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#不倫
#離婚
#ヒトコワ
我慢届。
白い書類に記されたその三文字を見た瞬間、美沙は、意味を理解するより先に胸が痛んだ。
夫の嘘。
義母の同意。
共有口座の空白。
妻名義の借入申請。
ここまで返送されてきた書類は、すべて誰かが美沙に隠していたものだった。
だから、次もそうだと思っていた。
航平の新しい嘘。
久枝の新しい言葉。
あるいは、まだ見ぬ誰かの名前。
けれど、申請者欄には、はっきりと自分の名前が書かれている。
申請者 藤代美沙
美沙は窓口の前で、立ち尽くした。
「私が……提出したんですか」
声が、思ったより小さかった。
宮乃は白い手袋の指先をそろえ、静かにうなずいた。
「はい」
「でも、私はこんな書類、書いていません」
「紙には書かれていません」
「じゃあ、どうして」
「心の中で、何度も提出されています」
美沙は、書類から目を離せなかった。
心の中で提出したもの。
そんなものが、役所の書類になるはずがない。
そう思いたいのに、ここが普通の役所ではないことを、美沙はもう知っていた。
宮乃が書類を窓口の受け渡し口へ滑らせる。
「お読みください」
美沙はためらいながら、我慢届を手に取った。
紙は、これまでの書類よりも薄かった。
ほんの少し力を入れれば破れてしまいそうなのに、指先にのせると異様に重い。
上部には、こう書かれていた。
我慢届
婚姻関係維持のため、下記感情を一時保留とする。
その下に、箇条書きで言葉が並んでいた。
寂しい。
疑っている。
傷ついた。
怖い。
悔しい。
分かってほしい。
もう無理。
美沙の喉が詰まった。
それは、どれも口に出せなかった言葉だった。
ある夜、航平が約束の時間を二時間過ぎても帰らなかった。
スマホに連絡しても既読はつかず、ようやく帰ってきた航平は「同僚と飲んでただけ」と笑った。
その時、美沙は言いたかった。
寂しかった。
心配だった。
連絡くらいしてほしかった。
でも航平が疲れた顔をしていたから、言えなかった。
別の日、久枝が親戚の集まりで言った。
「美沙さんは子どもがいない分、若く見えていいわね」
その場は笑いになった。
美沙も笑った。
笑わなければ、空気が冷えると思ったから。
本当は傷ついていた。
でも言えなかった。
また別の日、航平のスマホに知らない女の名前が表示された。
航平は慌てて画面を伏せた。
美沙は気づいていた。
聞きたかった。
誰、と。
でも聞かなかった。
聞いてしまえば、自分が疑り深い妻になると思った。
夫を信じられない女になると思った。
だから、飲み込んだ。
その全部が、いま紙の上に並んでいる。
美沙の手が震えた。
「これ……いつから」
「初回提出日は、婚姻二年目の秋です」
宮乃は淡々と告げた。
婚姻二年目。
美沙はすぐに思い出せなかった。
けれど、書類の二枚目をめくると、そこに日付と内容があった。
提出理由
夫の帰宅遅延について問いただしたところ、申請者が謝罪し終了。
保留感情
不安。孤独。怒り。
美沙は目を閉じた。
思い出した。
あの夜、航平は午前一時過ぎに帰ってきた。
まだ不倫を疑うような時期ではなかった。
ただ、連絡がなくて心配だった。
「心配した」と言うと、航平は面倒くさそうに言った。
「仕事の付き合いって言っただろ。そんなことでいちいち責められると帰りたくなくなる」
美沙は慌てて謝った。
「ごめん。責めたつもりじゃないの」
そう言って、温め直した味噌汁を出した。
あの時からだったのか。
美沙は、自分の怒りに蓋をするたび、こういう書類を出していたのだ。
宮乃が言う。
「我慢届は、家庭維持を目的とした一時的な保留申請です。本来は短期処理が前提です」
「短期……」
「しかし、あなたの場合、更新が続いています」
宮乃は、もう一枚の書類を出した。
そこには、更新履歴がずらりと並んでいた。
更新一回目 夫の不用意な発言を保留。
更新二回目 義母の発言を保留。
更新三回目 夫の外泊理由への疑念を保留。
更新四回目 金銭管理への不安を保留。
更新五回目 自己判断への不信を保留。
更新。
まるで免許証や契約書のように、美沙は我慢を延長してきた。
誰にも頼まれていないと思っていた。
でも本当は、頼まれていた。
夫の機嫌に。
義母の価値観に。
世間の「妻なら」という言葉に。
そして、自分自身の中の「壊したくない」という恐怖に。
「私は……私が我慢すれば、うまくいくと思っていました」
美沙は書類を握りしめた。
「私が言わなければ、喧嘩にならない。私が笑えば、航平も普通に戻る。私が気にしなければ、家は壊れないって」
宮乃は黙って聞いていた。
「でも、違ったんですね」
美沙の声が震えた。
「私が我慢している間に、夫は嘘を増やしてた。義母は黙認してた。お金も、私の名前も、勝手に使われようとしてた」
口にするほど、胸の奥が焼けるようだった。
自分が守っていたと思っていたものは、何だったのか。
家庭。
夫婦。
穏やかな暮らし。
妻としての体面。
でも、その下で、美沙自身は少しずつ削られていた。
書類の最後に、赤い文字があった。
この届出が有効な限り、離婚届は受理されません。
美沙は、その一文から目を離せなかった。
「どうして……」
声が漏れた。
「どうして、これがあると離婚届が受理されないんですか」
宮乃は、窓口の上に両手をそろえた。
「あなたが、ご自身の苦痛を保留扱いにしているためです」
「保留……」
「離婚届は、関係の終了を申請する書類です。しかし我慢届が有効な場合、あなたの中ではまだ『終わらせないための処理』が継続しています」
美沙は唇を噛んだ。
「つまり、私がまだ我慢しようとしているから?」
「はい」
短い返事だった。
その短さが、胸に刺さった。
美沙は怒りたかった。
航平に。
久枝に。
瀬名里緒という女に。
夜間窓口という奇妙な場所に。
でも、この書類だけは、自分に向いている。
責められているのではない。
暴かれている。
美沙は、自分がまだどこかで思っていたことに気づいた。
航平が謝れば。
不倫をやめれば。
義母が分かってくれれば。
お金のことも説明してくれれば。
まだ戻れるのではないか。
そのかすかな期待が、自分をここに縛っている。
「私は、馬鹿ですね」
美沙は小さく笑った。
笑ったつもりだったのに、涙が落ちた。
「こんなにされても、まだどこかで、元に戻れるかもって思ってる」
「それは馬鹿ではありません」
宮乃が言った。
美沙は顔を上げた。
宮乃の表情は変わらない。
でも、その声はほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
「長く続いた生活を終わらせるには、時間が必要です」
「でも、その間に私は、自分をなくしてきた」
「はい」
否定してくれない。
でも、それがよかった。
同情の言葉より、正確な言葉の方が、今の美沙には必要だった。
宮乃は、我慢届の下部を指した。
「こちらは、現時点では取り下げできません」
「どうしてですか」
「あなたが、まだ本当の提出理由を確認していないためです」
「提出理由なら、ここに書いてあります」
「表面上の理由です」
宮乃は、奥の棚から細い紙片を取り出した。
そこには、短い一文だけが印字されていた。
本当の提出理由
私は、ひとりになるのが怖い。
美沙は息を止めた。
その一文は、どんな罵声よりも鋭かった。
ひとりになるのが怖い。
認めたくなかった。
夫が好きだから我慢しているのだと思いたかった。
家庭を守りたいからだと言いたかった。
世間体や義母の言葉のせいにしたかった。
でも、その奥にあったのは、たしかにそれだった。
ひとりになるのが怖い。
離婚したら、どこへ行くのか。
お金は足りるのか。
親戚に何を言われるのか。
年齢的に、もう誰にも必要とされないのではないか。
夫に選ばれなかった女として、生きていくのではないか。
怖かった。
だから、我慢してきた。
航平を許したのではない。
自分の恐怖から目をそらすために、怒りをしまい続けてきた。
美沙は、紙片を胸に押し当てた。
「私は……離婚したいんじゃなくて」
言葉が途切れる。
宮乃は待っていた。
「私は、自分が間違っていなかったって、誰かに言ってほしかっただけなのかもしれません」
「それも、提出可能です」
宮乃は静かに言った。
「ただし、その書類に受理印を押せるのは、他人ではありません」
美沙は宮乃を見た。
「私ですか」
「はい」
宮乃は、我慢届を丁寧に折りたたみ、白い封筒に入れた。
「本日は確認までです。取り下げは、最終受付時に可能となります」
「最終受付……」
「その時までに、ご自身の意思を確認してください」
自分の意思。
その言葉は、簡単そうで、とても遠かった。
美沙は封筒を受け取った。
封筒の表には赤い印が押されている。
保留中
その二文字が、今の美沙そのものだった。
帰宅したのは、午前三時近くだった。
航平はまだ帰っていなかった。
飲みになった。
遅くなる。
そうメッセージを寄こしたまま、連絡はない。
以前なら、美沙は心配していた。
スマホを握りしめ、事故ではないか、体調を崩していないかと考えていた。
でも今は、ただ静かに時計を見た。
午前三時十二分。
その時、玄関の鍵が開いた。
航平が帰ってきた。
酒の匂い。
冷たい外気。
そして、かすかな香水。
美沙はリビングに座っていた。
航平は驚いた顔をした。
「起きてたのかよ」
「うん」
「寝てればいいのに」
航平は靴を脱ぎながら、面倒くさそうに言った。
「また疑ってる?」
美沙は、我慢届の封筒を膝の上に置いたまま、航平を見た。
言いたいことは山ほどあった。
どこにいたの。
誰といたの。
私の名義で何をしようとしたの。
どうして嘘ばかりつくの。
けれど、そのどれより先に、別の言葉が出た。
「私、今までずっと我慢してた」
航平は眉をひそめた。
「は?」
「でも、それをあなたは、普通だと思ってたんだね」
「何の話?」
美沙は首を振った。
「今日は、まだいい」
「意味分かんないんだけど」
「私も、やっと分かりかけてるところ」
航平はしばらく美沙を見ていたが、やがて舌打ちした。
「疲れるな、本当に」
その言葉に、美沙の胸は痛んだ。
でも、謝らなかった。
航平が寝室へ入ったあと、美沙は封筒を開けた。
我慢届。
保留中。
その下に、小さく追記が増えていた。
次回返送予定
不倫相手からの未提出証言
美沙は目を見開いた。
瀬名里緒。
夫の嘘の向こうにいた女。
敵だと思っていた名前が、今度は書類の中からこちらを見返していた。
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