テラーノベル
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廊下の真ん中で、白いレースのハンカチを女子の手に渡した。
それだけのことが、自分の人生の何かの終わりだった、というのは、たぶん明日の朝になっても、まだ信じられないんじゃないかと思う。
——廊下の真ん中で、白いレースのハンカチを女子の手に渡した。
書き起こしてみると、ただのそれだけだ。
ハンカチを拾ったのは、俺じゃなくても誰でもよかった。タイミングが、たまたま俺だった。
ただ、そのタイミングが、たまたま俺だったことは、たぶんたまたまではなかった。
そして、それを俺は自覚していた。
廊下のいちばん端で、ハンカチが落ちているのを見つけた瞬間に自覚していた。
「あ、これ、落とすために、わざわざ忍ばせてきたやつだ」と。
そして、自覚した上でしゃがんで拾った。それは、たぶん自分のいちばん大事な前提に対する、本日付の署名捺印だった。
「別に、誰にも知られなくていい」
——上記、本日をもって、解除いたします。
そういう書類にサインをした。
そのサインを、たぶん廊下の少し離れた場所から、黒澤凛がずっと見ていた。
放課後、俺と凛はいつもの屋上手前の踊り場にいた。
午後の光は、もうだいぶ傾いていた。
踊り場の窓のガラスに、廊下のいちばん端の自販機の明かりが、ぼんやりと映り込んでいた。凛は、自販機で買ったコーヒー牛乳のパックを両手で軽く潰しながら、こう切り出した。
「藤宮」
「……ん」
「自覚、ある?」
「……どれの、自覚」
「全部」
凛は、自分の短い髪を軽く、耳の後ろにかけた。
かけた拍子に、彼女の目が、ほんの少しだけ、こちらを覗き込むように傾いた。
「『どれの自覚』って言葉が、もう、自覚あるやつの、言い方」
「……」
「自覚なかったら、『なんの話?』だよ、藤宮」
「……黒澤、論理的だな」
「観察員は論理的じゃないと、務まらない」
凛は、コーヒー牛乳の最後の一口を、ずず、と行儀悪く飲み干した。そして、潰したパックを、近くのゴミ箱に、軽く、放り投げた。パックは、きれいにゴミ箱の口の中に入った。
「で?」
「で、ってのは?」
「『誰にも知られなくていい』の前提、お前、今どこに、置いてんの?」
——その質問が、来ることは、わかっていた。
朝、通学路で、凛が言った、あの一文。
————
「『誰にも知られなくていい』の前提、まだ、生きてんのか、死んでんのか、今日ハッキリさせとけよ」
————
俺は、そのうえでハンカチを拾った。
拾ったうえで「貸しに、しといて、ください」と言われて、「じゃあ、貸しで」と答えた。答えたうえで、彼女に対して「たぶん、忘れない、と思う」と、口の端で笑った。
その三回の動作で、たぶん、もう答えは決まっていた。
ただ、決まっている答えを、ちゃんと言葉にするのは、別の難しさがあった。
俺は、自販機の前に軽く、もたれて、しばらく踊り場の窓の外を見ていた。
そして、ようやく、口を開いた。
「……たぶん、ちょっとずつ、置き場所を、変えてる」
「変えてる?」
「『誰にも、知られなくていい』、から」
「うん」
「『誰にも、知られなくていい、けど』」
「……『けど』?」
「『けど、もし、あの子なら、知ってても、いい』」
凛は、ほんの一瞬、黙った。
黙った後彼女は、ふっ、と自分の口元のほうに、軽く左手を添えた。
笑いを、こらえているのか、呆れているのか、どちらとも、つかない表情だった。
「藤宮」
「……ん」
「お前、それ、ロックの解除コードを相手に教えてるのと同じやつだぞ」
「……」
「『誰にも知られなくていい』の前提に『あの子だけは、別』って、例外条項を足しはじめた瞬間、その前提はもう前提として、機能してないから」
「……黒澤、容赦ないな」
「観察員は、容赦も、ない」
凛は、自販機の隣の低いコンクリートの段差に軽く腰を下ろした。俺もその隣に、二人分くらい間を空けて座った。
夕方の踊り場は、誰も来なかった。
ときどき廊下の一番遠くで、運動部の掛け声が、薄くこもった音で響いていた。
「藤宮」
「……ん」
「私、別に、お前のこと、説教したいわけじゃ、ない」
「わかってる」
「私が説教したいのは、お前の『匿名でいたい』っていう全部の前提を、急に自分の意思とは関係ないところで、揺さぶってくる向こうのほうじゃない」
「……」
「説教は、たぶん向こうにこそ、必要なんだけど、こっちが説教したら、それは、ただの嫌な幼馴染だから、しない」
「……黒澤」
「ん?」
「お前、けっこう、優しいな」
「いまさら、気づくな」
凛は、ほんの少しだけ笑った。
笑いながら、自分の膝の上に両手を重ねた。
「で?」
「で、ってのは?」
「お前、『誰にも知られなくていい、けど、あの子なら、知っててもいい』を、これからどうするわけ?」
「……どうする?」
「向こうに、わからせるの?」
「……」
「それとも、わからせないまま、ズルズル行くの?」
俺は、その質問には、すぐに答えられなかった。
答えられないまま、踊り場のコンクリートの少しざらついた感触を、手のひらで軽く撫でていた。
——どうするのか。
土日の間、ずっと考えていたのは、たぶんその一行だった。
考えていた、というよりも、考えるのを避けていた、のかもしれない。
「わからせる」というのは、自分の口で「実は、俺がヨルです」と彼女に、言うということだ。
言ってしまったら、もう戻れない。
「わからせないまま、ズルズル」というのは、彼女の鍵アカが、毎日こっそり、ヨルのプロフィールを覗きにきているのを知っているのに、知らないふりをして、こちらも教室で知らないふりをし続ける、ということだ。
これも、たぶんいつかは、もたない。
「……黒澤」
「ん?」
「『わからせる』と『ズルズル』の間に、もう一個、あったりしないか」
「あるよ、たぶん」
「……あるのか」
「ある」
凛は、即答した。
それから彼女は、自分の膝の上で、軽く人差し指を立てた。
「『わからせる』でも、『ズルズル』でも、ない。第三の道」
「……それ、なに」
「『近づく』」
「……」
「お前は、ヨルだとも、ヨルじゃないとも、言わない」
「……うん」
「向こうも、たぶん一番の正解は聞かない」
「……うん」
「ただ、二人とも『その正解の話に、一番近いところまでは、近づいてもいい』ことにする」
「……」
「『正解』には、絶対に触れない。触れたらたぶん、何かが壊れる」
「……」
「だから、ギリギリその手前まで一緒に歩く」
凛のその言葉は、放課後の踊り場の傾いた光の中で、思っていたよりも、ずっとまっすぐに、俺の耳に届いた。
「……それ、しんどくないか」
「しんどい」
「……即答だな」
「だって、それ。両思いだとわかってるのに、ずっとギリギリ告白しない、みたいな状態だよ」
「……えっ」
「あれ、なに、いま、それわかってない感じだったの?」
「……」
「……藤宮」
「……」
「藤宮陽人くん」
「……黒澤」
「うん」
「『両思い』っていう単語。その文脈で出すの、たぶん早いと思う」
「私のところで、たまたま口から滑っただけだから、忘れて」
「……忘れない」
「忘れろ」
凛は、ほんの一瞬だけ、自分の短い髪の毛先を片手でぎゅっと握った。珍しく、ちょっとだけ、後悔しているような顔だった。
——その瞬間、俺は何故か、こう思った。
たぶん、黒澤凛という女の子が、今、自分の隣で、何か一つ、本気の覚悟を決めかけている。覚悟を決めかけているのに、それを本人より先に、周りに悟られたくないと思っている。
それが、何故なのかは、まだわからなかった。わからなかったけれど、わからないことを、わからないままにしておくのが、たぶん今の俺にできる、一番誠実なことだった。
俺は、それ以上その単語をつつかなかった。
代わりに、こう聞いた。
「凛」
「……ひさしぶりに、下の名前で呼んだね」
「……たまには」
「ん」
「『近づく』、選ぶとしたら」
「うん」
「次、何すりゃいい」
凛は、ほんの少しだけ目を細めた。そして、自分の通学カバンの中から、一冊の薄い文庫本を取り出した。
それはたぶん、ひかりが先週、図書委員のカウンターに返却したあの本だった。
凛は、いつのまにか、それを自分で借りていたらしかった。
「これ、お前が貸し出し処理したやつ」
「……ああ」
「七瀬さんが、先週借りて、ちゃんと返した本」
「……うん」
「読んでみ?」
「……なんで」
「七瀬さんが、付箋、四つ貼ったまま返してた」
「……四つ?」
「うん。たぶん、返却するときに剥がし忘れたんだと、思う」
凛は、その文庫本を、ぱらり、と軽く開いた。ページの間から、半透明の薄い水色の付箋が四枚見えた。
「で、その四つの付箋のページに」
「……」
「全部、ヨルの曲の歌詞の一節と関連してる文章が書いてあった」
「……は?」
「これ、私の妄想じゃ、ないからね」
「……」
「私、ヨルの曲、全部は知らないけど、お前の一番古い曲——『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』の最後のサビの一行は知ってる」
「……うん」
「四つ目の付箋のページの一番下のほうに、その一行と、ほぼ同じ意味のことを書いた文章がある」
俺は、文庫本を凛の手から受け取った。
受け取って、ページをめくった。
四つ目の付箋のページ。
その一番下のほうに、確かに一文があった。
作者の、たぶん一番静かな、ひと文だった。
————
「誰かの夜を、ちゃんと、終わらせてあげられる人間に、わたしは、いつかなりたい」
————
そのページの余白のところに、ごく小さなシャープペンの書き込みがあった。書き込みは、本人が剥がし忘れた付箋のちょうど裏側に、隠れてあった。
————
「ヨルさん、ありがとう。これ、わたしの一番好きな人の言葉と同じです。」
————
字は、教室で、ひかりがノートに書く字とまったく同じ字だった。
俺は、しばらく、その書き込みを見つめていた。
凛は、何も言わなかった。
言わずに、隣で傾いた光の中に、自分の短い髪の毛先を軽く揺らしていた。
「……凛」
「ん」
「これ、わざと見つけたのか」
「ううん。ほんとに、たまたま」
「……たまたま?」
「私が、その本に、興味を持って借りた」
「……どうして」
「七瀬さんが、藤宮の処理した本を選んだ理由が知りたかった、から」
凛のその言葉は、たぶん、彼女自身が今一番、認めたくない白状だった。
それを、彼女は、ちゃんと白状した。
俺は、文庫本のページをそっと閉じた。
閉じる前に、四つ目の付箋を慎重に剥がさずに、ページを元に戻した。
——剥がしたら、たぶん、これは、ひかりが、もう一度、本を借りたときに見つける、彼女の過去の自分への手紙でもなくなる。
「凛」
「ん」
「答え、決まった気がする」
「どっちに」
「『近づく』」
「……うん」
「ただ、『正解』には、絶対触れない」
「うん」
「触れないけど、その手前のところで、向こうがこっちに踏み込んでもいいよ、っていう入り口だけは開けておく」
「……入り口?」
「うん」
「……それ、具体的には、なに」
「……たぶん明日、教室で、もう一回、彼女に話しかける」
「普通に?」
「うん。普通に」
「……『誰にも知られなくていい』、終わるよ?」
「……うん」
「終わって、いいの?」
「……いい、にする」
凛は、しばらく、何も言わなかった。
言わなかったあと、彼女は、ふと、自分の通学カバンの一番奥のほうに、左手を突っ込んだ。そして、ゴソゴソと何か、小さな四角いものを取り出した。
それは、淡い水色の無地のハンカチだった。
「これ」
「……?」
「貸す」
「……いや、ハンカチ持ってる」
「持ってないハンカチ、私からもらったってことにしといて」
「……は?」
「お前、明日、廊下でもう一回、『落としそうな女子』を見かけたら、たぶん自分のハンカチ貸せないでしょ」
「……」
「自分のハンカチを貸すってのは、なんか、いろいろ重い」
「……」
「だから、ニュートラルなハンカチ、一枚持っとけ」
「……黒澤凛、優しすぎないか」
「優しくない。これは観察員の業務支給品」
「……」
「業務支給品、明日以降、無くしたら減給」
「……黒澤」
「ん」
「お前、たぶん今日、お前の中で、なんか本気の一つ決めたな」
「……」
凛は、その質問には答えなかった。
答えない代わりに、彼女は自分のコーヒー牛乳のパックを投げ入れた、ゴミ箱のほうを軽く見ていた。
「……答えたら、たぶん今、私のほうの一番大事な前提、ぶっ壊れるから」
「……」
「藤宮の前提と、おそろいで壊れるの、なんか悔しいから、今日は答えない」
そう言って凛は、自分の短いボーイッシュな黒髪を、もう一度軽く耳の後ろにかけた。
夕方の光の中で、彼女の横顔は、いつもの不愛想な凛と、ほとんど同じ角度だった。
ほとんど、同じ角度だったけれど、その「ほとんど」の一番端のところに、たぶん、生まれて初めての、彼女の別の表情が、ほんの少しだけ滲んでいた。
俺は、それに気づきながら、気づかないふりをして、彼女の差し出した、淡い水色のハンカチをゆっくり受け取った。
受け取りながら、心の中でこう思った。
——「誰にも、知られなくていい」が終わる、ということは。
たぶん「ひとりにだけ、知られてもいい」が始まるということでは、なかった。
本当は、「気づかないうちに、自分のことを、ずっと見ていてくれた、もうひとりの人」のことも、ちゃんと見るようになるということ、なのかもしれなかった。
凛のハンカチは、ほんの少しだけコーヒー牛乳の甘い匂いがした。
俺は、それを自分の通学カバンの一番取り出しやすい、外ポケットにしまった。
しまいながら、ポケットの上からもう一度、手のひらで軽く押さえた。
「……明日、たぶん、廊下通る」
「うん」
「廊下通って、たぶん、もう一回、何か教室で彼女と話す」
「うん」
「話して、たぶん『正解』には、触れない」
「うん」
「ただ、入り口だけは開ける」
「……うん」
「凛、ありがとう」
「うん」
凛は、それ以上、何も言わなかった。
夕方の踊り場の、ゆっくり傾いていく光のなかで、俺たちは、しばらく、何も言わずに同じ景色を見ていた。
その景色の中には、たぶん、もう「誰にも知られなくていい」と言っていたころの、藤宮陽人はいなかった。
代わりに、まだ名前のついていない、別の自分が、ひとり踊り場の段差に座っていた。
そして、その自分の隣の段差に。
たぶん、もうひとり——黒澤凛、という女の子の、まだちゃんと向き合えていない、新しい横顔がいた。
俺は、それに気づきながら、まだ気づかないふりをもうしばらくだけ、続けることにした。
——「誰にも知られなくていい」の終わり方は。
たぶん、ひとりの女の子に、自分の正体を白状するよりも、ずっと静かで、もっと複雑な形をしていた。
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