ん?
ブラインドの隙間から差し込むお日様が眩しくて、目が覚めた。
今何時だろう。
ずいぶんよく眠った気がするけれど・・・
ウゥーン。
布団の中で小さく伸びをする。
すごく手触りのいいシーツ。
これってシルクかな?いつもの綿シーツとは全然違う。
綿って汗を吸うからとっても好きなんだけれど、やっぱりシルクは柔らかで優しい手触りが気持ちいい。
ん?
待って。
シルクのシーツなんて家にはない。
もちろん蓮斗の家にもなかったと思う。
それに・・・
私は目をこすってからもう一度辺りを見回した。
真っ白な壁。
大きな窓にはブラインド。
サイドボードと、高そうな調度品。
何度見ても覚えのない風景。
ここはどこ?
まず、私のアパートではない。
こんなに広くないし、ブラインドもサイドボードもないし、そもそも我が家は1K。ベットルームなんてない。
だからと言って、別れた彼氏である蓮斗のマンションとも違う。
じゃあ・・・
落ち着け落ち着けと言い聞かせながら、私は周囲を見た。
床の上には脱ぎ捨てられた服。
ブラウスと、スカートと、ストッキングと、ブラと・・・ショーツ。
ってことは、今私は・・・
「キャッ」
やはり、裸だった。
でも、蓮斗と寝たわけではなさそう。
だって蓮斗は乱暴だから、彼と寝た後は必ず体が痛くなる。
相手を気遣うとかってことをする人じゃないから。
そもそももう別れたんだから、そんな関係になるはずはないんだけれど。
「あれ、起きた?」
いきなり後ろから聞こえてきた声。
ええええ。
あまりの驚きに声も出なくて、私は固まった。
仕方なく後ろを振り返ると、やはり知らない男性。
でも、この顔は昨日の夜・・・
ちょっと記憶をたどってみる。
ここは一人旅で訪れたシンガポール。
私|小倉芽衣《おぐらめい》は普段地味に節約生活をして学生時代から貯めた貯金の半分を費やして傷心旅行に出た。
比較的手ごろなホテルを1週間予約し、近場をブラブラしたりホテルからの景色を楽しんだりののんびりとした旅行。
別に贅沢するための旅でもないし何を食べたいという意欲もなく、昼はほとんどハンバーガーかチキンの日々。正直何のために外国まで来たんだろうと思うけれど、見知らぬ風景と聞こえてくる異国の言葉はそれだけで私の心を軽くしてくれるようだった。
旅行4日目の夜。
せっかくシンガポールまで来たんだから少しは地元を楽しもうと街へ出た。
たまたま入ったのは繁華街から少し抜けたところにある小さなバー。
お勧めのカクテルを作ってもらい2、3杯飲んだところで、片言の日本語が話せるマスターと意気投合した。
もともとお酒が強い方ではないのに何日かぶりに聞く日本語が嬉しくてつい飲み過ぎた。
一時間ほど飲んで気持ちよくなったところで、もうさすがにこれ以上は無理とお店を出た。そこまでの記憶はしっかりある。
ただ、そこからが・・・
***
店を出てホテルまでの道を歩いていたと思う。
バーの中は冷房も効いていて暑さを忘れていたけれど、一歩外へ出ればそこは南国。
ㇺッとした熱気と、まとわりつくような湿度に顔をしかめてしまった。
「さすがに暑いわねえ」
バックから出したハンカチで汗をぬぐいながら、つい口を出た。
この暑さも込みでシンガポールだと思う。
私自身寒いところより暖かいところが好きだし、この街だってすごく気に入っている。
だってほら、大都会のど真ん中だって言うのに緑が豊富でお花であふれているし、ごみは落ちていないし、何より夜景がとってもきれい。
予算的に贅沢は出来なかったからホテルの部屋からのダイナミックな眺めは期待できないけれど、こうやって歩いているだけで街全体がきらめいている。
こんな街に好きな人と来たらとっても素敵なんだろうな。
ひと月前に別れたばかりのくせにそんなことを考えてい自分が少し恥ずかしい。
「ねえ彼女」
ん?
聞こえてきた日本語に足を止めた。
「旅行ですか?」
目の前に現れたのは金髪のお兄さん二人組。
綺色付いた肌も顔立ちもどこから見てもアジア人なのに、とってつけたような金髪がなんだかおかしい。
「その先に良い店があるんです。よかったら一緒にいかがですか?」
今時こんなナンパの仕方をする人っていたのね。
それとも異国の解放感が警戒心をなくさせるんだろうか。
「ねえ、いいでしょ?」
一人のお兄さんが私の腕をつかんだ。
***
もちろんナンパされてるいてついて行くつもりなんてない。
そこまでバカじゃない。
でも、つかまれた腕を振り払う力が出ないし、大声を出すこともできない。
きっとこれはお酒のせい。
いつもよりも飲みすぎてしまった私は体の自由が利かなくなっていた。
「ほら、危ないよ」
今不度はもう片方の手をとられ、体を挟むように距離を詰められる。
まずいな。
このままじゃ連れていかれる。
「少し休んだ方がいいよ」
あきらかにどこかに連れていこうとする男性たち。
マズイマズイ。
酔っ払い気味の頭でも、そのくらいの状況判断はできる。
「や、めて」
全身の力を振り絞って、足を止めた。
驚いたように見下ろす男性たち。
一人旅行の女子は安易について行くって思われているってことなのか、私がそんな空気を出してしまったのかはわからないけれど、抵抗されるとは思わなかったらしい。
「どうしたの?ほらあそこに部屋をとっているから行こうよ」
そう言って指さしたのは『マリーナベイ』。テレビでもよく見る屋上におっきなプールのある奇麗なホテル。
私も泊ろうとしたけれど、高くて諦めたところ。
いかにも地元民っぽい彼らがあそこに部屋をとっているなんて信じられないから、絶対に嘘だ。
「ほら、いくよ」
「離してっ」
精一杯の声で叫び、腕を払った。
その瞬間、彼らの態度が一変した。
***
「うるさい、黙れっ」
さっきまでとは違って冷たい声で一括された。
それでも私は黙らない。
「離して、離しなさいよ」
今ここで逃げないと最悪の結果になる。それだけは避けないとと精一杯声を上げた。
「◯☆◯◯✴︎✴︎◯◯」
「✴︎✴︎◯☆◯☆」
わけのわからない言葉を話す2人。
私の抵抗がよほど意外だったのか、すんなり腕を離した。
それでも、
「誘ったのはそっちだからな」
汚いものでも見るような視線で言い放つ。
私も何か言い返してやろうと思ったけれど、気力も言葉も見つからない。
もちろん誘ったつもりはない。でも1人でお酒を飲みブラブラと街を歩いていたのは事実。非難されるべき要素はきっと私にもあったんだ。
「どうせ男を漁りにきたんだろう」
「たいした女でもないのに、お高く留まりやがって」
腹いせ紛れなのだろうか男たちは口々に文句を言いながら離れていった。
当たり前だけれど、男漁りに来たわけでもお高く留まったわけでもない。
ただ一人になりたくて、現実から逃げたくてシンガポールまで来ただけ。
高いお金を使って、せっかく遠くまで来て、どうしてこんな惨めな思いをしなくちゃいけないんだろう。
「クソッ」
誰にも聞こえないボリューム吐き捨てた。
***
久しぶりに落ち込んだ。
いつも「まあいっか」と楽天的に生きてきた私には本当に珍しいことだ。
「あ、雨」
霧のように弱い雨粒が肌にあたった。
南国のスコールとは違って暖かで優しい雨。
傘なんて持っていない私は、不思議なことに駆けだそうとは思わなかった。
この雨になら打たれていたい。そう思って街を歩いた。
雨がアスファルトを濡らし、息をするたびに感じていた熱気が少し和らぐ。
そして、雨に濡れた街のネオンが一層きらめく。
本当に宝石みたいだなあと視線を上げた。
その時、
「濡れますよ」
後ろからかかった声。
あ、日本語だ。
「風邪をひきますよ」
声がさらに近くなって、さっきまで降っていた雨が止んだ。
いや、違う。
雨が止んだんじゃない。
声の主が私に傘をさしかけてくれたんだ。
「あの・・・」
振り向いて相手を確認して、知り合いじゃないのはわかった。
いかにもビジネスマン風のスーツ姿の男性。
細いシルバーフレームの眼鏡と、キレイに上げられた前髪。
よく見ると優しそうな目元が髪型とメガネのせいでキリッと見える。
いくつだろう。30歳くらい?いや、よく見るともう少し若そう。
***
「濡れますよ」
さらに私の方に差し出された傘。
おかげで男性は体半分傘から出てしまっている。
「ありがとうございます。でも、それじゃああなたが濡れますから」
私は一歩男性から離れた。
「じゃあ離れないでください」
「え?」
「あなたが離れるから濡れるんでしょ?さあ、入ってください。送りますから」
「いや、でも・・・」
何だろう、初めての感覚。
今までこんな風に傘をさしかけられたことはなかった。
蓮斗は自分が濡れることをとっても嫌がったし、一緒に傘をさしていても私の体はいつも半分以上濡れていた。
4年も付き合っていて、それが当たり前だと思っていた。
「迷惑だった?」
「いえ、そんなことは」
自分でも、涙があふれてしまったのはわかる。
声の震えを押さえるのが精一杯で、涙を止めることができない。
でも、これは別れた恋人を思う涙じゃない。
きっと、人を見る目がなかった自分への悔し涙だ。
「行こう」
いつのまにか、男性の手が肩にかかっていた。
私も抵抗しなかった。
彼に促されるまま、私は歩きだした。
***
目が覚めてから30分ほどが過ぎた。
しばらくベットの上で固まっていた私は、男性に勧められ寝室の隣にあるシャワールームを使うことにした。
その間にわかったのは、ここがシンガポールのホテルの一室だってこと。
それも相当にランクの高い高級ホテルで、その中でもここはスウィートルーム。
寝室のほかにもいくつか部屋があり、バスルームも一つではないらしい。
実際私がシャワーを使っている間に、男性も奥の方へ消えていった。
私は大急ぎでシャワーを済ませた。
人生の中でこんなに早くシャワーを浴びたことはなかったと思う。
体と髪を洗い、流し、超スピードで私は部屋に戻った。
その時にはまだ廊下の奥のバスルームから水音が聞こえていて、男性が入浴中なのはわかった。
逃げよう。
逃げ出すなら今しかない。
旅先で行きずりの人について行って関係を持つなんて、羞恥心しかない。
できることならこのまま記憶から消し去ってしまいたい。
ドライヤーをフルパワーで使って髪を乾かし、昨日着ていた下着と服を着て、私は辺りを見回した。
よし、忘れ物はないわね。
ここに長居は無用。
私はカバンを抱えて部屋の入り口へと向かった。
***
大理石張りの廊下をできるだけ静かに歩きながら、入り口のドアの前に来た。
そうだ、ホテル代って置いていくべきなんだろうか?
でも、ここはもともと男性が泊っていたホテルみたいだし、私が来たことによってホテル代が発生したようには見えない。
ってことは、
「待って」
突然、廊下の先から聞こえてきた声。
しまった。考え事をしているうちに、男性が出てきてしまった。
「お願い、逃げないで」
上半身裸で腰にタオルだけをまいた状態で言われ、私は固まった。
よく考えれば、今なら逃げ出せる。
男性は半裸状態だし、私が逃げても追いかけてくることはできない。
でも、私は動くことができなかった。
「こっちを向いて」
真っすぐ近づいてきた男性が、私の顎に手をかけた。
「キレイだ」
この場には不釣り合いな言葉を放つ男性。
私は身動きできないまま、男性の顔を見返した。
どちらかというと、男性の方が美しく整った顔をしていると思う。
洗いざらしの髪とメガネがなくなったせいで、昨夜とは違ってかなり若い印象。
「着替えたら行くから、下のラウンジで待っていて」
そう言ってサイドボードの上に置いていた携帯を私に握らせた。
「え、でも・・・」
「いいから。そうだ、ここのコピがとっても美味しいから飲んで待っていて」
コピ?
ああ、コーヒーね。
じゃあと、男性は再びバスルームへ消えていった。
***
昨日会ったばかりの人間に携帯を渡して持ち逃げされたり、個人情報を盗まれたりするって思わないのかしら。
あまりにも不用心。
でもまあ、おとなしく言うことを聞く私もどうかしているけれど。
「|Thank you for waiting《おまたせしました》」
奇麗な発音で差し出された小さなカップ。
「|Thank you《ありがとう》 」
私は言われた通りホテルのラウンジでコピを注文した。
カップについた小さなスプーンで底に沈殿したミルクをゆっくりと混ぜる。
これがシンガポールのコーヒースタイル。
甘くてほろ苦くて、嫌いな味じゃない。
「私、何で逃げないんだろう」
携帯をゴミ箱に放り込めば、今すぐ逃げ出せる。
全てなかったことにできるのに、私にはできない。
優柔不断で、押しが弱くて、流されやすい都合の良い女。
だからこそ、私は今ここにいるんだろうと思う。
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