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第2話 天界に来れば、会えると思った
「俺は……生前、将軍だった」
汀生は、その言葉が室内へ沈むまで待ってから頷いた。
「そうですか」
「大勢に命令した。死なせた者も、一人ではない」
膝の上に置かれた男の手が、ゆっくりと握られていく。
「将として弔うべき者は大勢いた。それでも、俺が会いたかったのは一人だった」
汀生は、誰なのかとは尋ねなかった。
「……俺の、副官だ」
*
それから男は、調律のたびに少しずつ副官のことを話した。
戦況を読むのが早く、将軍が口にするより先に必要な兵を動かす男だった。命令へ従うだけではなく、誤りがあると思えば正面から異を唱えた。
将軍が前線で傷を負えば、幕舎へ戻るなり止血布を巻いた。
「お前が死んだら、誰が次の命令を出す」
「将軍に向かって、お前とは何だ」
「ここには俺しかいない」
そう言いながら、傷口へ触れる手は決して乱暴ではなかった。
酒を飲む時も同じ卓にいた。眠れない夜には理由を尋ねず、灯りが消えるまで残った。
「あいつは、俺の命令を一番よく聞いた。同時に、一番聞かなかった」
そこまで話した時だけ、男の声にわずかな温度が戻った。
「あなたにとって、とても近しい方だったのですね」
長い間のあと、男は答えた。
「……ああ」
*
最後の戦で、味方の陣が崩れた。
本隊が退くために残された道は、狭い峡道だけだった。
敵に先回りされれば、負傷者を抱えた本隊は逃げ場を失う。峡道の入口を夜明けまで守り、追撃を食い止める部隊が必要だった。
多くの兵はすでに傷つき、各隊の指揮官にも持ち場がある。
将軍は地図と兵の配置を見比べた。
何度確かめても、任せられる者は一人しかいなかった。
地図を挟んだ向こうで、副官が先に口を開いた。
「俺しかいないだろう」
将軍は答えなかった。
「何人残せる」
「百余りだ」
「敵の数は」
「その五倍はいる」
副官の視線が、峡道から本隊の退路へ移る。
「夜明けまで持たせれば、本隊は退けるのか」
「ああ」
「分かった」
副官は地図を見たまま言った。
「命令しろ、将軍」
将軍の喉が動いた。
これまで何度も、この男へ命令してきた。
前へ出ろ。
陣を守れ。
兵を率いろ。
必ず戻れ。
最後の言葉だけは、いつも口にできた。
だが、今度は違う。
「……お前が残れ」
副官はすぐには返事をしなかった。
「峡道を守れ。夜明けまで持たせて、生きて戻れ」
副官の目が、将軍をまっすぐに捉えた。
「命令すれば生きて戻れるなら、戦で死ぬ者はいない」
将軍は何も言えなかった。
「なら、お前が迎えに戻ると約束しろ」
その一言に、将軍の指が地図の上で止まった。
本隊を立て直せなければ、戻るための兵そのものを失う。
別の敵軍が退路へ回れば、峡道へ引き返すこともできない。
「……約束はできない」
副官は目を伏せた。
怒りも落胆も、口にはしなかった。
しばらくして、静かに尋ねる。
「俺でなければ、任せられないだろう」
将軍は逃げずに答えた。
「ああ、お前でなければ無理だ」
副官の口元が、ほんのわずかに歪んだ。
それが笑みだったのかは、分からなかった。
次に顔を上げた時には、もう何も残っていなかった。
背筋を正し、ただ命令を待つ副官の顔になっていた。
将軍は、その顔を見ながら告げた。
「命令だ。副官として従え」
「……承知した、将軍」
副官は一礼し、幕舎を出ていった。
将軍は呼び止めなかった。
*
本隊が峡道を抜け、空が白み始めた頃。
血と土にまみれた数人の兵が、互いの肩を支えながら戻ってきた。
将軍は、その中に探している姿がないことを確かめた。
「副官は」
将軍が問うと、一人が息を切らしながら答えた。
「夜明けまで持ちこたえました。役目は終わった、動ける者は本隊へ戻れと……副官殿が」
「本人はどうした」
兵は答えなかった。
峡道の方角を振り返った。
それだけで分かった。
将軍はすぐに兵を出そうとした。
しかし、敵の一隊が本隊へ迫っているとの報告が入った。
ここで陣を離れれば、峡道で守られた兵たちまで失う。
副官が命を懸けて作った時間を、将軍自身が潰すことになる。
男は再び命令を下した。
敵を退け、本隊の安全を確保し、峡道へ戻れたのは、日が昇ってからだった。
*
峡道は、静まり返っていた。
岩肌と土には戦の痕が残り、折れた武器がいくつも転がっている。
副官の部隊は、夜明けまで道を守り切っていた。
その最も狭い場所に、男はいた。
岩へ背を預け、折れた剣を握っていた。
呼びかけても、動かなかった。
いつ息が途切れたのか。
最後に誰を見ていたのか。
何を思っていたのか。
その場に答えられる者はいなかった。
将軍は副官の前へ膝をついた。
剣柄を握ったままの指を、一本ずつほどいていく。
いつも自分の傷へ、黙って布を巻いていた手だった。
「……よく、持ちこたえた」
副官は答えなかった。
将軍は立ち上がり、背後の兵へ命じた。
「副官を連れて帰れ」
*
「あの命令は、将としては間違っていなかった」
静養室で、男は言った。
「あいつは夜明けまで峡道を守った。残った兵を退かせ、本隊を生かした」
間違いではなかった。
だからこそ、命令したことを悔いていると、誰にも言えなかった。
「死なせてすまなかったとも言えなかった」
男は一度、言葉を切った。
「命令を出したことだけじゃない」
膝の上の指が、握られては開く。
「戻ると、約束してやれなかった」
喉の奥で、何かがつかえたように止まる。
「……最後まで、将軍としてしか、あいつに話せなかった」
汀生は音を置かず、待った。
「せめて俺も死ねば、会えると思っていた」
男の声が低くなる。
「死んだ者同士なら、もう将軍でも副官でもない。一人の男として話せると」
だが、天界で所在を尋ねた時には遅かった。
副官だった魂は、すでに魂路面接を終え、人界再誕を選んで薄明橋を渡っていた。
「死んでみれば、あいつはもういなかった」
汀生は、待っていたとも、赦しているとも言わなかった。
男は途切れかけた声を、自分で繋いだ。
「俺はあいつに謝れないまま、ここに留まるか、俺も転生するしかないのか」
コメント
1件
うわあああ…この回、泣いた😭💦💦 副官との最後のやり取り、特に「命令しろ、将軍」ってシーンがもう刺さりすぎて息できんかった…将軍としてしか話せなかった悔やみが天界まで続いてるの、切なすぎるよ…。 汀生さんの「待ってた」とも「赦してる」とも言わない静かな距離感、すごく好きです。続き、副官に会える展開あるのかな…?次の話が待ち遠しいです🌸
さくら
250
#中華ファンタジー