春の風が、林檎の若木を揺らしていた。 冬のあいだ死んだように雪をかぶり、細く骨ばったシルエットをさらしていた枝々は、少し前までは甘い香りを放つ白く可憐な花々で彩られていた。だが今は、白い花が数輪、その名残をとどめているに過ぎない。
代わりのように、花が散ったあとには、青く小さな膨らみがいくつも顔を覗かせていた。
初めての実りに向けて、六年前に植えられた種から育てられた木々が、ようやく命の循環を見せはじめたのだ。
「……庭師のジャンが言ってました。花がつくまでに六年掛かったらしいです」
リリアンナの専属侍女ナディエルが、枝を見上げながら静かに微笑んだ。
淡い光に透ける花弁を、指先でそっと撫でる。
「まるで――お嬢様の成長を待っていたようですわ」
「え?」
リリアンナが顔を上げると、ナディエルは首を振って小さく笑った。
「いいえ、なんでも。……今年はきっと、たくさん実がなりますよ」
「なるかしら?」
「ジャンが手塩に掛けてお世話しているんですもの。絶対豊作です!」
ナディエルはギュッとリリアンナの手を握るとニコッと微笑んだ。
「実がなったらまずはそのまま食べますよね? きっとジャムにしても……赤い実ならば綺麗な林檎ジャムができますよ? 楽しみです!」
イスグラン帝国の林檎は青りんごが多く、そもそも赤い実を見ること自体が少ないのだ。
ナディエルが料理長ナスバクの手腕を称えながら続ける。
「リンゴの皮を一緒に入れると綺麗な赤色を付けられるだろうってナスバクが!」
「それは楽しみね」
ナディエルの嬉し気な様子に、リリアンナも自然と笑顔になる。
「そうしたらスコーンを沢山焼いてもらいましょう! クロテッドクリームと林檎ジャムでティータイムとかすっごく楽しそうじゃないですか?」
幼い頃に食べたミチュポムの実は甘酸っぱくてとても美味しかった。
(あの味をもう一度感じたいな)
リリアンナの味覚は未だ戻っていない。
ナディエルと一緒に、心の底からティータイムを楽しめる日は、自分にもくるのだろうか?
そう考えると一抹の不安が胸に広がる。
柔らかな風が吹き抜け、散り際の花が二人の肩をかすめて舞った。
(ランディ)
春になり雪解けが進むとともに、ランディリックがこの城を空ける率が増えた。国境警備が忙しくなり、砦の方へ詰める割合が増えるのだ。
それは例年のことのはずなのに、何だか今年はいつになく心がざわついてしまう。心身ともに、色々変化があり過ぎたからだろうか。
リリアンナは胸元を押さえ、かすかな熱を覚える心を抑えつけた。
あの木と同じように、自分のなかにも確かに変化がある。
けれどその名を、まだ誰にも告げることができなかった。
花の香りは甘く、どこか鉄のような匂いを帯びていた。
ナディエルはその匂いに気づきながら、なにも言わずに少女の背へそっと手を添える。
「さて、そろそろ行きましょうか、お嬢様。クラリーチェ様がお待ちです」
そう促されて、リリアンナはうなずいた。
振り返ると、風に揺れる白い花の向こうで、小さな影が枝の先に落ちていた。
――それは、まだ名も知らぬ“種子”の影。
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ランディ、不在?