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相手が号泣しているからといってここは自分が慰めるというのもおかしな話で、
桃はそっと風呂に入るため脱衣所へと向かった。
入浴中もドキドキが止まらなかった。
男の人が……俊が……あんなふうに苦し気に泣くなんて、本当に驚いた。
だが、そんなふうに捉えていた考えも時間が経つにつれ、徐々に変化していくのだった。
自分の前では今にも死にそうな態で泣いて見せていたけど、私があの場から
いなくなると案外してやったりと舌を出しているのかも
しれない……と。
桃は思考の波に溺れそうで湯船の中で二度三度頭を振った。
◇ ◇ ◇ ◇
もともと慎み深く恥じらいのあった妻の連発する過激な内容に、俊は
自分のしでかしたことへの罪深さに畏れおののいた。
妻の女性としての、というより人としての価値観を大きく歪めてしまったのは間違いなく
自分なのだと思うと絶望に襲われた。
言葉にならない想いに、自分でも信じられないほどの畏れと悲しみで
身体中が侵食されていくような気分だった。
それなのに更に追い打ちをかけるように口から出てきた妻の信じがたい言葉に、
爆弾発言投下に、俊は更に気持ちを揺さぶられ翻弄されるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
桃は夫が離婚しないのは自分のことをただシンプルな理由で
『好きだから』などと考えてもみなかった。
ただただ、世間体のためなんだろうと捉えていた。
対して俊はこんなふうに自分が嫌がることを徹底的にしてくる桃が自分の号泣
する姿に一瞬とはいえ、ほだされたりしたなんて全く考えも及ばなかった。
それは、哀しくも二人のすれ違いの一瞬であった。
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先に入浴を済ませた桃は、あのあと俊がどうしているのか確かめる気持ちには
なれず、そのまま直接寝室へ入り、すぐにベッドへと潜り込んだ。
しばらくすると物音が聞こえてきたので俊もお風呂に入るのだなとうつらうつらした状態で
そう思い……そのまま寝入ってしまった。
気がつくと朝だった。
横を向くと俊の顔が見えた。
骨格とすっと整った高い鼻は男性らしい造形をしているのに、キレイな肌の
せいなのか、全体に甘めに見える容姿のせいなのか、目を閉じている寝顔は
美しかった。
この顔で号泣していたなんて……。
見たかったような……とも思うが、きっと見なくてよかったのだ、と桃は
思った。
こんな造形の美しい顔を苦しませ歪ませているのが自分だなんて
思いたくはなかったから。
もしも、見てしまったら自分の中で何かが別の形で崩壊してしまいそうだ。
あまりに自分の心の奥深く、そう、魂が揺さぶられ更に苦しみを背負わされ
そうで怖かったのだと思う。
持て余す感情なんていらない。
夫の俊の号泣するところに遭遇してしまった桃の精神状態は少し不安定に
なっていた。
対して俊はというと、号泣した翌日からこれまでと変わりなく通常運転に
見えた。少なくとも桃からはそのように見えたのだ。
妻の桃からそんな風に見られていた当の本人はというと、結構大泣きして
自分の気持ちを吐き出したことで多少すっきりしていた。
……とは言え内々では、どうしても桃に裸婦モデルを辞めてもらいたくて、
どうにかならないものだろうかということを模索し悶々としていたのだった。
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◇切ない時間
2日前号泣していた俊が週末、誘ってきた。
およそ週2ペースの夫婦生活がどうしてだか先月の真ん中辺りから
なかったこと、そしてほんの2日ほど前に自分がしているモデルの仕事のことで
夫が辞めてほしいと懇願しながら泣いたということもあり、このような
誘いがあるなどとは……。
桃は、驚きを隠せなかった。
だってこんなこと露ほども自分は考えていなかったものだから。
この夜も自分の方が先に奈々子と入浴を済ませ、久しぶりにテレビを見ながら
晩酌する夫の姿を横目に奈々子に添い寝し、その後、寝室に入った。
『さぁ~てとっ、明日は土曜で夫も休日だから朝寝ができるぅ~』
などと、翌日の朝寝を楽しみにしつつ桃は毎晩続けているストレッチを
ベッドの側に敷いてあるヨガマットの上で始めた。
結婚して主婦になるとなかなか朝寝なんかできない。
今でこそ土日の朝はゆっくりできるようになったけれど、それも娘次第の
ところがある。
娘の奈々子が朝遅くまで眠ってくれるようになったのは最近のこと。
娘が生まれてから最近まで、寝たい時に寝られず食べたい時に食べられず、
小児科にはしょっちゅうお世話になったりと、子供ひとり育てることの
なんと大変なことか。
……などと子供を産んでからの怒涛の日々を思い起こしつつストレッチを
続行。
いろいろあり過ぎて初めて授かった奈々子の子育ても全力で楽しめないのは
残念だなと思ったり、そんなやこんな、考え事ををしているうちにルーティンの
ストレッチが終わり、体のほぐれた桃はベッドに潜り込んだ。
ちょうどそのタイミングでカチャリと部屋のドアノブを動かす音がした。
俊は晩酌をしていたはずで、寝室に来るのはもっと後だとばかり勘定していた桃は
焦った。
なんだか、寝室で顔をまともに突き合わすなんて嫌だと思ったのだ。
桃は寝た振りをすることにした。