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その日、俊は精神的にも肉体的にもヨレヨレになって帰宅した。
いつものように桃が準備してくれた食事を食べ、普段あまり飲まないビールを飲む。
この間、桃は奈々子を風呂に入れていた。
奈々子と入れ替わりでその後入浴を済ませ、リビングでまたビールを
ちびちびと飲む。
たまに飲むビールは頭と気持ちを弛緩させてくれて心地よかった。
だから……奈々子を寝かせつけてリビングに現れた妻に気負いなく
芸大での仕事の話を持ち出すことができた。
「桃、今日も例の仕事へ行ったんだ?」
「うん、行ってきたわよ」
黙っていようと思っていたがやはり我慢できなくなり、酒の力を借りて
俊は桃に芸大の仕事のことを切り出した。
そんなふうに切り出したものの、しれっと平気な顔をして行ってきたという
妻の態度にやはり苛立ちが募るのだった。
そしてその瞬間、昼間見たシーンがバッと脳内に蘇り、自分を抑えられなくなった。
「で……留飲が下がった?」
「なに……ぃ」
「誘惑してただろ? 大学の先生をさ……」
俺から、見ていた者だけにしか分からない言葉を投げつけられ、妻は
訝しむ表情で俺のことを見てきた。
その目は何かを探るような瞳をしていた。
そして突然何かが降りてきたかのような閃きを得たようで、めいっぱい
その目を見開いて呟いた。
「まさか、俊……来たの? 今日来てたの?
……でも、えっ、まさかねそんなこと」
通常カーテンの閉まっている部屋になっているのだから、妻の概念としては
俺が大学に万が一来ていたとしても中を見ることはできないはずだから、
自分とあの男とのキスシーンを見られているはずはない、とでも考えて
いるのだろうか。
あの時カーテンは確か……?
などと過去の記憶を辿ってでもいるのだろう。
さて、彼女はあの時カーテンが開けられていたことに気付くのか……
どうだろう。
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別にあの時の場面を見られていたからといって焦る必要はないのだが、
桃は夫の言葉に戸惑いを隠せなかった。
それは夫が現場を見ていないと言い出せない内容だったからだ。
仕事を終えたあとのことだから、窓側の厚めの遮光カーテンは植木たちが
開けていたのかもしれない。
いつもは生徒たちと同じように割合すぐに教室から退室するので
気にしたことがなく、当日は植木に意識がいっていたこともあり
記憶が曖昧なのだ。
でも……レースのカーテンは閉まっているはずなので、中の様子が
見えるだろうかなどと、そこが気になってしようがなかった。
けれど何度夫の言葉を検証してみてもやはり、キスしているところを見られていたという
ことなんだろうと思うしかなかった。
考えがそこに落ち着いたので、どんなふうな言葉を夫に返そうかと考えていると、
何か言葉を掛ける前に彼の方からのリアクションが先にあった。
◇ ◇ ◇ ◇
椅子から離れ突っ立っている私の両肩に手をかけ、
「桃、頼むからあそこを辞めてくれないか。頼むよ~」
そう泣いて縋りながら夫が私に辞めてほしいと懇願してきたので、ほんと、
私ビックリ仰天しましたとも。
『泣いてるぅ~、泣くんだ~あーいやぁ~、どうしようかなぁ~』
ひとまずヨシヨシして、この話を穏便にすませたほうがいっか、なんて
思っていたのに……なのに私ったら。
「いいよ、辞めたげる」
「桃、ありがと。
俺、浮気のことはちゃんと反省してるから」
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『反省してるからって何?
何勝手に反省してるつもりになってるわけ』
「私、実は別にもうひとつ仕事持ってるのよ。もちろんモデル。
そこはね、学生じゃなくて渋いおじさんたちばかりなんだ」
「あーっ、止めてくれよ。
俺を苦しめてそんなに楽しいのか」
『へぇ~、そんなに苦しいんだ。ちょっと意外。
世間体を考えて恥ずかしいっていうのはありかと思ってたけど』
夫が苦しいと言い出したせいで今のいまで考えたこともなかったことが
私の口から勝手に飛び出してきた。
「そこはね、おじさんたちばかりだからポーズもかなりハードなのよぉ。
一糸まとわぬ姿ですっぽんぽん。
もう少し先の授業であそこをね、椅子に座って……びろーんって
見せることになってるの。
なかなかそういうのOKしてくれるモデルがいないらしくて
講師の人に喜ばれたわ」
『流石にそんな要求しないと思うけど……自分で作り話しながら
あほらしくて笑っちゃった』
唖然として私の話を聞いていた夫は私の肩から徐々に腕まで移動させていた
両手を放し、床に座り込んで号泣し始めた。
◇ ◇ ◇ ◇
その様子に流石の桃も、呆然と身動きもせずしばらくの間その場に
佇ずむばかり。
この時桃の胸中を過ったもの……。(心中は……少しほだされたりしていた)
桃自身思いもかけなかった想い。
だから到底夫の俊には分かりようもない桃の想いであった。
少しやり過ぎたかなと思いつつも『そんなに泣かなくても……』と
桃は思った。
冷静に考えればそんなことあるはずがないというのに。
俊も後日冷静になればそのうち分かるだろう。
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