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宿の食堂の客が減ったのを見計らって三人は食事を摂ることにする。
芳ばしい湯気の立ち昇る岩魚の炒め物に、挽肉と堅果の複雑で絶妙な食感の包み焼、そして茸と乾酪の心を満たす羹。久しぶりに豊かな食事を前にして、三人の心は春を迎えた野兎のように踊っていた。数少ない他の客の、レモニカたちとは無関係な語らいまでもが、静かで安らかな音楽のように染み入る心地よくて温かな食事だ。
「冬の羹はどうしてこんなに幸せなんだろう?」とユカリがほがらかなため息をついて言った。
「寒いからでは?」とすかさずベルニージュが皮肉を言う。
「そうだよねえ」とユカリは感慨深そうに同意する。
ベルニージュは歯に何か挟まったような顔になった。
「こうも長い旅をしていると粗食にも慣れたけどね」ベルニージュもまた羹を大切に飲む。「そうでなきゃつらいだけだよ。食事のほとんどが硬いか塩辛いかの保存食なんだから」
「慣れたといえば慣れたよ、私だって」ユカリは麺麭を羹に浸す。「でもきっと良い食事をした方が良い旅ができるはず。肉体的にも精神的にもね。食堂を持ち歩く魔法はないの?」
ベルニージュは困ったように呟く。「ユカリが魔法を何だと思ってるのか分からないね」
「レモニカはどう? 美味しい?」とユカリに微笑みかけられる。
「はい! ……とても」唐突に投げかけられた問いにレモニカは慌てて答えた。「美味しゅうございます」
「どんどん食べなよ? 次にいつこんな食事が摂れるか分かんないからね。それとも何か別のものを注文する?」
まるで幼い妹に対するように接してくるユカリにレモニカは少したじろぐ。
「レモニカには優しいね」とベルニージュがからかう。
ユカリははにかみながら言う。「村には年の近い子がいなくて、子供の頃は年下とばかり遊んでたせいかもね。お節介になっちゃうのは。もっと幼い頃は年上の姉さん方に面倒を見てもらってたんだけど」
本当は年上だが、レモニカは訂正しなかった。そもそもユカリはレモニカを相手の嫌いなものに化ける力を持つけちな怪物だと思っている。年齢など些細なことだ。
ユカリはさらに続ける。「レモニカは好きな食べ物とかないの?」
「わたくしは、好きなものなんてありません」と切って捨てる。
沈黙が広がる前にユカリが会話を続ける。
「何もないってことはないでしょ? ほら、あの子、えっと、ラミスカに会った日に食べた林檎は美味しくなかった?」
「そうだ! ラミスカ! 言い忘れてた!」とベルニージュが口を挟む。「クオルがラミスカを探しているらしいんだよ」
ユカリが口の中に入っている何かを吐き出しそうになり、慌てて口を抑える。そして何とか飲み込んだのち、改めて驚く。
「クオルが!? ラミスカも!?」
先日の蟹猿の騒動や魔導書窃盗未遂の件で、この三人にとってクオルは注意すべき無礼な変人から警戒すべき危険人物となっていた。
「ラミスカは魔法使いなの?」とベルニージュはユカリに問いかける。
「さあ、どうだろう」ユカリは首を傾げて答える。「私も、ラミスカに会ったのはあれが二回目で、知っていることはほとんどないよ。名前だって、あの時初めて知ったんだから。でもそうだよね。クオルが用があるってことは、彼女も助手候補?」
「もしくは実験動物、でしょ?」とベルニージュは事もなげに言う。
レモニカの心が空寒くなる。クオルはどこまで本気で実験動物などと言ったのだろう。
「次に会えたら気を付けるように言わないと」とユカリは決心するように言う。
「気を付けるのはラミスカだけじゃなくて、ユカリたちもね」とベルニージュは言う。
「あれ? ベルは含まれてない?」とユカリ。
「ワタシがクオルに負けるわけないからね」とベルニージュは余裕たっぷりに胸を張って言ってみせた。
「お尋ねしますが」と男が言う。
すぐそばで男の声が聞こえ、三人ともが飛び上がる。ベルニージュは特に大袈裟に。
渡船場で出会った釣り人がいつの間にかレモニカたちの食卓のすぐそばに立っていた。それほど近づくまで三人の内の誰一人気づかなかったのだった。幸いレモニカと男の間にユカリが挟まれているお陰で、レモニカが別の何かに変身することはなかった。
「君たちはクオル氏やラミスカをご存知なのですか?」
相変わらず男の声は力強く響き渡り、食堂のわずかな客もみなが振り返る。
よく見ると、渡船場で出会った時と違って、男は釣り竿の代わりに剣を佩いていた。何かの獣の皮革で出来た白い鞘は素朴だが目を引きつけるような清い美を秘めている。納められた剣の柄は凍り付いた湖面のように艶やかだ。柄にも鞘にも、少しの汚れも痛みもない、いまこの世に生まれたばかりのようだ。
ベルニージュが黙っているのでユカリが話す。「どこのラミスカなのか知りませんが、話を聞きたければ、その前に名乗るのが礼儀というものでは?」
男の鋭い眼差しとユカリの紫の瞳の視線が交差する。
「エイカも名乗ってなかったけどね」とベルニージュが呟くとユカリはきまり悪そうに頬を染めた。
そういえば昼に会った時、こちらは名乗りなどしなかった。
「確かにその通りですね。失礼しました」男は丁寧に辞儀をする。「私の名は光。クオル氏とは、商売相手というやつです。彼女からは様々なことを請け負っています。まあ、ラミスカ捜索の依頼などは受けていませんが商売柄興味がありまして。ラミスカについて知っていることがあればお教えくださいませんか?」
ユカリは慎重に言葉を選ぶ。「クオルについても、私が知っているラミスカについても、私たちの知っていることは少ないですよ。クオルはおそらく武器商人の魔法使いで、私の知っているラミスカは行商人。もしかしたら貴方と同じ商売相手なのかもしれないけど。二人の関係なんて知らないし、二人がいまどこにいるのかも知りません」
「貴女の知っているラミスカとは? どういう意味ですか?」とボーニスはユカリに尋ねる。
「珍しくない名前なんですよ、ラミスカは」とユカリは答える。「サンヴィアではどうか知りませんが、私の出身地、ミーチオンではよくある名前です」
「なるほど。クオルはともかく、ラミスカは同名の別人かもしれない、と。最後に会ったのはいつで、どこでしょうか?」と男は三人に向けて子供を諭すように尋ねる。
「申し訳ないですけど」ユカリの視線はボーニスの美しい剣に注がれている。「ラミスカを見つけてどうするつもりか知らないですし、知ったとしても信じられるかどうかは分かりません。私たちはクオルさんを信用できないので、彼女を信用して商売しているであろう貴方を簡単に信用することはできません。旅路が交差しただけの関係とはいえ、ラミスカを危険な目に遭わせるつもりもありません」
食堂がしんと静まる。他のわずかな客も、少しばかり物々しい雰囲気に気づき、耳をそばだてて盗み聞きしているようだった。
ボーニスは不躾にならない程度の微笑みを浮かべて、三人を眺める。
「私としては商売相手の心証を良くしようという企みを抱いているに過ぎませんよ。そしてクオル氏の弁を借りれば、ラミスカは大切な人だ、と言っていましたね。見ず知らずの私がこんなことを言っても信じられない、ということは承知しました。私自身、クオル氏の言葉をそのまま信じているわけではありませんが」
仮にボーニスを信じられたとしても、クオルを信じられないのだから同じことだ、とレモニカは心の中で反論する。他の二人も同じように思っている事だろうと確信する。
去り行こうとするボーニスをユカリが呼び止める。「ボーニスさん。一つ聞いても良いですか?」
「何なりと」
「凍った湖で釣り竿を持って何をしていたんですか?」
「魚釣りですが」ボーニスは首を傾げ、腑に落ちていないらしい表情のユカリを見て察する。「ああ、凍っているといっても水底まで凍り付いているわけではないんです。あの氷の下の薄暗い水の中で魚たちは春を待っていることでしょう。そして私は湖面に穴を開けて釣り糸を垂らしてきた、というわけです」
「へえ、そうなんですか。氷の下に……」ようやくユカリも合点がいった風に頷く。「それで釣れました?」
ボーニスは苦笑して両手を上げる。結果は芳しくなかったらしい。