莉子の中には18歳の私と35歳の私が居た。35歳、直也との結婚生活になんの不満も無かった。子どももいつか自然に授かるものだと話し合い、恵まれる事がなければ2人で歳を重ねてゆこうと誓い合った。
ーーー穏やかな日々
にも関わらず18歳の初恋をクッキー缶に秘め蔵之介に恋焦がれ涙して来た。
(ズルい女だわ)
莉子は直也と育んで来た夫婦としての愛情と、突然現れたかつての恋人との恋情の間で揺らいでいた。
(直也の事を愛している、蔵之介の事も愛している)
然し乍ら初恋と美しく上辺を飾り立てても莉子は水曜日を心待ちにする不貞な女である事に変わりは無かった。
「直也、あのね」
「如何したの」
「あのね」
「言いたい事があるなら言ってよ」
莉子の帰宅が遅れたあの日から直也の機嫌は宜しく無い。水曜日、直也に何も告げずに外出しようかとも思ったが万が一自宅に居ないと分かれば色々と勘繰られると思った。
「あのね、水曜日にスポーツジムの無料体験に行こうと思っているんだけど良いかな」
「莉子が運動なんて珍しいね、何処の」
「泉ヶ丘いずみがおかのコンビニエンスストアの」
「あぁ、潰れたコンビニね」
「体験って何回くらい行くの?」
「んー分かんない、面白かったら通うかな」
「分かった、気を付けてね」
「気を付けるって大袈裟ね」
「普段運動していないんだから、準備体操は大事だよ」
「分かった」
莉子はスポーツジム無料体験の申込用紙に名前を書き、緊急連絡先に直也の携帯電話番号を記入し印鑑を捺して貰った。水曜日、蔵之介の部屋を訪れる為に嘘と本当を微妙に混ぜ合わせた。
念の為一度連絡を入れた。
「蔵之介、いる?」
「うん、いるよ部屋は分かる?」
「105号室、向かって右端ね、テラコッタの植木鉢が置いてある」
「ーーーーえっ!」
夜の暗闇では分からなかったが105号室の玄関先には赤茶のテラコッタの植木鉢が3個並んでいた。花は咲いていない。驚いた声の蔵之介は通話ボタンを切り玄関の扉を開けた。ポプラの樹の向こうにパールピンクの軽自動車が停まり莉子が手を振っていた。蔵之介の表情が明るくなり笑顔で「こっちこっち」と玄関前の駐車スペースを指差した。
「こんにちは」
「こんにちは」
眩しい光の中、逆光に立つ莉子の長い髪の毛が薄茶に透けて見えた。一瞬眩しそうに目を細めた蔵之介は玄関先でその身体を抱きしめた。
「会いたかった」
「会いたかった」
互いを強く掻き抱いた。蔵之介の唇が近寄った瞬間、莉子は周囲を見回しながらその口に手を当てた。
「んが!」
「駄目よお爺ちゃんがいるわよ」
「あ、太田の爺ちゃんだ」
14:00の市営住宅は静まり返り、近所の高等学校のチャイムの音が聞こえた。公園の砂場のベンチでは80代ほどの男性が杖を付き日向ひなたで大欠伸おおあくびをしていた。2人は笑いながら慌てて玄関の扉を閉めた。蹴散らすようにサンダルを脱ぎ、パンプスが左右に転がった。そのまま廊下に倒れ込み見つめ合いながら口付けを交わした。
「会いたかった」
「私も会いたかった」
今度は深く口を塞ぎ互いの舌先を舐め絡め合い唇に吸い付いた。
「好き」
「愛してる」
「蔵之介が好き」
「莉子、愛してる」
そして軽く唇を啄んだ蔵之介は莉子の乱れた髪を整え、捲れ上がったワンピースの脹脛ふくらはぎを隠した。そして中腰になり両手首を掴んだ。
「よいしょ!」
「そんなに重くないわよ!」
「よいしょ、こらしょ、どっこいしょ!」
起き上がった莉子の足元には白いケーキの箱が転がっていた。
「ああああああ」
「え、なにか買って来たの?」
「プリン、蔵之介プリン好きでしょ!」
「そうだけどプリンなら大丈夫じゃない?」
「生クリームが乗ってるの!」
莉子はリビングに駆け込みテーブルで箱を開き中身を確認した。案の定、2個のプリンの生クリームは左に寄っていた。
「あぁぁぁぁぁ」
「大袈裟だな、食べられるよ」
「可愛かったのに」
「お茶入れるね、紅茶で良い?」
35歳の莉子は珈琲を好む、然し乍ら蔵之介の中の18歳の莉子は砂糖の入っていない珈琲を飲んで苦々しい顔をしていた。
「あ、うん」
「莉子、珈琲苦手だもんね」
「ーーうん」
莉子はふとした瞬間に残酷な時の流れを思い知らされた。
(仕方ないわ)
気を取り直し天井を見上げると木製のウインドゥチャイムが揺れていた。この部屋にはやや可愛らしい、過去の女性の置き土産なのかもしれない。
市営住宅といえば古めかしい土壁の和室、畳、狭い風呂釜を連想しがちだが蔵之介の住む 緑ヶ丘団地1-A棟 の築年数は浅く、壁は白いクロス張りでフローリング、システムキッチンにセパレートの浴室トイレの2LDKだった。
「綺麗ね」
「昨日頑張って掃除したんだよ」
確かに、部屋の端には追いやられた雑誌やゲームの景品が積み上げられていた。
「綺麗ってそういう意味じゃないわ。普通のアパートみたい」
「でもね、実は」
蔵之介はおどろどろしい面持ちで呟いた。
「事故物件なんだ」
「ーーーーえっ!」
「10年前、莉子の座っているそのあたりで一人暮らしのーー」
「きゃっ、ちょっ!」
莉子が慌てて立ち上がり飛び去る姿に蔵之介は「だーまされてやんの」と指をさして笑った。
「此処は9年前に建って僕が1人目の入居者なんだよ」
「ひ、酷い!本当に怖かったんだからね!」
「ーーーというのも嘘で実は」
「やめてよ、もう!」
17年前となんら変わりは無い遣り取り。
「あ、1-A棟って蔵之介のクラスと同じだね」
「よく覚えてたね」
「忘れないわ」
視線をテーブルに落とした莉子はプリンを並べ始めた。蓋を外し付属のプラスティックのスプーンを隣に置いた。白い生クリームはガラスの器の縁から莉子の指先に垂れて落ちた。蔵之介はその指先を手に取ると莉子を凝視しながら口に含み舌先でゆっくりと舐め取った。
(ーーーーん)
莉子の指先は震え、肘から肩を伝った痺れはやがて溜息に変わった。何気に隣の部屋を見るとベッドが覗き心臓が飛び跳ねた。
「莉子、どうしたの」
「ーーーえ、どうって」
「落ち着かないね」
「どうかな、初めて来た部屋だから」
「ふーーん、プリン食べて良い?」
「うん、食べよう」
高等学校1年生だった蔵之介は早熟な男の子だった。付き合って1ヶ月経った頃「蔵之介は童貞では無い」と下世話な噂話を耳にした。あれだけ周囲に女子生徒が群がっていれば然もありなん。ただそれを聞いた莉子は肩を落とした。
(そんな、今更、なにを思い出してるの!)
今日は白に水色の薔薇の刺繍が入ったシルクのランジェリーを身に付けて来た。そんな予定がある訳では無いが莉子にほんの一滴の期待があったのかもしれない。
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