コメント
1件
寒そう!
ランディリックが治める辺境ニンルシーラには、敵対するマーロケリー国との国境を隔てるように、モビ山脈が長い影を落としている。
その山裾を抱くように、針葉樹の海――エルドヘイムの森が広がっていた。
エルドへイムの森は黒褐色のエルカスギが外縁を囲み、内へ進むにつれて蒼灰のシルヴェンマツやルーンモミが混じり始める。そうして、やがて最奥に霜と霧に閉ざされたヴァルナモミの群生が眠る場所へと続いていくのだ。
昼でも陽光はほとんど届かず、森の奥では風すら木々に吸い込まれて無風状態。だが、ざわざわという枝葉のざわめきで、外界に吹き付ける風の気配だけは伝わってくるから、慣れない者が迷い込めば、それだけで気が狂いそうなぞわぞわとした気持ちに包まれてしまう。
その深淵の静けさをやわらげるように、モビ山脈の裾野からエルドヘイムを抜けた先にエルダン高原が広がっていた。
岩と雪に覆われたその地は、春になっても白く、吹きすさぶ風が季節の境を曖昧にする。
溶けきらぬ雪が斑に残り、岩肌を伝う水流が朝の光を鈍く反射している。
風は山の影を渡って冷たく、谷を越えるたびに鋭さを増していく。
そんなエルダン高原の最奥――エルドヘイムの森との境目に、岩と鉄で組まれたヴァルム要塞が、沈黙をまとって立っていた。
厚い石壁の外側には氷の筋が残り、砦の上に掲げられたイスグラン帝国旗は、風を裂くように鳴っている。
そんな風の強いヴァルム要塞のなかでもひときわ風が荒れる塔上の見張り台に、黒い外套をはためかせ、銀髪を風に乱されながら立つ男がひとり。
ランディリック・グラハム・ライオール――。
ここ、ニンルシーラの辺境伯だ。
ランディリックの吐く息は白い。なのに寒さなんてものともしないみたいに、彼は堂々と要塞下を走るノルディア街道を見つめていた。ランディリックの肩には風と共に吹き付けられた雪が降り積もっていたけれど、それを払おうともせず、遠くの山並みに目を凝らしている。
山脈の向こう、ノルディア街道が伸びる先はマーロケリー国――。
今は雪に閉ざされていても、やがて夏の陽光とともに交易路が再び開かれる。
今は静かに山肌へ身を横たえているだけの街道だが、その平穏がいつまで続くかは、誰にも分からない。
近衛長官ディアルトの声が、背後から静かに響いた。
「閣下。哨戒からの報告です。北東の斜面で狼の群れが確認されました」
「群れか」
「はい。今のところ砦からは離れていますが……」
「放っておけ。春先にはよくあることだ」
ランディリックの声は落ち着いていたが、濃い紫水晶のような瞳の奥には微かな疲労が宿っていた。