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爽やかに晴れ渡った染み一つない青い空の下に、清らかにして広大な青い湖面があった。サンヴィア地方に根付く多くの歴史と伝説と悲劇が西から東、南から北へと運ばれていった湖、青湖だ。邪な竜が巣食っていた神話の果て、名高き英雄が行き来した歴史を終え、今では行商人と巡礼者がこの湖とその水平線を愛し、旅路を詠う。
レモニカたちはウクマナ湖の縁を飾る美しい町々の一つ丁度良いへとやって来ていた。昼時にこの町にたどりつき、そのまま湖を渡って対岸の町へ行こうと疲れを押して渡船場へとやってきたところだ。古びた石の苔生した桟橋が一行の旅の先へと伸び、長い冬に疲れたかのように傾いた係留杭は布印を風にはためかせ孤独に佇んでいる。
先日の失敗の反省からレモニカは常にユカリと共におり、他の誰にも近づかないようにしている。もちろんベルニージュに近づきすぎて不快な思いをさせないように、いっそう気を使っている。
コドーズの元で鞭の音に怯えていた時は、そのような気遣いが必要なかった。ある意味で、あの見世物小屋には誰にも気遣わなくてよいという心地よさがあって、それもまたレモニカがずっと離れられないでいた理由の一つだろう。そしてこの旅で、他人を気遣うこと以上に、他人に気遣われることの辛さを知った。生まれてから故郷を飛び出すあの日まで、きっと多くの人間に気遣わせていたのだろう、とレモニカは気づいた。そのことを考えもせず、己の境遇を嘆いて逃げ出した愚かさを知った。
ユカリが歓声を上げて言う。「わたし、こんなにも大きな湖は初めてだよ。対岸が見えないね。背伸びしたら見えるかな?」
背伸びするユカリをからかうように風がまとわりつき、傍らのレモニカが震える。
「対岸までの距離はアルダニの大河の幅より狭いけどね」冬を呪うのを一旦やめて、ベルニージュは唇を震わせながら言った。
ユカリのそばで、ユカリの想像上の母の姿でいるレモニカは、周囲に警戒する必要がないことに気づく。渡船場にはほとんど誰もいなかった。小さな舟は陸に揚げられ、大きな船も湖面に揺れることなく停止している。何人かの男たちが紫煙を吐いて、焚火にあたりながら湖に目を向けているが、レモニカには何を見ているのか分からない。今にも詩情が湧いてきそうな美しい湖かもしれないし、湖のように凍り付いてはいない晴れ渡った空かもしれない。
「湖、凍っていますわね」
レモニカの言った通り、サンヴィアにて勢力を広げる冬の命じるまま湖面は時を止めて静寂に浸り、しかし表面が太陽光に少し溶けて青空を映し出している。町よりも古い桟橋はまるで天への架け橋のようだった。
「本当だ」とユカリはいま気づいたかのように言う。「え? じゃあ渡し舟は?」
「この寒さで動けるのはユカリだけだよ」とベルニージュは言って、ちらとユカリの足元を見る。
ユカリはまだ足を晒している。本当に大丈夫なのだろうか、とレモニカはずっと心配しているが、ユカリは平気そうだった。
「今年は去年に比べるとまだ暖かい気さえするけどね」と言ったユカリの言葉で、レモニカとベルニージュの頭の中は一瞬停止する。
ユカリが不意に離れ、レモニカは慌てて追いかける。
初老の男が一人、凍った湖を見つめて佇んでいた。汚れもくたびれもない分厚い衣を端正に纏い、画家のために構えているかのような絵になる立ち姿だった。白髪交じりの髪は銀に輝き、まだ浅い皴はしかし貫録を備えている。傍らには大きな鞄を置いて、そして一本の釣り竿を持っていた。
「すみません。旅の者なんですけど、この町の漁師さんですか?」ユカリは躊躇いなく、その男に話しかける。
男は悠然と首を横に振り、否定する。「いいえ、私もまた旅人です、今はただの釣り人ですがね。何か御用ですか? お嬢さんがた。私にできることならお手伝いいたしましょう」
その声にレモニカは耳をそばだてる。声の大きさは尋常であるにもかかわらず、湖の向こうまで響き渡ろうかという力強さで、またその響きは古の戦人を鼓舞した銀の角笛のように魂まで震わせた。
釣り人の男は柔和で親し気な笑みを浮かべながら、何も見逃さないと決めているかのように鋭い目を二人と、そして離れた場所で震えて待っているベルニージュに向ける。ユカリはしかし物怖じせず尋ねる。
「ご親切にありがとうございます。お尋ねしたいことがあって、渡し舟が次にいつ出るかご存知ですか?」
釣り人は不思議なものを見るような目でユカリを見て、そして魔を秘めた竪琴のような声で言う。
「申し訳ないが、私もまたこの土地に暗い旅人ゆえに知る由もありません。ただしこの町の者に聞いた話では、例年であれば湖が解けるのは春先になるとのことです。信じるかどうかはお嬢さん方にお任せしましょう。いずれにせよ、この凍り付いた湖面を見る限り、数日で解けることはないでしょうね。私もまた船に乗るためにこのトットマの町を訪れたのですが、こればかりは仕方がありませんね」
「冬の間はずっと?」ユカリは残念そうに呟く。そして青い青いウクマナ湖を見渡す。「そうですか。渡し船には乗れないんですね。それじゃあ、対岸に渡るにはこの湖を回り込むしかありませんね」
男は控えめに首を振って否定する。
「いいえ、お嬢さんがたがどこに行きたいのかは存じ上げませんが、湖面を歩くという方法もあります」そう言って男は右手の人差し指と中指を立てて人間に見立て、左腕の大地を歩く手振りをする。「凍り付いているのですからね。これもまた聞いた話ですが、この湖の縁に住む者はみな、冬の間はそうしているのだそうですよ。この季節のためだけに橇を所有している方もいるとか。私はまだ目にしていませんが」
ユカリは目を見開いて、口が閉まらなくなっていた。とても驚いているようだ。
「凍った湖の上を歩けるんですか? 割れてしまわないんですか?」
それに興奮してもいるらしい。
「そう簡単には割れないでしょうね」釣り人の男は嫌味のない苦笑をして言った。「お嬢さんが想像しているよりもずっと分厚い氷が張っているのです。軽く叩いてみれば、その響きで分かります。馬や馬車に乗って湖を渡ることさえ珍しくはない、と言う者がいましたよ」
二人は色々と教えてくれた旅人の釣り人に礼を言って、離れて見守っていたベルニージュの元に戻る。男もまた楽しい会話だったと礼を言い、傍らに置いてあった大きな鞄を背負って町の方へと立ち去った。
「聞いた? ベル?」とユカリは楽しそうに言う。
ベルニージュは男の背中を目で追いかけて答える。「うん。漁師と思いきや旅人の釣り人だったんだね」
「そこじゃなくて、湖の上を歩いて行けるんだって。話には聞いたことあるけど、湖の上を歩くなんてすごいよね。何か必要な物はあるのかな? このまま出発する?」とユカリは一息にまくし立てる。
「興奮冷めやらぬところ悪いけど、徒歩で氷の上を歩くとなると一日がかりと見た方がいいよ。誰も慣れてはいないし、慣れてないよね? 適した靴でもないし、お腹空いたし。出発は明日の朝だね」
そう言われてもユカリは少しも陰ることなく、明日を楽しみに待つだけのようだった。
そういう訳で一行はこの町の宿に泊まることに決めた。再び太陽が昇る前に出発し、沈むまでに湖を渡り切らなくてはならない。一行の持ち物は凍った湖の上で野宿するには心許ない。凍った湖の上で野宿しないことを知ったユカリは少し残念そうだった。