで待つ? レモニカが持てばの話だけど」
「あまり期待なさらないでください。怪馬の身にも疲れはございますので」とレモニカは懇願するように言う。
「じゃあ説得するしかないね」とユカリは決意を込めて呟く。
「聞く耳持ってるかな」とベルは首を傾げる。
「なんとか持たせてみるよ」と言ってユカリはレモニカの背中を撫でる。「並走できる?」
「頑張りますわ!」とレモニカは嘶く。
石畳を砕き地面を穿つような脚力でレモニカが速度をあげる。長毛を激しく靡かせる怪馬に追いすがる。騒ぎを聞きつけて通りの脇に集まっていた魔性が驚いて路地裏へと逃げてゆく。夜の街の通りを疾駆する二頭の怪馬の距離が徐々に縮み始めるが、追ってくる者に気づいたのか怪馬は街の通りをたどるように一心不乱に駆け抜ける。
駆け抜けた先、怪馬が広場に飛び込んだその時、いくつかある広場の出入り口でいくつもの炎が灯った。力強く燃え盛り、不思議に揺らめき、不揃いでいて、等間隔に並んでいる。それは穂先に炎を灯す魔の槍だ。クオルはこの街でも商いをしていたらしい。この街の兵士たちは前の自警団に比べると槍を扱う姿は様になっているが、激しく嘶く怪馬に対する恐怖は隠しきれないでいた。
怪馬は怪馬で炎に立ち塞がれ、恐れ慄くままに広場を巡る。火に囲まれ、逃げる術を失ったが、どこで恐怖に限界が来て、兵士を踏み越えていくか分からない。日干し煉瓦の壁をも粉砕する蹄の餌食になればただでは済まないだろう。
怪馬との距離を見計らってユカリは叫ぶ。「ベル! あの人たちを何とかして!」
そう言ってユカリはレモニカの背からグリュエーと共に跳躍する。
「何とかって何!?」と悲鳴をあげるベルニージュを置いてレモニカの背から飛び出し、その毛深くてべとついた怪馬の背中へ飛び乗った。
突然のことに怪馬は暴れ、ユカリを振り落とそうとする。申し訳なく思いつつも、ユカリはその長毛を強くつかみ、弾き飛ばされまいとこらえる。
「ごめんなさい! でも聞いて!」とユカリは怪馬の耳に向けて叫ぶ。「もう貴方を鞭打つ者はいないし、火を差し向ける者も……」
ユカリが必死に怪馬の首につかまりながら周囲を見渡す。ベルニージュの唱える呪文に応じて石畳の隙間から立ち昇った白煙が、幾羽もの鷲の如き猛禽の形を取って一斉に兵士たちに飛び掛かる。煙の鷲は槍の穂先に灯る炎に覆いかぶさると瞬く間に消してしまった。
ユカリは言葉を続ける。「もういない! 行きたいところに行って走りたいだけ走れる。だからこれ以上街中で暴れまわるのはやめて!」
ユカリの体は大きく揺さぶられ、腕が千切れそうな思いをしたが、決して怪馬から離れなかった。
逆効果だったかとユカリが思い始めた時、突如怪馬が猛然と真っすぐに駆け出した。ユカリは体勢を建て直し、怪馬の向かう先に目を凝らす。ベルニージュとコドーズがレモニカの背から降り、レモニカは逞しい男の姿になっている。怒りか憎しみか復讐心かユカリには分からなかったが、怪馬がコドーズを踏み潰そうとしているのは間違いない。
ユカリが言葉をかける間もなく、怪馬は横たわるコドーズの元まで駆け寄り、嘶きと共に前足を振り上げる。しかし見世物小屋の団長をかばうように、もう一頭の怪馬が現れる。レモニカを前にして、二つの鉄槌は地面を踏み砕く。
「変わり身の娘よ。何故その男を庇う。己が身に比ぶれば我が身など無傷も同然。さぞ恨みも深かろう」
レモニカは答える。怪馬の姿になったレモニカは直接言葉を交わすことができた。「はなから恨んでなどおりませんわ。わたくしは逃亡者ですもの。この者がいなければ、わたくしはどこまでも逃げていたことでしょう。わたくしにとってはわたくしほどの罪深さとは思えません」
怪馬は激しく鼻を鳴らす。「庇う理由にはならん。語る気なくば疾く退け。我が蹄にて我が恥を踏み潰そうぞ」
ユカリは怪馬の背中で、ベルニージュはレモニカの脇で、じっと二人の会話を聞いている。
「何をしようとも過去は消えません」レモニカは毅然と言う。「わたくしの罪も、貴方の恥も」
「言うてくれる、小娘め。だから踏み潰すな、許せと申すか」
レモニカもまた、しかし控えめに鼻を鳴らす。「いいえ、わたくしたちが向き合うべきはこの卑小な男ではなく自分たち自身だということです」
怪馬は笑うように嘶く。「ついでにその男を踏み潰しても罰は当たるまい。なぜ庇う?」
手足を投げ出して気を失っているコドーズを見てレモニカは言う。「わたくしはこの男のために己の手を汚したいとは思いません。だから飛び越えるのです。前へと進むのです。わたくしはそうしようと、いま決めました。貴方もそうしませんか? そうして欲しいです。罪も恥も悲しみも怒りも飛び越えて、早く速くずっと先へ進むのです」
「その先に何があるというのか?」
「わたくしもそれを知りたいです。共に見に行きましょう」
黒の都ネリーグロッサの喧騒が収束しつつある。ユカリたちの元へ、この夜の騒動の中心を、犯人を明らかにしようと確かめにやって来た者たちが集まりつつある。槍の炎を消されただけだと気づいた兵士たちも気を取り直している。
怪馬は鼻面をコドーズから、西の方へと向けた。
「行くぞ。真の風を知らぬ人の子らよ。駆ける喜びの一端を我が背にて見えるが良い」
三人の娘とそれらを背負う一頭は、星々を率いて去り行く夜を追うようにネリーグロッサの街を駆け抜けた。
冬に負けじと気負う太陽の黄金の気配が現れて、西の山々の暗闇を秘めた洞窟へと蝙蝠たちが戻ってくる頃、ユカリたちはネリーグロッサから遠く離れた丘陵の頂で一時の休息を取っていた。
「レクシアはどう? ぴったりだと思うんだけど」とユカリは言って、佇む怪馬と地面に座るレモニカを交互に見る。
「そうですね。良いかもしれませんわね」と言葉の上では同意しつつレモニカは不満げに言った。
反応は芳しくない。怪馬に至ってはそもそも興味がなさそうだ。
「ねえ、貴方の名前を考えてるんだけど? 自分でも考えてみたら?」とユカリは怪馬を責める。
「名など何でもよい。何であれ我が銀毛がくすむことはなく、我が蹄が欠けることはない」
銀毛とやらは薄汚れている、と指摘するのは少し怖かったのでユカリは黙っておくことにした。早いうちに徹底的に水浴びさせなければならない。
「ユビスというのはどうでしょうか?」とレモニカは提案する。
「どういう意味?」とユカリは尋ねる。
「友人とか協力者とか、そういう感じの意味です」
「いいね。それにしよう」とユカリは頷いて言う。「いいよね? ユビス」
馬は嘶きで応えた。魔法を使わなくともユカリにはその意味が分かった。
その間中、ベルニージュは体を抱えるようにして震えていた。魔導書の衣を奪われたために、レモニカのために買った衣服を借りて着ている。
ベルニージュは唇を青くし、歯をかちかちと鳴らせて言う。「ねえ? ユビスを驚かせたいわけじゃないけど、焚火なしで冬を乗り越えられるとは思えない。そりゃ勿論、そもそも野宿なんてしなければいいんだけど、そうも言ってられないこともある。今みたいにね。どうするの?」
ユカリはよく考えずに思いついたことを言う。「見ないようにしてもらう、とか」
「やってみて」とベルニージュはよく考えずに答える。
とにかく早く温まりたくて仕方ないベルニージュの切実な気持ちはユカリにも伝わっている。
目隠しになりそうなものは護女ノンネットにもらった僧衣くらいしかなかった。心の中でノンネットに謝りつつ、ユビスに許可を得て頭に僧衣をかぶってもらい、火から少し離れてもらう。
一通り準備を終えて、ベルニージュは言う。「じゃあ、火をつけるよ」
誰の返事も待たずにベルニージュの呪文が枯れ枝の束に滴り落ちて、瞬く間に燃え上がらせる。
三人は身構えるが、ユビスはじっと何かを待っている。
「どう? ユビス。怖くない?」
「腹が減った」と嘶く。
「そう? 良かった。飼い葉は次の街で買うから道草で我慢してね」
三人は体を温めつつ、すぐに食事を済ませ、本題へと移る。そもそも馬を求めていたのはクオルから魔導書の衣を取り戻すため、工房馬車に追いつくためだ。どちらへ、どこまで逃げているのか分からないが、元型文字を何か一つ完成させれば明らかになる。
「じゃあ【潜伏】がちょうどいいかな」とベルニージュは手をこすり合わせて、潜伏の他の読み方を諳んじる。「影の駆る馬、動物、縛られぬ家畜、悪魔の手先、道、災厄、逃れられぬ罰。あ! 全部言っちゃった」
「もう全部覚えてるから大丈夫だよ」とユカリは自信満々に言った。
「じゃあ、魔導書の衣に記された詩の方は?」とベルニージュが問う。
ユカリはベルニージュから目をそらし、星々の中に答えを探すがすぐに諦める。
「うん。思い出せない」ユカリは爆ぜる火からレモニカへ視線を移して言う。「レモニカはどう?」
レモニカはユカリを気遣うように控えめに言う。「”影は獣の腹を覆う”ですわね。少し、えっと、ややこしいかもしれませんわね」
「ああ、あったね」とユカリはうんうんと頷く。
「あったね、じゃないよ、まったく」とベルニージュは愚痴る。「衣がない以上、覚えないと。レモニカもユカリを甘やかさないで」
二人の反省の言葉を聞いてベルニージュは続ける。「たぶん影絵で馬の腹に禁忌文字を映すんだと思う。ユビスがいて良かったね」
三人の、計三十本の指を駆使して、何とか【潜伏】の文字を作り上げ、ユビスの腹に影絵を映す。例によって例の如く元型文字は眩く光るが、三人の六つの眼は別の光を求めて四方の地平を見渡す。
「あった! あそこ!」そう言って発見し、指さしたのはベルニージュだった。
太陽に先んじる暁の気配に比べると、とても強い輝きが丘を降りたずっと向こうにある。
「ん? 思ったよりすぐ近くにいる?」とユカリは首をひねる。地平線の下で文字が光っているのだ。しかしすぐにその誤りに気づく。「ああ、違う。地平線の向こうに隠れてる光が大地を貫いて届いてるんだ」
「だとしてもそれほど遠い距離ではありませんわね」とレモニカは言う。
ベルニージュは同意し、さらに付け加える。「今の時間帯ならクオルも寝ていて光に気づかなかったかもしれない」
「よし、行こう」とユカリは気合と共に発する。「魔導書の衣を取り戻そう」