テラーノベル
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終業後、私は高瀬君の車に揺られていた。
一度自宅に戻って
最低限の着替えを詰め込んだキャリーバッグを引き出し、逃げるように彼の車に乗り込んだ。
バックミラーを何度も確認する高瀬君の横顔を見て
ようやく肺の奥まで空気が吸い込めるような気がした。
「着きました。ここです」
案内されたのは、都心のオフィス街から少し離れた、静かな住宅街に佇む高層マンションだった。
重厚なエントランスを抜け、二重のオートロックを通過する。
エレベーターが静かに上昇する間
密室の中で二人の肩が触れ合いそうになるたびに、私は心臓が跳ねるのを必死に抑えていた。
「どうぞ。男の一人暮らしなんで、散らかってますけど」
開かれたドアの先は、想像以上に整然とした空間だった。
モノトーンで統一されたインテリア、無駄なもののないリビング。
そして、ふわりと漂うのは、彼と同じ、清潔感のあるシトラスと石鹸が混ざったような香り。
「全然……綺麗じゃない。…というか、モデルルームみたい」
「先輩にそう言ってもらえると、昨日から必死に片付けた甲斐がありました」
「昨日からって……来るの分かってたの?」
私が尋ねると、彼は少しバツが悪そうに笑って、キッチンカウンターに荷物を置いた。
「……来てほしかったので」
その言葉の響きに、喉の奥がキュッと締まる。
彼は「お茶、淹れますね」と言ってキッチンへ向かった。
私は借りてきた猫のように、リビングのソファの端に腰を下ろす。
会社のデスクで隣り合っている時とは、全く違う空気感。
テレビもつけていない静寂の中で、お湯の沸く音だけが響く。
「……高瀬君」
「はい?」
「ありがとう。私、本当はすごく怖かったの……一人で夜を過ごすのが、あんなに恐ろしいなんて思わなかった」
キッチンから戻ってきた彼は、マグカップをテーブルに置くと、そのまま私の隣に腰を下ろした。
昨夜、私の部屋のサイドテーブル越しに感じた距離よりも、ずっと近い。
「……もう大丈夫です」
彼は迷いなく、私の手を包み込んだ。
大きく、節くれだった、男らしい手。
その温もりが伝わってきた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
「ここにいる間は、あの男のことなんて忘れてリラックスしてくださいね」
向けられた瞳の熱に、私は抗う術を知らなかった。
安全なはずの「聖域」で
別の意味での鼓動の速さに、私はただ静かに目を伏せることしかできなかった。
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おまる