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不倫相手からの未提出証言。
我慢届の封筒に増えていたその一文を、美沙は朝まで何度も見返した。
瀬名里緒。
航平とホテルに行った女。
夫の嘘の向こうにいた女。
美沙の生活に、知らないうちに入り込んでいた女。
その名前を見るだけで、胸の奥がざらついた。
怒り。
嫌悪。
嫉妬。
惨めさ。
いくつもの感情が、喉の奥で絡まった。
けれど同時に、夜間窓口の書類は「未提出証言」と記している。
証言。
それは、里緒が何かを知っているということだ。
航平の嘘を。
あるいは、美沙の知らない航平の顔を。
美沙はスマホを手に取った。
瀬名里緒の名前は、前に検索していた。
同姓同名の中から、航平の仕事関係らしき女性を見つけた。
不動産会社の関連イベントの写真に、航平と並んで写っている女性。
肩までの髪。
細い首。
明るいベージュのジャケット。
写真の中の彼女は、航平の横で控えめに笑っていた。
若い。
美沙が最初に思ったのは、それだった。
自分より九つ年下。
肌も、髪も、表情も、まだ疲れていない。
その事実が、ひどく残酷に見えた。
美沙はメッセージを打った。
突然のご連絡失礼します。
藤代航平の妻、藤代美沙です。
お話ししたいことがあります。
送信ボタンの上で、指が止まる。
送れば、もう戻れない。
妻として、不倫相手に連絡することになる。
惨めではないか。
必死すぎるのではないか。
相手に笑われるのではないか。
そう思った瞬間、美沙は自分の中の古い声に気づいた。
騒ぐな。
みっともない。
妻なら冷静に。
家庭の恥を外へ出すな。
美沙は小さく息を吸った。
もう、我慢届は増やさない。
送信した。
返事は、思ったより早かった。
奥様、ですか?
それだけだった。
文字からでも、動揺が伝わってきた。
美沙は続けた。
はい。
直接お会いできますか。
航平のことで確認したいことがあります。
数分後、返信が来た。
私も、確認したいことがあります。
その一文を見た時、美沙の胸がわずかにざわめいた。
私も。
里緒もまた、何かを疑っているのか。
二人は翌日の午後、駅前のカフェで会うことになった。
美沙は、約束の三十分前に着いた。
窓際の席に座り、水のグラスを見つめる。
氷が少しずつ溶けて、からん、と音を立てた。
スマホの中には、レシートの写真、通帳の写真、ホテルのポイントカードの写真、そして夜間窓口の書類の写真がある。
ただし、夜間窓口の書類だけは見せないつもりだった。
見せても、信じてもらえるはずがない。
午後二時ちょうど。
店の入口に、写真で見た女性が現れた。
瀬名里緒。
実物の彼女は、写真よりも疲れて見えた。
目の下に薄い影があり、髪も少し乱れている。
美沙を見つけると、一瞬足を止め、それからまっすぐ歩いてきた。
「藤代さん、ですか」
「はい。美沙です」
里緒は小さく頭を下げた。
「瀬名です」
その声は、思っていたより低く、震えていた。
二人は向かい合って座った。
注文を取りに来た店員に、美沙はコーヒーを、里緒は紅茶を頼んだ。
店員が去るまで、二人とも何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、美沙だった。
「夫と、ホテルに行きましたよね」
言ってしまうと、胸が焼けた。
里緒の顔が青ざめる。
「……はい」
否定しなかった。
そのことに、美沙の中で怒りが跳ねた。
「いつからですか」
「三か月くらい前からです」
「三か月」
声が硬くなった。
三か月。
その間、美沙は夕食を作り、洗濯をし、義母の煮物を受け取り、航平の「残業」を信じようとしていた。
「あなた、夫が結婚していることを知っていましたよね」
里緒は唇を噛んだ。
「知っていました」
「じゃあ、どうして」
美沙の声が少し大きくなった。
周囲の客が一瞬こちらを見た。
それでも止められなかった。
「どうして、平気で人の夫と」
「平気じゃありません」
里緒も顔を上げた。
「平気だったわけじゃありません」
「でも会っていた」
「奥様とは、もう終わっているって聞いていました」
美沙は動きを止めた。
「終わっている?」
「離婚協議中だって。家ではほとんど会話もない、奥様も離婚に同意しているって」
「私は、そんな話を一度もしていません」
里緒の顔から血の気が引いた。
「……え」
「離婚協議なんてしていません。夫婦仲が終わっているなんて、少なくとも私は聞いていません」
「でも、航平さんは」
「航平さん」
その呼び方に、美沙の胸が刺されたように痛んだ。
里緒も気づいたのか、視線を落とした。
「すみません」
「謝るなら、呼び方じゃないです」
美沙は自分でも驚くほど冷たい声で言った。
里緒の指が、紅茶のカップに触れた。
けれど飲まない。
「私、言われてました。奥さんが精神的に不安定で、何を言っても責められるって。だから離婚を切り出すタイミングを見ているって」
美沙の背筋に冷たいものが走った。
妻異常申告書。
まだ返送されていない書類の気配が、遠くから近づいてくるようだった。
「私が、不安定?」
「はい。だから、奥様には刺激を与えたくないって。ちゃんと別れるから待ってほしいって」
「それを信じたんですか」
責める言葉だった。
でも、里緒はすぐには反論しなかった。
「信じたかったんだと思います」
その答えに、美沙は一瞬黙った。
信じたかった。
それは、美沙にも覚えのある感情だった。
夫の残業を信じたかった。
ホテルのレシートにも理由があると信じたかった。
義母の優しさを信じたかった。
信じたいものを信じるとき、人は都合の悪いものを見なくなる。
里緒はバッグからスマホを取り出した。
「これ、見てください」
画面には、航平とのメッセージが開かれていた。
美沙とはもう夫婦として終わってる。
でもあいつ、急に泣いたり怒ったりするから、慎重に進めたい。
里緒といる時だけ、本当に息ができる。
離婚届は準備してる。
あとは美沙を納得させるだけ。
美沙は、画面の文字を見つめた。
あいつ。
航平は、美沙をそう呼んでいた。
妻として十二年一緒に暮らしてきた相手を、他の女の前で、あいつ、と。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
「これ、保存してもいいですか」
美沙が聞くと、里緒はうなずいた。
「送ります」
「どうして」
「私も、騙されていたなら……知りたいんです。何が本当だったのか」
里緒の目に、涙が浮かんでいた。
美沙は、その涙を見ても、すぐには同情できなかった。
彼女は夫とホテルに行った。
その事実は消えない。
けれど、航平がついていた嘘もまた、消えない。
「あなたを許すつもりはありません」
美沙は言った。
里緒は目を伏せた。
「はい」
「でも、夫の嘘を確認するために、協力してほしいです」
「分かりました」
里緒は小さくうなずいた。
「私が持っているものは、全部出します」
その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちた。
店内には、カップが置かれる音、コーヒーマシンの蒸気音、隣の席の笑い声があった。
その普通の音の中で、美沙は不思議な感覚に襲われていた。
目の前にいる女は、敵だ。
でも、敵だけではない。
航平の嘘の中にいた、もう一人の人間だった。
里緒がぽつりと言った。
「奥様」
「美沙でいいです」
美沙は反射的に言ってから、自分で少し驚いた。
里緒も驚いた顔をしたが、すぐに小さくうなずいた。
「美沙さん。航平さん、前にも同じことをしていたかもしれません」
美沙は顔を上げた。
「前にも?」
「私、最初は知らなかったんです。でも一度、酔った時に言っていて」
「何を」
「昔、結婚寸前までいった人がいたって」
美沙の指が、膝の上で固まった。
そんな話、聞いたことがない。
「でも、その人が精神的に不安定になって、別れたって言ってました。お金のことでも揉めたって」
精神的に不安定。
お金。
美沙の中で、点が線になりかける。
里緒は震える声で続けた。
「その時は、ひどい人に引っかかったんだと思っていました。でも今は……」
言葉が途切れた。
美沙は続きを引き取った。
「その人も、夫に壊されたのかもしれない」
里緒は答えなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
カフェを出る頃には、空が曇っていた。
里緒は別れ際、美沙に深く頭を下げた。
「すみませんでした」
美沙は、その謝罪を受け取れなかった。
受け取るには、まだ痛みが生々しすぎた。
「謝罪は、今は置いておきます」
美沙は言った。
「必要なのは、証拠です」
里緒は涙をこらえながら、うなずいた。
家に帰ると、里緒からメッセージ履歴が送られてきていた。
航平の言葉。
美沙への悪口。
離婚協議中という嘘。
里緒への甘い言葉。
そして、過去の女性についての断片。
美沙はそれを一つずつ保存した。
怒りはあった。
でも、それ以上に、寒気がした。
航平は、その場その場で嘘をついているのではない。
人を孤立させ、悪者にし、自分が被害者のように見えるよう準備している。
夜、航平は何も知らずに帰ってきた。
「今日、何してた?」
靴を脱ぎながら聞いてくる。
美沙は平静を装って答えた。
「友達と会ってた」
「千尋さん?」
「ううん」
「誰」
航平の声が、少し硬くなった。
「昔の知り合い」
美沙はそれ以上言わなかった。
航平はしばらく美沙を見ていた。
何かを探るような目だった。
「最近、隠し事多くない?」
美沙は思わず笑いそうになった。
隠し事。
その言葉を、航平の口から聞くことになるとは。
「そう見える?」
「見える」
「あなたに似たのかも」
航平の顔が、はっきりとこわばった。
美沙はそれ以上言わず、台所へ向かった。
その夜、午前零時。
美沙は夜間窓口へ行った。
宮乃は、いつものように座っていた。
「不倫相手からの未提出証言を確認しました」
美沙はスマホの画面を見せた。
メッセージ履歴。
里緒の証言。
過去の女性の話。
宮乃は静かにうなずき、書類に赤い印を押した。
確認済
その瞬間、窓口の奥で、古い棚が軋む音がした。
今までで一番、低い音だった。
宮乃は新しい書類を取り出した。
紙は白い。
けれど端に、薄い灰色の染みがあった。
表題には、こう書かれていた。
前婚約者未受理記録
美沙は息を止めた。
「前婚約者……?」
「ご主人が、過去に提出しなかった記録です」
宮乃は書類を窓口へ置いた。
その下部には、赤い文字が浮かんでいる。
同一手口の可能性あり。
美沙の指先が冷たくなった。
航平の嘘は、今の美沙だけに向けられたものではなかった。
もっと前から、繰り返されていた。
誰かを選び、信じさせ、孤立させ、最後に壊す。
宮乃は静かに告げた。
「次の返送は、ご主人の前の未受理です」