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「この花じゃなきゃ嫌なんです」
新婦は、テーブルの上に置いた写真を両手で押さえていた。庭に咲いた薄い桃色のバラ。葉の影に、ホースを持った女の人の足が写り込んでいる。
「母が育てたバラなんです。母は、式に来られないので」
「お母様は」
「去年の春に」
私はうなずいて、写真を自分のほうへ少しだけ引き寄せた。
ミモザガーデンでは、提携の花屋以外の花を会場に入れない。持ち込みの花は水が合わず、半日でしおれる。しおれた花を写真に残したくないから、十年前からそういう決まりになっている。
決まりの話をするのは簡単だった。簡単なことは、客の顔を見てからにする。プランナーを十年やって、覚えたことの一つだ。
新婦の目は赤くなりかけていた。隣の新郎は、何も言えずに新婦の背中を見ている。
「会場には飾れません」
私は言った。新婦の肩が落ちる。
「でも、お父様に渡す花束を、お母様のバラで作りましょう」
新婦が顔を上げた。
「花束贈呈のとき、お父様が受け取る花束です。提携の花屋に、お母様のバラを一本ずつ巻いてもらいます。その日の朝に切っていただければ、夜までは持ちます」
「……一本ずつ」
「はい。お父様は、お母様のバラを抱えて写真に写ります」
新婦が新郎の袖をつかんだ。新郎は何度もうなずいて、初めて新婦の背中から手を離した。
私は見積書の余白に「花束贈呈・持ち込みバラ(新婦母)」と書き、花屋に頼む段取りを三つ、頭の中で並べた。朝に受け取る、水揚げ、リボンの色。リボンは新婦に選んでもらう。
打ち合わせ室の扉はガラスで、ロビーが見える。新婦が入ってきたときから、扉は少し開いたままだった。
ロビーのソファに、濃紺のスーツの男が一人、座っていた。式の見学に来た客ではない。見学の客は庭を見る。その男は、こちらを見ていた。
私は目を戻し、リボンの見本帳を開いた。
◇
家に帰ると二十二時を過ぎていた。
玄関の結婚写真の前を通り、鍋の味噌汁に火をつける。夫の帰りは二十三時過ぎだと、メッセージが来ていた。『残業。先に寝てて』。
先に寝たことは、五年で一度もない。
二十三時二十分、玄関が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
悠人はネクタイを緩めながらキッチンに入ってきて、鍋をのぞいた。私が買った青いシャツの襟が、少しよれている。
「来月、でかいピッチがあるんだよ。グランシエルの広告の、競合コンペ」
「ホテルの」
「そう。ホテルの連中が代理店に金を払うのは、飾り付けじゃなくてブランドのためなんだ。お前の式場みたいに花を並べて終わりって話じゃない」
悠人は椅子に座り、スマホを伏せてテーブルに置いた。
「飾り付け屋は気楽でいいな。客の花を並べてりゃ給料出るんだから」
「そうね」
味噌汁が煮立つ前に火を止めた。五年で身についた癖だった。
椀をテーブルに置くとき、左手の指輪が照明を受けた。内側に『Y to S 2021.12.12』と彫ってある。悠人のほうの指輪は、去年から見ていない。「仕事のとき邪魔なんだよ」と言っていた。
悠人は味噌汁を一口飲んで「薄い」と言い、それ以上は何も言わずに食べた。
私は、飲み込んだ夫の言葉を一つ数えた。
今日のは、四百十二個目だった。
◇
翌朝の朝礼で、支配人の坂上は老眼鏡を額に上げたまま、ミモザガーデンが先週付けでグランシエルの傘下に入ったこと、今日から新しいオーナーが来ること、自分は今月いっぱいで退くことを、順に告げた。それだけだ、と最後に言って、口を閉じた。
ロビーに集まった十二人のあいだで、再建屋、という言葉が低く行き来した。グランシエルは去年だけで、赤字の式場を三つ閉めている。業界で知らない人はいない。
後輩の美咲が、私の袖を引いた。閉められますかね、と目で聞いている。私は首を横に振った。閉められないように段取りする。段取りでどうにかなったことしか、私は知らない。
自分の机に戻りながら、グランシエル、と口の中で言った。
夫の客だった。夫が来月、ブランドを売り込む相手が、私の式場を買った。
机の上に、新しい申込書が置いてあった。
ウェブから届いた申し込みを、受付が印刷して、手の空いている担当者の机に置く。今朝の一枚は、私の机に来た。
『サプライズプロポーズプラン お申込書』
依頼者の欄。桐谷ひなの、二十四歳。
プランの欄。庭と披露宴会場、映像、司会、招待客三十名まで。
その下に『プロポーズする相手』の欄があり、写真が貼ってある。
写真の男は、青いシャツを着て笑っていた。
私が買ったシャツだった。襟の形で分かる。去年の夏、二枚で一万二千円。右端に、写真を切り取った跡と、知らない女の人の手の先だけが残っている。
名前の欄。
『高梨悠人』
高梨は夫の名字で、私の戸籍の名字でもある。職場では旧姓の佐倉で通してきたから、この式場で高梨と呼ばれたことは一度もない。
私は申込書を伏せなかった。伏せると、伏せたことを誰かが見る。
写真をもう一度見た。悠人は、私の前では見せない角度で笑っていた。口を大きく開けて、目を細めて。
机の内線が鳴った。受付からで、オーナーが支配人室で私を呼んでいる、と告げた。
私は申込書をクリアファイルに挟み、立ち上がった。手は、いつもの手だった。
支配人室には、昨日ロビーにいた男が座っていた。
坂上の机に、坂上の椅子に。坂上は壁際に立っている。
「一ノ瀬です」
男は名刺を出さなかった。
「佐倉です」
「昨日の、持ち込みのバラの客」
一ノ瀬は机の上で指を組んだ。
「三十秒で黙らせた。あれは誰に教わった」
「誰にも」
「断ってから案を出す順番は」
「客の顔を見てから決めます。先に案を出すと、客は断られたことに気づきません」
「気づかせたのか」
「気づかないと、次に無理を言います」
一ノ瀬は、少しのあいだ何も言わなかった。笑いもしなかった。
「来週の水曜までに、この式場の利益を出す案を出せ。出せなければ閉める」
坂上が壁際で、額の老眼鏡を下ろした。
「はい」
私は言った。言ってから、閉めるという言葉の重さを数えた。十二人の契約と、庭のミモザが三本。
一ノ瀬の目が、私の手元に落ちた。
「それは」
「新規のお申し込みです。プロポーズの」
「受けるのか」
「……これから決めます」
一ノ瀬は、私の顔をもう一度見た。それから「行け」と言った。
机に戻り、クリアファイルから申込書を出した。
写真の下の欄を、順に読む。
『ご希望の日時』
『12月12日(土) 夕方から』
十二月十二日は、私と悠人の結婚記念日だった。五年前の、その日。
『備考』
『彼にとって特別な日なので、上書きしたいんです♡』
コメント
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お疲れさまです、みぅです🖤 1話、めっちゃ引き込まれた…。 新婦のバラを断るプロの動きと、家での「薄い」のやりとり、その温度差がもう胸にくる。夫の言葉を四百十二個目って数えるあたり、静かに抉ってくる感じがすごく好き。で、ラストの申込書——夫を「上書きしたい♡」って書いた女の存在が、もう完全にホラーだよね…。 タイトル「写真の男」が、笑顔の夫の写真で回収された瞬間、背筋が冷えた。続き、絶対読みたいです。