テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
コメント
1件
いや~~~~~東雲先生、かっこよすぎるだろ!!!「歯は嘘をつかない」ってタイトル、最高に刺さった。左手のペンだこ見抜くところ、医者の観察力って怖いな……と思ったら、過去の患者さんの話で一気に信用できる人になった。「生きるための嘘なら見なかったことにする」、この線引きがまた痺れるわ。 最後の「知らない女だった」って鏡のシーンも、声出せない描写も切なくて、もう次が気になって仕方ない。澪の復讐、絶対成功させてほしい🔥
形成外科医の東雲遥は、ノックと同時に入ってきた。
白髪まじりのベリーショートに、黒縁の眼鏡。白衣の下に、灰色のパーカーを着ている。
彼女は丸椅子に腰を下ろすなり、ファイルを膝の上で開いた。
「東雲。あんたの顔と喉を担当する。前置きは嫌いだから、先に結論から言うよ」
ペン先で、自分の頬骨のあたりを叩く。
「頬から顎にかけて、皮膚を移植する。鼻筋も作り直す。何回かに分けて切る。それで、普通に暮らせる顔にはなる」
一度言葉を切り、私の目をまっすぐに見た。
「でも、元の顔には戻らない。写真を持ってきてくれれば、近づけることはできるけどね」
私はメモ帳を引き寄せ、ペンを握った。
まえの かおに にせないで ください
東雲は紙を読み、眉間にしわを寄せた。
「普通は、逆を頼むんだよ」
私は首を振り、もう一度、同じ行を指で押さえた。
東雲はしばらく黙っていた。
それから、ファイルの間から数枚の紙を抜き出し、テーブルに並べた。
私がこの数日、看護師に渡してきたメモだった。
「みず」「いたい」「ありがとう」。
その横に、もう一枚。
佐伯凛さんのバッグに入っていた、履歴書の控えのコピーだった。
「身元を確かめるとき、警察がこれをコピーしていった。字ってのはね、顔より正直なんだよ」
東雲は二つの字を、ペンの尻で順番に指した。
「この履歴書の字は、右利きの字だ。とめとはねの向きでわかる。あんたのメモは、全部左で書いてる。右手は、包帯も何もしてないのにね」
それから、私の左手を取った。
中指の第一関節に、硬いペンだこがある。
「三十年、右で書いてきた人間の手じゃない」
病室が、しんとした。
「あんた、誰」
*
前の日に、警察の人が来ていた。
無精ひげの刑事で、ミントのガムの匂いがした。事故の前後のことを聞かれ、私は首を振った。何も覚えていない、と紙に書いた。
刑事は、手帳に一行だけ書いて帰っていった。
医者は、刑事よりずっと手強かった。
私はメモ帳を一枚めくった。
ペンを左手に持ち替える。もう隠しても仕方がなかった。
私は書いた。
御影澪であること。十一月二十日の夜、書斎の声を聞いたこと。ブレーキ。二億の保険。録音したレコーダーを、あの家のリフトの底に置いてきたこと。坂の途中で拾った女の人が、私の代わりにハンドルを握ってくれたこと。私のコートを着たまま、運転席で死んだこと。
字はどんどん崩れていった。
途中で何度も手が止まり、そのたびに東雲は黙って待った。
最後の一枚を書き終えたとき、私の手のひらは汗で湿っていた。
東雲は全部を、二度読んだ。
紙をそろえて膝に置き、窓の外を見た。冬の曇り空だった。
「警察に行きな」
私は首を振り、メモ帳に書いた。
しょうこが ない
録音は、あの家の中だ。車は燃えた。いま私が「私は御影澪です」と言っても、包帯の下の顔は誰にも確かめられない。
そして、真っ先に知らせが行くのは夫だ。
東雲は長いため息をついた。
それから、ぽつりと言った。
「歯は嘘をつかない」
私は顔を上げた。
「顔は焼けても、歯は残る。治療の跡も、詰め物の形もね。いつか自分が誰か、はっきりさせたいなら、歯医者のカルテを押さえておきな。どこの歯医者に通ってた?」
私は、白樺台の駅前にある小さな歯科医院の名前を書いた。
東雲はそれを、自分の手帳に書き写した。
「それから」
東雲は眼鏡を押し上げた。
「黙っててやる。ただし、条件がある」
ペンで、一つずつ空中に数えていく。
「一つ。手術も通院も、絶対に途中でやめないこと。二つ。危ないと思ったら、昼でも夜中でも、私に連絡すること。三つ」
そこで、少しだけ声が低くなった。
「死ぬための嘘なら、つかせない。生きるための嘘なら、私は見なかったことにする。どっちなのか、ちゃんと自分で決めな」
私は、メモ帳の端に書いた。
いきるため
東雲は、ふん、と鼻を鳴らした。
「じゃあ、黙っててやるよ」
それから、東雲はファイルを閉じた。
「カルテには、こう書く。佐伯凛、三十歳。顔面と頸部に熱傷。皮膚移植による再建。……わかる? これから先、誰かがあんたの顔と免許証の写真を見比べて『違う』って言っても、このカルテが『違って当たり前だ』って答えてくれる」
医者の書く紙が、私の盾になる。
私はゆっくりうなずいた。
「なんで、そこまでしてくれるのか、って顔だね」
東雲は眼鏡を外し、レンズを白衣の裾でぬぐった。
「昔、顔を殴られて運ばれてきた患者がいた。旦那にやられたって、本人は最後まで言わなかったけどね。私は縫って、きれいに治して、家に帰した」
眼鏡をかけ直す。
「三か月後に、また運ばれてきた。今度は、縫う必要がなかった」
それ以上、東雲は何も言わなかった。
言わなくても、わかった。
その瞬間、喉の奥から何かがせり上がってきた。
声は出なかった。出ないまま、涙だけがあふれて、包帯の内側にしみこんでいった。
事故の夜から、誰にも言えなかった。
夫に嘘をつき、刑事に嘘をつき、看護師に知らない名前で呼ばれ続けて、私はずっと一人だった。
東雲は、ティッシュの箱を私の膝に置いた。
慰めの言葉は、一つも言わなかった。
「泣くのは縫い終わってからにしな。いま泣くと、包帯の下が蒸れて治りが遅くなる」
それでも涙は止まらなかった。
東雲は窓の外を見たまま、私が泣き止むまで、黙って丸椅子に座っていた。
*
手術は、十二月のうちに三回あった。
麻酔から覚めるたびに、顔のどこかが新しく痛んだ。
病室のテレビは、年末の帰省ラッシュを伝え、それから正月の初詣の映像を流した。
御影の家では、今年はお節を誰が作ったのだろう。
陽翔は、黒豆を食べただろうか。私が毎年、三日かけて煮ていた黒豆を。
考えないようにしても、手が勝手に、ありもしない鍋の火加減を確かめようとした。
喉のほうは、少しずつ声が戻ってきた。
けれど、戻ってきたのは前の声ではなかった。低く、かすれて、どこか乾いた声。
「お茶」と言っても、「おはよう」と言っても、知らない人がしゃべっているように聞こえた。
言語聴覚士の先生と、発声の練習をした。
あ、い、う、え、お。ゆっくり息を吐きながら、喉を開く。
一番難しいのは、笑うことだった。笑い声を出そうとすると、喉が引きつって咳になる。
「笑い方は、そのうち戻りますよ」
先生はそう励ましてくれた。
私は、戻らなくていいと思った。前の私の笑い声を、あの家の人たちは知っている。
夜、誰もいない病室で、私は小さな声で練習した。
「はじめまして。佐伯凛と申します」
何度も、何度も。
自分の口から出る他人の名前に、舌が慣れるまで。
*
抜糸の日、東雲は手鏡を持ってきた。
「見る?」
私はうなずいた。
最後のガーゼが外され、冷たい空気が頬に触れた。
東雲が、鏡をこちらへ向ける。
切れ長の目。
細く通った鼻筋。
頬骨が高く、顎の線が鋭い。首筋には、赤く引きつれた火傷の痕が、襟の奥まで続いていた。
丸い顔も、垂れた目尻も、どこにもなかった。
私は鏡に手を伸ばし、そっと頬に触れた。
鏡の中の女も、同じように頬に触れた。
知らない女だった。