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朝の光は、まだ冷たかった。天界の穏やかな空気の中、ラファエルはいつものように澄み渡る空を見つめていた。だが、その目には昨夜の影が映っている。暗く深い影。あの者――アスモデウス。
彼の存在は、あまりにも異質だった。天使の純粋さに馴染まない熱を帯びていて、それでいてどこか心惹かれる何かがあった。
「なぜ、彼のことを考えてしまうのか」
理性は警告する。天界の律は明確だ。天使は決して悪魔に心を許してはならない。憎しみと争いの象徴である彼らと交わることは禁忌。だが、その掟は今、心の奥で揺らぎ始めていた。
一方、魔界の暗い石壁の前。アスモデウスは静かに瞳を閉じていた。
彼の胸の中も同じように乱れている。
「あの天使は、ただの敵以上の存在だ」
堕天使でもなければ、単なる敵でもない。彼女の穏やかな笑顔、透き通るような声。彼の中の何かをかき乱した。
しかし、それは許されざる感情。
悪魔は誇り高く、自由で、誰にも縛られない。だが、ラファエルに惹かれる心は、まるで鉄鎖に縛られているかのように重かった。
二人はそれぞれの世界で、それぞれの律と戦っていた。
それは神から授かった律。天使の純潔を守る律、悪魔の誇りを貫く律。
けれど、そのどちらもこの奇妙な想いには答えを出せない。
時は流れ、再び彼らは同じ場所で顔を合わせた。
天界と魔界の境界、薄霧が漂う広大な森の中。
ラファエルは柔らかな光を纏いながら、アスモデウスの前に立つ。彼の黒い翼は闇を吸い込み、冷たく煌めいていた。
「なぜ、君はここに?」ラファエルの声は震えていた。
「君に会いたかったからだ」アスモデウスの声は低く、熱を帯びている。
その瞬間、二人の間に静かな衝撃が走った。
触れてはいけないものに触れてしまったような、でも拒みきれない何か。
ラファエルは息を呑み、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「私たちは違う。君は悪魔、私は天使。許されぬ存在」
「でも、違うからこそ惹かれるのかもしれない」
言葉は空気を震わせ、彼らの心の壁にひびを入れた。
霧の中で、二人の視線が絡み合う。
天使の清らかな瞳と、悪魔の深淵のような眼差し。
言葉ではまだ足りない想いが、ゆっくりと確かに繋がり始めていた。
霧が少しずつ晴れていく。
木々の葉がわずかに震え、遠くで水音が聞こえた。
アスモデウスはほんの数歩、ラファエルの方へ近づいた。
彼の黒衣が風に揺れ、ラファエルの純白の羽根にその気配が触れる。
「怯えてるのか?」
低く囁くその声に、ラファエルは眉をひそめた。
「……怯えてなど、いない」
だがその声は、どこか不確かで――まるで自分に言い聞かせるようだった。
アスモデウスは立ち止まり、そっと手を伸ばす。
しかしその指先は、ラファエルの頬に届く寸前で、ふっと止まった。
「……触れたら、君はきっと壊れる。そうだろう?」
その言葉に、ラファエルの胸の奥が、じくりと痛んだ。
なぜ、彼はそんなに優しくするのか。
なぜ、悪魔でありながら、こんなにも人の心に触れてくるのか。
「私は……」
言葉は、霧の中に溶けた。
代わりに、ラファエルは自ら一歩だけ、近づいた。
ほんのわずかに、ほんの少しだけ。
二人の間の距離が、指先一つぶん、縮まる。
その小さな一歩が、どれほどの罪を孕んでいるのか、彼女は知っていた。
けれど、それでも。
たとえ堕ちるとしても――
「また、会えるか?」
アスモデウスの声は穏やかだった。
ラファエルは、答えなかった。
けれどその代わりに、小さく頷いた。
羽根が、かすかに震えた。
それが何を意味するのか、まだ彼女は知らない。
ただ、心が抗えない熱を求めていた。
冷たい霧の中、ふたつの背は、それぞれの世界へと戻っていった。
けれど、もうかつての場所には、帰れないと、どちらも薄々気づいていた。