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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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その夜は、ほとんど眠れなかった。
内側の扉の向こうで、侯爵様が歩き回る足音が、明け方近くまで続いていた。
止まっては、また歩きだす。窓のほうへ行き、扉のほうへ戻る。
一度だけ、扉のすぐ前で足音が止まった。
私は、布団の中で息を殺した。叩かれたら、どんな顔をして開ければいいのか、わからなかった。
足音は、しばらくそこにいて、それから、遠ざかっていった。
*
朝の厨房は、鰹節の匂いがした。
侯爵様は、小鍋で粥を炊いていた。梅干しを一つ、その上に載せる。卵焼きは、焦げていなかった。
「食べろ」
椀が、目の前に置かれた。
私は、匙を取った。けれど、粥はなかなか喉を通らなかった。
侯爵様は、向かいの丸椅子に腰を下ろした。自分の椀には、手をつけない。
「眠れなかったのか」
「……少し」
私は、椀の中の梅干しを見ていた。侯爵様の顔を、見られなかった。
「宇佐美が、何を持ってこようと」
侯爵様が、静かに言った。
「私は、書いていない」
匙を持つ手が、止まった。
「信じなくていい」
私は、顔を上げた。
灰色がかった黒い目が、まっすぐに私を見ていた。昨日の控え室で、宇佐美先生に向けていた目とは、まるで違った。
「見て、確かめろ。君の目で。……私は、それでいい」
この人は、気づいていたのだ。
帰りの自動車で、私が一度も、この人の顔を見なかったことに。
「旦那様」
「食べろ。今日は、長い日になる」
侯爵様は、自分の椀を取って、ようやく一口すすった。それから、梅干しの種を、ぷっと小皿に出した。
私は、粥を全部食べた。梅干しが、目に染みるほど酸っぱかった。
*
昼過ぎ、和館の居室から、大奥様の声が廊下に響いた。
「タキ。蔵から、お客様用の器を出しなさい。久遠寺の家にお客様をお迎えするのです。粗末な物は、出せません」
昨日、晒し者にされた主治医を、それでも客として迎える。それが、この家の体面なのだ。
洋館の渡り廊下の窓から、庭の土蔵が見えた。
白壁の重い扉の前に、灰色の背広の人影が立っている。真柴さんだった。懐中時計の鎖についた鍵の束から一本を選び、錠前に差しこむ。
扉が開くと、真柴さんは一人で中へ入っていった。
しばらくして、桐の箱を二つ抱えて出てきた。待っていたタキさんに、それを手渡す。何か、一言二言。タキさんが、頭を下げた。
真柴さんは、また錠前を下ろし、鍵の束を懐へしまった。
茶は、洋館の厨房で淹れろ。水も湯も、そこのものを使え。
侯爵様は、朝のうちに、そう言いつけていた。
私は、合鍵で厨房の扉を開けた。水甕の蓋を取り、銅の薬缶に水を汲んで、ガス焜炉にかける。
茶葉は、侯爵様がいつも使っている、錫の茶筒の中の煎茶を使った。
湯が沸くころ、タキさんが盆を捧げて、厨房の戸口に現れた。
盆の上には、染付の湯呑みが四つ。藍の唐草が、細かく描かれている。
そして、その横に、一つだけ違う器があった。
蓋のついた、色絵の茶碗。白い地に、赤と金で牡丹が描かれている。蓋のつまみが、小さな金の宝珠になっていた。
「お客様には、こちらの蓋付きを」
タキさんが言った。
「家令さんが、そう仰いまして。先代様が、大事なお客様のおもてなしにお使いになったお品だそうで。器は、私がよく拭いてまいりました」
私は、牡丹の茶碗を見下ろした。
蔵の客用の器。蔵の鍵を開けて、この器を選んで出したのは、家令さん。
そのときの私は、ただ、それを見ていただけだった。
タキさんと入れ違いに、百合絵様が厨房を覗きこんだ。日曜で、女学校は休みだった。
「お義姉さま。あたくしも、応接間にいてはだめ?」
「だめです。大奥様に叱られますよ」
百合絵様は唇を尖らせて、それから、盆の上の牡丹の茶碗に目を留めた。
「まあ、お父様の牡丹。久しぶりに見たわ」
「よく使われていたのですか」
「ううん、めったに。小さいころ、触ろうとしたら、真柴にひどく叱られたの。お父様のいちばん大事なお客様のためのお品だから、って」
百合絵様は、蓋の金の宝珠を、指先でちょんとつついた。
「宇佐美先生、そんなに大事なお客様なのね」
*
午後二時。宇佐美先生は、時刻ちょうどに来た。
今日は白衣ではなく、黒っぽい背広だった。蝶ネクタイも、していない。一晩で、頬がげっそりとこけて見えた。手に、小さな革の鞄を提げている。
真柴さんが、洋館の応接間へ先生を案内した。
渡り廊下を渡るとき、先生は足を止めて、和館の二階を一度だけ見上げた。閉め切られた板戸の並ぶあたり。藤の間のほうだった。
「私は、家令室に控えております。御用がございましたら」
真柴さんは深く一礼して、扉を閉めた。
応接間には、侯爵様と、大奥様と、私。
大奥様は、窓を背にした肘掛け椅子に、背筋を伸ばして座っていた。扇は、閉じたまま膝の上。
侯爵様は、暖炉の前に立っていた。
私は、盆の上の急須から、茶を注いだ。
牡丹の茶碗に、一杯。蓋を載せ、先生の前の小卓へ。
染付の湯呑みを、大奥様の前と、侯爵様の前と、自分の前に。
侯爵様は、いつものように、湯呑みに手を伸ばさなかった。大奥様も、触れなかった。洋館の厨房で淹れたものなど、と言いたげな目だった。
私は、自分の湯呑みを、一口だけすすった。いつもの煎茶の味がした。
「大奥様」
宇佐美先生は、椅子から立ち上がり、大奥様に向かって深く頭を下げた。
「昨日は、お見苦しいところを。……今日は、何もかも、申し上げに参りました」
大奥様は、何も言わなかった。
先生は、椅子に腰を戻した。それから、背広の内側に、右手を差し入れた。
胸の隠しのあたりで、手が止まる。
「これが、その手紙です」
言いかけて、先生は、喉を鳴らした。
唇が、乾いて白くなっていた。一晩、眠っていないのだろう。
先生は、隠しから手を出さないまま、左手で牡丹の茶碗の蓋を取った。
湯気が、ふわりと立った。
「失礼。喉が、からからで」
先生は、茶碗を口に運び、一口、飲んだ。
*
茶碗が、先生の手から落ちた。
絨毯の上で、牡丹の茶碗が転がる。茶が、黒い染みになって広がっていく。
先生は、左手で喉を掴んだ。右手は、背広の内側に差し入れたままだった。
椅子から、体が前のめりに崩れた。小卓が倒れ、蓋が床で割れる音がした。
「宇佐美」
侯爵様が、暖炉の前から飛んできた。
先生の体を抱え起こし、口に指を入れる。
「吐け。吐くんだ」
私は、動けなかった。
絨毯の染みのほうから、匂いが立ちのぼってきた。
甘いような、苦いような。杏の種を、割ったときのような匂い。
大奥様が、肘掛け椅子から立ち上がっていた。扇が、床に落ちた。
先生の目が、大きく見開かれていた。
侯爵様の腕の中で、その目が、ゆっくりと、私のほうへ動いた。
唇が、震えた。
「て、がみ……」
それが、最後だった。
見開かれたままの目から、光が、すうっと消えていった。
「宗介。宗介」
侯爵様が、扉に向かって叫んだ。
「医者を呼べ。警察もだ」
侯爵様は先生の体を絨毯に横たえると、自分で廊下へ飛び出していった。和館の電話室へ走る足音。
大奥様が、壁に手をついて、何か言っていた。廊下の向こうで、女中の悲鳴。百合絵様の声が、お兄様、と叫んでいる。
私は、先生のそばに膝をついていた。
いつ膝をついたのか、覚えていなかった。
先生の右手は、まだ背広の内側に差し入れられたままだった。胸の隠しの上で、指が固く曲がっている。
その指の下に、四角く硬い紙の手ざわりがあった。
もし、これが本当に、あの人の筆なら。
警察が来て、この手紙を見たら。
考えるより先に、手が動いていた。
人が駆け寄る騒ぎの中、私は宇佐美先生の胸の隠しから封筒を抜き取り、帯の間に滑りこませていた。
コメント
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うわ…第39話、めっちゃ重い展開すぎて心臓バクバクしたよ💔 朝の粥のシーン、侯爵様が「君の目で確かめろ」って言ったのに、まさかああいう形で証明されることになるなんて…。宇佐美先生、毒入りの茶を飲んで倒れちゃうし、最後の「て、がみ…」って言葉が切なすぎる😢 それでヒロインが証拠の手紙を隠しちゃうの!?やばい、完全に黒幕の罠にはまってる気がする…。牡丹の茶碗って先代様の大事な器って伏線も気になる〜!次回が待ちきれないよ😭💫