テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
リフェアリー
128
一ヶ月で、証は、四百枚になった。
峠の小屋で、週に一度、発行した。薪を割った者に。米を運んだ者に。味噌を担いだ者に。塩を漉いた者に。働いた分が、証になり、証が、米や味噌や塩になった。
三つの村の間を、和紙が、動き始めた。
最初の変化は、米屋で起きた。
「味噌は、証で、いくらだ」
隣村の男が、木曽の米屋で、つむぎに聞いた。隣村の味噌を、木曽で買うために。
「一キロ、証二枚」つむぎは答えた。
「米は、一枚だろう」
「米は、一枚。味噌は、二枚。塩は、三枚」
「誰が、決めた」
つむぎは、答えに詰まった。要も、隣で聞いていた。
誰も、決めていなかった。
証は、「米一キロ相当」として発行された。米は、一枚。それだけが、決まっていた。味噌は、何枚か。塩は、何枚か。誰も、決めていない。でも、村の人間は、「味噌は二枚」と言い始めていた。味噌は、米より、作るのに手間がかかる。塩は、もっと。だから、二枚。三枚。
誰も決めていないのに、決まっていた。
「値段だ」要は、小さく言った。
甲府の市で、見たものだった。米本位制。誰も決めないのに、全員が、米で値段を言う。あれが、ここで、証で、起きていた。
証は、米一キロの約束として生まれた。でも、村の人間は、証を、米としてではなく、「証」として、使い始めていた。味噌二枚。塩三枚。薪一束、半枚。半枚、という言葉も、生まれていた。証を、半分に切る者が現れた。四つの印のうち、二つが片方に、二つがもう片方に残るように。
要は、それを止めなかった。
止められない、というのが正しかった。値段は、要が作ったものではない。三つの村の、四百枚の証と、何百回の取引が、勝手に作った。要が「味噌は二枚」と決めたら、村の人間は、従わない。従わないから、決めない方がいい。
「要さん」つむぎが言った。「私、何枚って、答えればよかった?」
「君が決めることじゃない」要は言った。「誰も決めない。でも、決まってる。それが、値段だ」
*
峠の小屋の壁に、板が、もう一枚、増えた。
要が打ち付けたのではなかった。隣村の孫が、打ち付けた。板には、墨で、こう書いてあった。
『米一枚 味噌二枚 塩三枚 薪半枚 卵五個一枚』
「相場だ」孫は言った。「毎週、変わる。先週は、塩が四枚だった。今週、下流から塩が多く来たから、三枚に下がった」
要は、板を見た。
市の板だ。甲府の市で、誰かが、口で言っていた相場。それが、ここでは、板に書かれている。書かれた相場は、三つの村の、誰もが見る。見て、取引する。取引の結果が、来週の相場になる。
価格形成。要は、頭の中で、その言葉を、久しぶりに使った。
大剥離の夜、株式市場が止まった。価格形成が、壊れたからだ。何の価格なのかが、わからなくなった。記録が信じられないから、価格が意味を失った。
ここでは、価格が、生まれている。記録ではなく、和紙と、四つの印と、三冊の台帳と、峠の小屋の、板一枚で。
「孫さん」要は言った。「来週も、書いてくれるか」
「書く。おれ、これ、面白い」
*
夜。要は、小屋で、三冊の台帳を照らした。
発行、四百枚。回収、三十二枚。
回収は、紙が破れたり、濡れたりしたものを、新しい証と交換したときに起きる。古い証は、燃やす。燃やした枚数を、台帳に書く。発行から回収を引いた数が、世の中にある証の数だ。三百六十八枚。
三つの村の米は、まだ、二千八百キロある。三百六十八枚は、余裕がある。
要は、ふと、思った。
四百枚の証が、三つの村の間を、動いている。米屋で、味噌屋で、塩屋で、薪小屋で。誰が、何枚持っているかを、要は、知らない。三冊の台帳には、発行と回収しか、書いていない。
知らなくていい。それが、金だ。
千円札も、そうだった。日本銀行は、誰が何枚持っているかを、知らなかった。知らなくても、回った。
大剥離の前、電子マネーは、違った。誰が、何円持っているかを、サーバーが、全部、知っていた。知っていたから、ゼロは、それを、千二十四通りに増やせた。
知らない方が、強い。
要は、その考えを、ノートに書いた。書きながら、自分で、驚いていた。七年間、要は、「全部を知る」システムを作ってきた。全部を知ることが、安全だと思っていた。
違った。全部を知るシステムは、全部を、一度に、失う。
「要さん」
つむぎが、小屋に入ってきた。米屋の仕事を終えて、峠を上がってきたらしい。
「今日、米屋に来た人、全員、覚えた。五十三人。証を、全部で、八十七枚、受け取った」
「八十七枚」
「うん。でも、一つだけ、変なことがあった」
「何」
「一人、証を、二十枚、持ってきた人がいた。米を、二十キロ。一人で」
要は、顔を上げた。
「二十キロ」
「うん。『冬のために』って。でも、その人の家は、三人家族。二十キロは、多い」
要は、何も言わなかった。
冬が、怖い人間が、いる。怖いから、台帳に線を足す。怖いから、証を、二十枚、集める。
要は、三冊の台帳の、発行枚数を、もう一度見た。
四百枚。
そのうち、何枚が、動いていて、何枚が、誰かの引き出しの奥で、眠っているのか。要は、知らなかった。
知らない方が、強い。でも、知らない方が、怖くもあった。
コメント
1件
わあ、面白かったです…!要が「誰も決めてないのに決まってる」って気づく瞬間、すごくゾクッとしましたね。証がただの約束手形から自然に「値段」を帯びていく過程が、経済の本質を描いていて読み応えがありました。あと、板に相場が書かれてどんどん更新されていく場面、すごく好きです。つむぎの「一人で二十キロ」の報告で終わるのが、不穏でいい余韻でした。