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「十二月十二日、何の日か覚えてる」
夫が味噌汁の椀を置いたところで、私は聞いた。
悠人は一度、天井を見た。
「……記念日だろ」
「そう」
「でかいピッチの直後なんだよ。たぶん無理だ。埋め合わせはする」
たぶん、のところで語尾が少し上がった。私はそれを聞いて、聞かなかったことにした。
「分かった」
「怒ってないよな」
「怒ってない」
悠人は安心した顔で、スマホを裏返して通知を見た。すぐにまた伏せた。
四百十三個目。私は数えて、椀を下げた。
◇
翌朝、出勤して最初にしたのは、申込書の担当者欄に名前を書くことだった。
『佐倉』
断れば、この申込書は別の誰かの机に行く。別の誰かが、夫の笑った写真を見て、十二月十二日の段取りを組む。私はそれを横で見ることになる。
受ければ、段取りは私のものになる。庭も、映像も、誰をどこに座らせるかも。
ペンを置くまでに、迷った時間はなかった。
名札も、メールも、契約書も佐倉。結婚したとき、客に覚えてもらった名前を変えるのが面倒で、そのままにした。悠人は「どっちでもいい」と言った。
「新規ですか」
美咲が後ろからのぞいた。昨日の朝礼から、美咲は私の机に来る回数が増えた。
「佐倉さん、うち、本当に閉められますかね」
「閉められないように段取りする」
「段取りで、どうにかなります?」
「どうにかなったことしか、知らない」
美咲は納得していない顔で、申込書を見た。
「プロポーズ。私がやる」
「佐倉さん、プロポーズのプラン、苦手って言ってませんでした? 男の人の段取りに付き合うの、気が重いって」
「得意になる」
美咲は変な顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
私は依頼者の電話番号に電話をかけ、明日の午後の打ち合わせを取った。電話の向こうの声は高くて、語尾が全部伸びていた。
◇
桐谷ひなのは、約束の十分前に来た。
明るい茶色の巻き髪、白いニット、白いスカート。スマホを顔の高さに構えたままロビーを歩き、庭を撮り、私を見つけると「佐倉さんですか」と画面越しに言った。
「佐倉です。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「かわいい。この式場、写真どおり」
隣にもう一人いた。同じ髪型の友人。水野かれんと名乗り、ひなのが話すあいだずっとスマホを構えていた。
打ち合わせ室で、ひなのは申込書の写しを見ずに話し始めた。
「庭でやりたいんです。夕方の庭で、彼を呼んで。それで、二人のムービーを流して、友達と彼の会社の人に見てもらって、最後に私からプロポーズ」
「桐谷様から、お相手の方へ」
「そう。逆プロポーズ。今どきでしょ」
かれんが笑った。ひなのが笑うと、半拍遅れて笑う。
「お友達は何名ほど」
「二十人くらい。配信仲間とか。あと彼の会社の人、十人くらい。後輩の柴田くんが窓口になってくれるって」
私は手帳に書いた。友人二十、会社十。窓口、柴田。
「お相手の方は、この計画をご存じですか」
「全然。サプライズだから。その日は『恵比寿のレストラン貸し切り』って言ってあるの。会社の人にも『サプライズパーティー』としか言ってない。幹事は私で、柴田くんが『高梨さんの知り合い』って紹介してくれるから」
「かしこまりました。当日までお相手の方には、私どもから一切ご連絡しません」
「お願いします」
ひなのはそこで、スマホを一度テーブルに置いた。
「あのですね、佐倉さん。先に言っておいたほうがいいかなって」
「はい」
「彼、奥さんいるんです」
私は手帳から顔を上げた。顔を上げるのは、聞いている印だ。
「でも、もう終わってる人で。離婚するって言ってます。地味で、仕事しか能がなくて、飾り付け屋なんですって。彼が言ってました」
飾り付け屋。
夫の言葉が、知らない女の人の口から、同じ形で出てきた。
「その日ね、彼と奥さんの記念日だったんですって」
ひなのは、口の端を上げて言った。
「だから上書きしたいの。彼にとって特別な日を、私の日にするの」
「上書き」
「そう。申込書にも書いたでしょ?」
「拝見しました」
私はうなずいた。うなずくのは、受け取った印だ。
「ムービーのために、お二人のお写真をお預かりしてもよろしいですか。出会いから今日までの」
「いっぱいあります!」
ひなのがスマホを持ち直した。
「日付順に送ります。私、全部日記みたいに撮ってるから」
「ありがとうございます。字幕はお客様の言葉で入れますので、写真ごとに一言、添えていただければ」
「えー、楽しそう」
かれんが「ひなのの言葉、センスあるもんね」と言った。
それから二十分、ひなのは庭の灯りと白いドレスの話をした。私は全部書いた。
帰り際、ひなのが私の左手を見た。
「佐倉さん、結婚してるんだ」
「ええ」
「旦那さん、優しい?」
「忙しい人で」
「うちの彼も忙しい」
ひなのは、私の指輪から目を離さずに言った。
「奥さんが家にいると帰りたくないから、残業って言ってるんですって。かわいそうですよね、彼」
「……そうですね」
私は扉を開けて、二人をロビーまで送った。石畳の上で、ひなのはもう一度庭を撮り、『下見二回目♡』と打っているのが見えた。
二回目。
私は、その言葉を聞かなかったことにしなかった。
席に戻ると、美咲が「どんな人でした」と聞いた。
「若い人」
「それだけですか」
「言葉が全部、人から借りたものだった」
美咲は首をかしげた。私は申込書の写しに、ひなのの希望を一つずつ打ち込んだ。庭、夕方、ムービー、友人二十、会社十、窓口は柴田、白いドレス、逆プロポーズ。打ち込んでいるあいだ、手は一度も止まらなかった。
打ち込み終えて、備考の欄をもう一度読んだ。
『上書きしたいんです♡』
私は画面を閉じ、花屋に電話をかけた。新婦の母のバラの、リボンの色が決まったからだった。
◇
家に帰ると、悠人のスーツが椅子の背にかかっていた。
悠人はいない。『今日も残業。先に寝てて』。二十一時四十分の受信だった。
クリーニングに出す日は木曜と決めている。昨日出し忘れた一着を、私は玄関に運ぼうとして、ポケットを一つずつ確かめた。左の内ポケットに、折り畳んだ紙が一枚あった。
ミモザガーデンの封筒の色だった。
開く前に分かった。見学に来た客に渡す、見学予約確認書。私が十年、何百枚と渡してきた紙。
開いた。
『ご見学予約確認書』
『ご予約日 10月20日(火) 14:00』
十月二十日は火曜で、私の休みの日だった。
『ご予約者 桐谷ひなの様』
その下の行に、私は指を置いた。
『ご同伴者 高梨悠人様』
コメント
1件
**みぅ🤍🥀**: 『上書き』第2話、読んだよ……。「十二月十二日」って最初に出てきたときから、なんか胸の奥がきゅっとなった。ひなのの“上書きしたい”って言葉が、こんなに重い意味になるなんて思わなかった。佐倉さんが自分の手で夫のプロポーズ段取りするって決めたとき、表情は見えないのに、すごく静かな覚悟が伝わってきたよ。ポケットの確認書、あれを見つけた瞬間の絶望みたいな感情が、余韻になってずっと残ってる。続き、気になるよ……
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