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そして莉子の左の薬指に結婚指輪は無く代わりに右の薬指に薄黒い銀の指輪が嵌められていた。その指輪は中心に向かって細くなるテーパード型のリング、マーガレットのモチーフが形どられていた。
「良いの、結婚指輪なんか外して」
「此処に来る時はこの指輪だけで良いの」
莉子は右の薬指を天井に翳かざした。
「シルバーだから黒ずんで見栄えが悪いよ」
「これが良いの、18歳の誕生日に貰う筈だった指輪だもの」
「新しいの買おうか」
「これが良いのよ」
蔵之介は襟足を掻いて溜息を吐いた。
「どうしたの」
「僕が普通に働いていたら莉子になんでも買ってあげられるのに」
(ーーーやっぱりそうなんだ)
やはり蔵之介は生活保護受給者だった。
「蔵之介が居れば良い」
「なんだか自分が情けないよ」
蔵之介は現在の自分を恥じているようだった。そんなに自分を卑下しなくてもと莉子は思ったが男性としての自尊心がそうさせるのだろう、力無く投げ出したジーンズの右脚を見つめた。
「あっ!卒業アルバム!」
部屋の隅に積み上げられた本の中に高等学校の卒業アルバムが紛れ込み、莉子は目を輝かせた。
「僕、1年休学したから知らない子ばっかりだよ」
「馬鹿ね、そんな生徒の顔なんて興味ないわよ。倉橋先生居るかなぁ」
「倉橋ならD組の担任だよ」
「うわーー!懐かしいってか禿げ上がってる!」
「莉子、それは失礼なんじゃない?」
「だって見て、神々しいくらいに光ってーー」
膝を付いてにじり寄った蔵之介が莉子の両肩に手を置いた。
「蔵之介?」
「ねぇ莉子、莉子は卒業アルバムを見に来たの?」
「ごめん、つい懐かしくなっちゃった」
莉子は壁際に押し付けられた。
「僕だけを見て」
蔵之介は思い詰めた目をしていた。
「見てるわ」
その目に吸い寄せられた莉子は蔵之介の首筋に顔を埋めた。
「莉子、好きだったんだ。忘れられなかった」
蔵之介は熱に浮かされた熱い吐息で莉子の首筋に唇を這わせた。莉子は背筋を伝う快感に身を捩りながら蔵之介の首に腕を回した。薄い布地越しの唇が乳房の突起を探し回り、それが掠める度に吐息が漏れた。
「ーーーーあ」
蔵之介の左手が忙しなく動きワンピースの裾が捲り上げられた。顕になった太腿ふとももを這い回る指先がパンティに触れた。
「あっ」
然し乍ら我に帰った蔵之介はワンピースのボタンを外す事なくその脚を布で隠すと胸の谷間に顔を埋め深く息を吸ってそして吐いた。
「駄目だ」
「蔵之介、どうしたの」
「やっぱりこれ以上は駄目だよ」
「蔵之介」
「僕が莉子を離せなくなる」
「それでもーーー!」
「それでも、それでもどうするの、莉子は離婚しないよね?」
「ーーーー」
「僕は莉子を不幸にするだけだよ」
莉子は眉間に皺を寄せながら何度も首を横に振った。
「僕はあの時の僕じゃない」
「蔵之介」
「ただの障害者で市営住宅に住んでいる生活保護受給者だよ」
莉子の目尻には涙が浮かんだ。
「僕はもうあの時の蔵之介じゃない」
蔵之介は莉子から視線を逸らしてもう2度と動かない右脚を見た。
「蔵之介!」
莉子は翳かげりのある横顔、伏せた瞼まぶた、その首筋に縋すがり付くと頬に涙を流して声を大にした。
「それでも、それでも会いたかった!蔵之介に会いたかった!会えて嬉しかった!蔵之介に会いたかった!」
「莉子」
「そんな悲しい事、言わないで」
「莉子」
「蔵之介は蔵之介よ、悲しい事は言わないで」
「ーーーごめん」
西日の差し込む窓、2人はゆっくりと口付けた。
17:00
無情にも街に流れる夕焼け小焼けのメロディが別れの時間を告げた。
「来週も来るから」
「莉子」
莉子は涙をティッシュで拭き取ると蔵之介に次は食事を作るからなにが食べたいかと尋ねた。蔵之介はその気持ちの切り替えの早さに驚きつつも「ハンバーグ」と答えた。
「分かった、作って来る。フライパンはある?」
「ある」
「フライパンの蓋はある?」
「ない」
「それじゃフライパンと蓋は持って来るね。他になにか食べたい物はある?」
左右に転がったパンプスを揃えて履いた。
「オムライス」
「電子レンジはあるわね、動くよね?」
「動くよ」
「それじゃ作って来るね」
莉子は玄関の扉を開けると振り返った。
「ねぇ蔵之介」
「なに?」
「この鉢植えに花を植えても良い?」
蔵之介は雑草が生えた鉢植えの中を覗き込んだ。
「僕に世話出来るかな」
「強い花だから大丈夫」
「なんの花?」
「マーガレット、白いマーガレットの苗を買って来るね」
「白いマーガレット?」
「うん」
「莉子が好きな花だね」
「来週買ってくるね、一緒に植えよう」
「楽しみだね」
「うん」
今、莉子の薬指にはマーガレットの花の指輪が嵌められている。
(マーガレット)
然し乍ら白いマーガレットの花は莉子にとって辛く悲しい思い出の花だった。
(楽しみだね)
あの夜、救急病院に搬送されICUの管で繋がれた蔵之介の病室を見舞いに行った莉子の手にはマーガレットの花束が握られていた。
「如何して息子を連れ出したの!」
「ーーーそれは」
「あんな夜に!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「帰って頂戴、帰って!蔵之介には2度と会わないで!」
その場に泣き崩れた蔵之介の母の姿。薄暗い廊下に叩き付けられたマーガレットの花弁は彼方此方あちらこちらに散乱し、莉子はそれを看護師と一緒に拾い集めた。その頬には涙がとめどなく溢れ鼻水が垂れた。
「さ、帰りましょう」
「ーーーーーー」
「立って、ね?」
「ーーーーはい」
背中に添えられた看護師の手の温かさは今も残る。
ーーーーあれから17年
莉子と蔵之介は失われた時間、叶わなかった出来事をひとつひとつ手繰たぐり寄せ塗り替えていた。