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ひかりは、月曜日の朝の教室で、深く後悔していた。正確には、月曜日の朝というよりも日曜日の夜の自分を、後悔していた。
日曜日の夜、ベッドの上で毛布を頭からかぶって、ひかりは、ひとつのシミュレーションをしていた。
題して「月曜日の朝、教室で、藤宮くんに、自然にハンカチを拾ってもらう作戦」。
——いま思えば、タイトルの時点で、もう、敗北していた。
「自然に」と書いてある作戦は、大抵自然にはならない。それは世の中の誰でも知っている、基本的な法則だった。なのに、日曜日の夜のひかりは、その法則を忘れていた。忘れていたうえに、シミュレーションの中で藤宮くんに、全部で七回、ハンカチを拾ってもらっていた。
七回も拾ってもらえるなら、もうそれは、ハンカチではなく、リレーのバトンだった。
そして、そのうち四回くらいシミュレーションの中の藤宮くんは、ハンカチを拾いながら、ほんの少しだけ口の端で笑っていた。あれは、誰の許可を取って、笑っていたんだろう、と今になって、ひかりは思う。
たぶん、日曜日の夜の、自分の、無意識の許可だった。
最低だ、と月曜日の朝のひかりは、毛布の中の自分を軽く呪った。
そういうわけで、月曜日の朝、ひかりは、いつもより十五分、早く家を出た。家を出る前に、姿見の前で自分の髪型を二回変えた。
最初は、いつものセミロング・下ろし。
次に、ハーフアップ。
最後に、低い位置のゆるいひとつ結び。
なぜニ回変えたのかというと、
「いつもどおりの髪型で行ったら、わざとらしくない代わりに、藤宮くんに、なにも伝わらない」
「ハーフアップは、なんか、頑張りすぎ」
「ひとつ結びは、うなじが見えるから、ちょっとずるいけど、たぶん、今日のテンションには、これが1番嘘がない」
——という、ひかり自身の内部会議の結論だった。
会議には、議事録を取る人がいなかったので、その結論が本当に妥当だったのかは、誰にも確かめようがない。
そして、もうひとつ。
ひかりは、姿見の前でハンカチを三枚用意した。
一枚目は、いつもの淡い水色の無地のハンカチ。
これは、ブレザーのいつものポケットに、いつも通りに入れる。
これが、彼女のデフォルトの装備だった。
二枚目は、ちょっとだけおしゃれな白いレースのついた、ハンカチ。
これは、スカートの後ろポケットにこっそり、忍ばせた。
これが、本日のメインウェポン——「落とすため」のハンカチだった。
三枚目は、念のための予備。これはカバンの中。予備のハンカチを用意するくらい、彼女は本気だった。
そして、姿見の前で、最後に彼女は、自分自身に、こう言い聞かせた。
「七瀬ひかり、いいですか」
「教室では、絶対に、わざとらしくしないこと」
「『あ、落ちた』って、自然に、見せかけること」
「拾ってもらったあとは、お礼を、ふつうに、言うこと」
「拾ってもらえなかったときの、保険のシナリオも、頭の中に、用意しておくこと」
「以上、解散」
ひかりは、姿見の前で、一つ、息を吐いた。
吐いた息のあと、彼女の口元には、教室の八十パーセントとは、違う種類の、覚悟の、笑みが、わずかに、浮かんでいた。
——わたしは今日、ハンカチを落とす。
そして、藤宮くんに、拾ってもらう。
そして、藤宮くんと、教室で、もう一度、ちょっとだけ話す。
そして、藤宮くんが、ヨル先生かどうかを、ちょっと、もう一回、確かめる。
「絶対に、バレない範囲で」。
最後の一文だけは、ひかりは、声に出して、姿見の中の自分に念を押した。姿見の中の自分は、その一文に対して、なぜか、ほんの少しだけ目を伏せた。
「絶対に」は、たぶん嘘だった。
「バレない範囲で」も、たぶん嘘だった。
そのことに、ひかりは、まだ気づかないことにしていた。
教室についてから、ひかりは、自分の作戦の最大の欠陥に気づいた。
——ハンカチを「自然に」落とすには、まず、ハンカチを「自然に」、ポケットから、出さなきゃいけない。
これが、想像していた以上に難しかった。
朝のホームルームの間、ひかりはなんとなく、姿勢を正したまま、自分の右手の動きを、頭の中でシミュレーションし続けていた。
「えーと、まず、教科書を取り出すふりをして」
「そのまま、後ろのポケットに、手を、まわして」
「ハンカチの端を、つまんで」
「立ち上がる動作と一緒に、ふわっと、落とす」
「落とす方向は、できるだけ、教室の通路側、つまり、藤宮くんの席のほう」
ここまで、頭の中で、組み立てたところで、ひかりは、ふと気づいた。
——もし、いま、自分が、それを実行している姿を、外側から見たら、たぶん、めちゃくちゃ、変、じゃないか?
「教科書を取り出すふりをしながら、なぜか、右手だけ、後ろポケットに、まわしている女子」。
文字に起こすと、もう、それは、教室のいちばん明るい場所に座っている人間の振る舞いではなかった。それは、たぶん、廊下で見知らぬ大人に、職務質問されるレベルの不審な動きだった。
ひかりは、姿勢を正したまま、頭の中でその作戦案に、丁寧に赤ペンでバツをつけた。
そして、第二案を、考え始めた。
第二案。
「席を立ち上がるとき、わざと後ろポケットのあたりを机の角に引っかける」。
——いや、これは、運に頼りすぎている。
机の角に、ピンポイントで後ろポケットの口の部分が引っかかる確率は、たぶん、宝くじ三等くらいの確率だった。
第三案。
「友達と話しながら、わざと、後ろポケットを軽く手で叩いて、その勢いでハンカチを落とす」。
——叩いた瞬間に、自分の手で、ハンカチを、押し込んでしまう未来が、はっきり、見えた。
第四案。
「いっそ思い切って、ハンカチを机の上に出しておいて、それを風で飛ばす」。
——五月の教室の窓は、開いていない。
開いていたとしても、ハンカチを「風で飛ばす」ために、わざわざ立ち上がって、窓のところまで歩いていくのは、もはや作戦ではなく、儀式だった。
ひかりは、ホームルームの間に、合計で十二個の作戦案を却下した。
却下するたびに、頭の中の自分に申し訳ない顔でこう伝えた。
「ごめんね、もうちょっとマシな案、考えるから」
申し訳なさそうな顔をもらっていたのは、姿見の前の日曜日の夜の、自分だった。
一時間目の途中、ひかりは机の下で、こっそり後ろポケットのハンカチに指先で触れた。そこに、ハンカチは、ちゃんといた。白いレースの出番を待っている、いじらしいハンカチ。
ハンカチには、たぶん、罪はなかった。
罪があるのは、たぶん、それを「落とすために」忍ばせてきた日曜日の夜の、自分のほうだった。
——ねえ、ハンカチさん。
頭の中で、ひかりは、なぜか、ハンカチに敬称をつけて話しかけた。
あなたは、今、わたしの後ろポケットで、結構、迷惑してませんか?
ハンカチは当然、答えなかった。
答えない代わりに、白いレースの端っこが、ひかりの指先に、ふわっと軽く触れた。
それは、なんとなく、「気にしないで」と、言われたような気がした。
——ハンカチさん、優しい。
ひかりは、心の中で、ハンカチに深くお辞儀をした。ハンカチにお辞儀をしている女子高生は、たぶん、全国で自分くらいだろう、とひかりは思った。
それでも彼女は、まだ作戦を諦めていなかった。
第十三案。
「休み時間に、いったん廊下に出る。教室に戻るときに、ドアのところでわざと、ハンカチを後ろポケットから、半分だけはみ出させておく。そして、藤宮くんが、ちょうど、ドアのそばを通ったときに、自然に、落ちる」。
——これは、いける気がした。
「半分だけ、はみ出させておく」がポイントだった。
これなら自分が、わざわざ落とす動作をしなくても、歩いている振動だけでハンカチはふつうに落ちる。そのうえ「今ちょうど、藤宮くんが近くにいた」というのは、こちら側の意図とは関係のない、純度百パーセントの偶然になる。
教室の七瀬ひかりとしては、ギリギリ許容できる「自然さ」のラインだった。
ひかりは、ホームルームの間、頭の中の作戦本部で、その第十三案に丸印をつけた。
そして、その丸印のちょっと下のところに、ごく小さな字で、こう書いた。
「タイミング、命」。
一時間目の終わりのチャイムが鳴った。
ひかりは、立ち上がるときに一旦、自分の呼吸を、ゆっくり整えた。そして、女子三人組の輪の中に、八十パーセントの笑顔でいつも通り、自然に混ざった。
「ねえ、ひかり、髪、今日かわいいー!」
「えー、ほんと? いつもとそんな変わんないよ」
「変わってる、変わってる! うなじ、ずるい!」
「やめて、恥ずかしい!」
ぱっ、と、両手を自分の首の後ろに、軽く添える。
うなじを、ちょっと隠す仕草。
その動作は、八十パーセントの、ちゃんと計算された教室の七瀬ひかりの動作だった。ただ、計算した本人のこめかみのあたりが、自分でもわからないくらい、わずかに熱かった。
——うなじ、ずるい、と誰かに言わせるために、わたしはたぶん、今朝髪型を変えてきた。
その「誰か」が、本当は誰なのかについて、ひかりは考えないことにした。
考えないようにしながら、彼女は廊下に向かって、ゆっくり歩き出した。
歩く途中、教室の対角線の一番端をほんの一瞬だけ、視界の隅に入れた。
いちばん暗い席の住人——藤宮陽人くんは、自分の席で片肘をついて、ぼんやり窓のほうを見ていた。
その横顔は、二日前の金曜日の朝とまったく、同じ姿勢だった。
なのに、ひかりには、なぜか、その横顔だけが二日前と全然違って見えた。
たぶん、違っているのは藤宮くんではなく、見ている自分のほうだった。
ひかりは、廊下に出る直前、後ろ手でこっそり後ろポケットのハンカチを半分だけ引き出した。
引き出して、廊下に出た。
そして、廊下のいちばん端まで歩いて、すぐに後悔した。
——あ、これ、ハンカチ、もう、落ちてるかもしれない。
廊下の途中で、何度か後ろを振り返りそうになって、振り返らなかった。振り返ったら、自分がハンカチのことを気にしているということを、世界中に白状することになる。
「ひかり、トイレ寄ってく?」
「あ、うん、寄る寄る!」
ぱっ、と八十パーセントの笑顔。
そのまま廊下の女子トイレのほうへ、ひかりは歩いていった。
歩きながら、心の中でこう祈った。
——どうか、ハンカチ、ちゃんと、まだ後ろポケットに半分、はみ出してるままで、いてください。
——そして、教室に戻るときに、ちょうど藤宮くんが廊下を通っていてください。
——そして、わざとらしくない、ギリギリのちょうどいい角度で、わたしの後ろポケットから、ふわっと、ハンカチが落ちてくれますように。
——わたしを、たぶん馬鹿だと、思わないでください。
最後の一行は、誰に向けて祈ったのか、ひかり自身わからなかった。
世界、だったかもしれないし、ハンカチさん、だったかもしれないし。あるいは、ヨル先生かもしれないし、藤宮くん、かもしれない。
そのどれもが、たぶん、半分くらいずつ、正解だった。
ひかりが、トイレから出てきたとき。
廊下の真ん中、自分の教室のドアの少し手前に、白いレースのハンカチが、一枚、ちょこんと落ちていた。
そして、そのハンカチのちょうど、二歩先のあたりに——、
藤宮陽人くんと、黒澤凛さんが、並んで立っていた。
二人とも、廊下に落ちたハンカチを見ていた。
それから、ハンカチの方向から、こちらに向かって、ゆっくりと視線を上げた。
藤宮くんの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
黒澤さんの口の端はほんの少しではなく、わりとはっきり、にやり、と上がった。
——おわった。
ひかりは、廊下の真ん中で立ち止まった。
立ち止まった瞬間、八十パーセントの笑顔が、起動する前に、自分の口の端が、勝手に別の角度でほどけてしまうのが、自分でもわかった。
それは、たぶん教室では、絶対に見せたことのない、夜の七瀬ひかりの一番近い笑顔だった。そして、廊下のいちばん向こうから、それを二人にはっきり見られていた。
「えっ——、と、あ、わたしの、ハンカチ……ですか?」
口から出てきた声は、自分でも聞いたことのない、変な裏返り方をしていた。
藤宮くんは、ハンカチを、ゆっくりしゃがんで拾った。拾ってから、立ち上がりながら、一度隣の黒澤さんの顔を、チラリと見た。
黒澤さんは、なにも言わずに、フン、と短く鼻だけで笑った。
そして、藤宮くんはひかりのほうへ、白いハンカチを軽く差し出しながら、こう言った。
「……『落としてなかった?』って、金曜、聞いてくれたお返し」
声は、いつもの藤宮くんよりも、たぶん半トーンだけ低かった。低かったけれど、その分だけ、なぜかひかりの心臓にまっすぐに届いた。
ひかりの作戦本部は、その瞬間、完全に機能を停止した。
頭の中の姿見の前の自分も、内部会議の議事録も第一案から第十三案までの、すべての作戦案も一斉に白紙になった。
代わりに、ひかりの中にひとつだけ、新しい文字が、ぽつんと書き込まれた。
——「敗北」。
そして、その「敗北」の文字の上に、上から、もう一つ、別の文字が重ねて書かれた。
——「うれしい」。
ふたつの文字が上下に重なって、ひかりは廊下の真ん中で立ったまま、しばらく動けなかった。
「……ありがとう、ございます」
声をなんとか、絞り出した。
絞り出した声は、教室の七瀬ひかりのワントーン高い声では全然なかった。それは、たぶん鍵アカウントでヨル先生に、一度も届いていないリプライを送り続けていた時の、夜の七瀬ひかりの声と一番近い声だった。
藤宮くんは、ハンカチをひかりに渡してから、ほんの少しだけ自分の左手で自分の襟元のあたりを押さえた。
そこにはたぶん、いつもの片方のイヤホンが垂れていたはずだった。
ただ、今日はその襟元に、イヤホンがなかった。
ひかりは、それに気づいてしまった。
気づいてしまって、また心臓が半拍ズレた。
藤宮くんが、今日イヤホンを襟元に垂らしてこなかったのは。たぶん、今日誰かとちゃんと話すかもしれない、と思っていたからだ。
その「誰か」が、自分なのかどうかについて、ひかりは考えないことにした。考えないことにしながら、彼女はハンカチを両手でそっと受け取った。
「藤宮くん」
「……ん」
「あの、これ、貸しで、いいですか?」
「……は?」
「えっと……、なんていうか、こういうの、その場で『ありがとう』だけで終わらせるの、なんか、もったいないなって、思ったから……」
口が、また勝手に動いていた。
頭よりも、先に唇のほうが、なにか勝手に約束をしようとしていた。
「だから、お返し、また別の日に、なにかでします。なにかで、します、よ、絶対」
「……」
「だから、貸しに、しといて、ください」
藤宮くんは、しばらく黙っていた。
黙ったまま、自分の襟元の、いつもイヤホンが、垂れていた場所を軽くもう一度、押さえた。
そして、ほんの少しだけ、目を伏せて言った。
「……じゃあ、貸しで」
「うん」
「いつ、返してくれんの」
「……それは、藤宮くんが、一番忘れた頃に」
藤宮くんは、ほんの一瞬だけ目を上げて、ひかりの顔を見た。
見て、それから、ふっと、口の端で笑った。
それは、たぶん、教室の藤宮陽人くんの笑い方とは、ちょっと違う、笑い方だった。
「……それ、たぶん忘れない、と思う」
その一言で、ひかりは、廊下の真ん中で、もう一度、心臓のリズムを半拍ズラされた。
そして、廊下の少し離れたところで、全てのやりとりを、最初から最後まで観察していた、黒澤凛さんが、自分の短いボーイッシュな黒髪を片手で、軽くかき上げながら、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こう、つぶやいた。
「『誰にも知られなくていい』の前提、本日付で終了」
そのつぶやきは、廊下の喧騒の中に、すぐに消えていった。
ただ、消える直前、ふたりの心拍の間に、確かに新しいリズムを一つ置いていった。